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沈黙が欲する独占欲の証



「もう十分じゃないか?」

「…もう少し我慢しろ」


くぐもった唸り声ともとれる返事を聞きながら、力なく風呂の縁に項垂れるナマエの濡れた髪へシャンプーを馴染ませる。この行為も、もう三回目だ。洗えば落ちる、そう寄越した彼の主張通り、泡の中から覗く髪はおおかた以前の銀色を取り戻していた。

鈍く風呂の明かりを反射する髪。指の間の柔らかな細い線の感触が、以前の記憶を呼び覚ました。そういえばこんな風に、光の下で輝く銀糸に、しょっちゅう目を奪われていた、と。ぐったりと風呂の縁に頭を乗せ、大人しくおれに髪を洗わせる彼の耳は、ほんのり赤く色付いていた。そろそろ出ないと、ゆで蛸にでもなりそうだ。色の付かなくなったシャンプーの泡を、ぬるい水温のシャワーで丁寧に流せば、淡い石鹸の香りに、こちらまで温かな何かが込み上げてきて、胸のあたりでつかえる。流れる湯と一緒に指の間をすり抜けていく捉えどころのない感触が気持ちよかった。

ひと通り泡を流し終え、項垂れる頭部に声をかける。銀髪の主は、気怠げにゆっくりと頭を持ち上げ、こちらを認識すると、瞳をとろりと甘く三日月型に細めた。礼のつもりか、ゆったりとした動作でおれの手を取ると、指先に酷く優しい口づけを寄越した。指先に触れる濡れた皮膚の感触が、ほんの数秒だけ温度を寄越し、あっさりと離れていく。去り際に、短なリップ音を立てながら。閉じられていた瞼を持ち上げ、こちらを見つめる瞳に、肋骨を折りかねない勢いで心臓が飛び跳ねる。その、慈愛深い仕草にすら反応してしまう自分は最早、末期といえる。目を剥くこちらの反応に、何を思ったのか彼はくつくつと肩を揺らして笑いながら、バスタブの中で一人分の空間を開けるように、端へ身を寄せた。おまえも入ったら、と。

二人分の体積を受け入れて、湯が溢れ出す。すっかり温かくなった体を腕の中に抱きしめれば、温かな温度が体中に広がっていくのを感じた。こちらに背を預ける彼の、晒される細いうなじの滑らかさに、思わず唇を寄せ、石鹸の香りを胸の中に目一杯に吸い込む。いつでもこうやって、抱きしめることができたら、どれだけ救われるだろうか。


「ナマエ……、一緒にいてェ」

「…ん」

「船に縛り付けてでも、だ」


腕の中の細い肩はくつくつと揺れ、物騒だな、と小さく呟く。その声はどこか笑みを含んでいた。後ろ手に腕を回し、おれの髪をひと撫でする手は、相変わらず、あやすみたいに優しく、上から下へ丁寧に髪を梳く。おれが力づくで船に乗せるなんて事、するわけがないと、見透かすみたいに。自身の胸の奥で、泥のように独占欲が溢れ出てくる気がした。

憂鬱な気分に任せて、滑らかで白いうなじへ歯を当てると、腕の中の体が強張るのがわかった。柔らかく反発する感触を歯列に感じながら顎へ徐々に力を込めていく。おれの髪を撫でていた手は、少しの躊躇いの後、強引におれと首の間に手を差し入れた。やめろ、と文句をつけながら、食い千切られていないか確かめるように、ナマエの指先は、皮膚に落ちた溝をなぞる。表情は見えないが、妙にゆっくりとしたその動きから、湿っぽい空気が伝わってくる気がした。

遠慮がちにこちらを振り向くあの困り果てた顔。濡れた髪を耳にかけてやりながら、言い淀む彼の言葉を無言で待つ。こちらの気を伺うような双眸。おれは拒まれる、そう直感的に理解し、脳の奥で毒のように、負の感情が拡がっていくのがわかった。






獣のように噛み付かれた自身の首が、熱を持ってしょうがなかった。止せばいいものを、恐る恐る振り返る。おれの髪を弄りながら、じっとこちらを見つめる男の顔をしたローに、色々な感情が込み上げてきて、喉の奥から内臓が出てきそうなほど、どんどんと胸を叩かれて苦しい。久しぶりに再会してからというものの、この目に見つめられると、どうも自分が自分じゃないみたいに乱されて、腹の奥がぎゅうぎゅうと締め付けられるのだ。

以前からの、彼を大切に思う気持ちとは明らかに異なる感情を自覚してからというものの、あの珀鉛の少年に、こんな感情を持ち合わせること自体、酷い罪悪感を覚える自分がいた。肉体を明け渡すだけならまだしも、無責任に気持ちを求めるには、足枷となるものが多過ぎる。そんなことが頭にこびりついて、この真剣な瞳に見つめられると、後ろめたい気持ちで、どうにかなってしまいそうだった。おれは今も昔も変わらず、ローが特別な存在でいることを望んでいるのだ。


「ロー、もうさ、この宿を出たら、会いに来るな」


きっとそれが、彼やおれのためになると思った。元来、責任感の強いやつだから、恩返しとか、そういうこと考えているのだろう。強い想いを履き違えている可能性だってあるし、その想いを利用して身を投じるのも、おれは遠慮したかった。


「…もう、おれや、ロシナンテさんに固執することないでしょ。それより、本当にちゃんとした意味で好きな相手を見つけてさ、ね、その子と…」

「断る。つーか、固執してんのはどっちだ」


おれの言葉を遮るローの声色は酷く低く、落ち着いていた。こちらを見つめる双眸は、やっぱり鋭くて、真っ直ぐで、胸が苦しくなる。


「わかってねえのはあんただ、ナマエ。…おれはもうガキじゃねェし、あんたはおれの子守でもねェ。」

「………」

「ちゃんとした意味で好きだ?
 知るかそんなもん。……おれは、あんたが居ればそれで良い。思い違いでも、なんでもねェよ」

「い"っ……!」


ガリ、と、肩口で肉を破る妙に生々しい音と共に、皮膚が燃えるような熱を持つ。おまけに、体の骨が砕けそうなくらい、回される腕に力が込められて、息が詰まった。肩に埋まる冷んやりと濡れた黒髪が、火照った体に、妙にはっきりとした感触を残す。

それで、あんたは、おれだけのものになれば良い。そう呟いた声は、こんな静寂の中で、聞き取れないはずもなくて。彼にしては、弱々しいその声色に、針に刺されるみたいに、切なさが胸に溢れてくる。おれは、自身の腕を伝い、薄い血が湯の中に流れ落ちていくのを見つめながら、背中にぴったりと隙間なく引っ付く25歳児に体重を預けた。



沈黙が欲する独占欲の証



不意に、ナマエの嗜好する煙草の香りがして、途中まで読んでいた本を窓際へ置き、月の輝く闇空を見上げる。窓から吹き込む風は、風呂で温まった自身の体温をすっかり奪い去っていた。

数時間前。アヘンの原料はこの国の空、不動の雲の上で栽培されている、そう明かすとナマエは疑いもせず、カメラ片手に不自然な雲へと、月歩で向かっていった。手練れているとは思っていたが、六式を体得していることは知らなかった。雲の上に行くという難題をいとも簡単にやってのける彼の底知れぬ強さを、実感せざる負えない。さすがに、大佐という地位を与えられているだけのことはある。ずっと、昔から知っているのに、再会してから結局、ナマエの実力は、まだ計り知ることができていなかった。




畑の場所さえ掴めれば、今回の任務は一旦収束するのだろう。ナマエから風呂場で伝えられたあの言葉が頭の奥に残っていた。たとえ体を許しても、あれが、あの人自身の本心なのだろう。澄んだ空気の中で、暗い混沌とした固まりを消化しきれず、温め直したコーヒーと一緒に喉の奥へ流し込む。

幾ばくもしないうちに、闇夜の中を、すっかり以前の美しい色を取り戻した髪を月明かりで鈍く輝かせながら、こちらへゆっくりと降りてくる陰は、窓際に立つおれを認識すると、月のような金色の瞳を一瞬見開いた。それから、まるでどこかの国の王子のように、静かな動作で窓枠に足をかけ、吸っていた煙草を手に取り白い息を吐き出す。こちらを見つめる目の奥には静かな笑みを浮かべていた。


「湯冷めするぞ、ロー」


ナマエは、窓枠の上で器用にしゃがみ込むと、細い指で、窓際の灰皿へ吸い殻を押し付けた。おれが貸した服ではサイズが合わなかったのか、捲し上げた袖口から覗く白い腕を思わず掴む。自分の意思に反し、咄嗟に出たそれは、まるで別れの挨拶でもしてきそうな雰囲気に耐えかねて出たものだった。掴まれた腕に視線を落としながら、ナマエの瞳は考え込むような目つきに変わる。

実際は数秒もしない時間が、停止した映像の中にいる錯覚にでも陥ったように長かった。ゆっくりと頭を上げ、こちらを見つめる瞳は、それが合図かのように、やんわりとおれの手を腕から外す。それから、差し出された両腕に、ふいに引っ張られて、抱き寄せられた。ナマエの腕が、脇の下に入り込み、背中に回される。貸した服から漂う彼の匂い、ぎゅうぎゅうと、自分の中に取り込むみたいに力が込められる両腕。体格差から、おれの腕の中にすっぽりと収まったら体から、やわらかな体温と鼓動が伝わった。

こんな風にナマエから抱きしめられたのは初めてで、らしくもなく動揺していると、腕の中の銀髪頭は、なにかと葛藤するような唸り声をこぼす。そして、静かに、ぽつぽつと言葉をこぼした。


「……ロー、あのさ、…おれはね、お前が幸せになることを望んでるのよ。
 …そのためだったら、なんでも手伝ってやれる。
 お前も、わかるよね?…そういう風に思う気持ち……、お前の場合、認めなそうだけどね……。好きとかでは片付けられない。…おれとローの間にあるのは、そういう揺るぎない絆だろ。
 ………だよな?」

「…ふっ、………まぁ、そうだ」

「…笑うな。…でさ、
 …おれといて、お前は本当に幸せになれるわけ?」


自信ないよ、おれ。
そう呟いた、か細く今にも消え入りそうな声。腕の中の体温と鼓動が跳ね上がるのを感じながら、話していくうちに段々と俯いてしまった顔を上げさせる。月明かりで照らされる声色の通り、情けなく眉尻を下げたナマエの表情。羞恥からか、頬を紅潮させながら、こちらをじっと見つめる見開かれた金の双眸には、今にも溢れ出しそうなほど涙の膜が張っていた。その表情に、胸の左側が、我ながらおかしなほどに跳ね上がる。信じられないくらい嬉しいのに、胸を突き上げてくる鼓動に、何かが込み上げそうになる程、苦しかった。


「…っ、幸せだぜ、夢みたいにな」








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