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唇に燻ぶる花吐息、春を煩う生温い瘴気



初めて来た時は無機質で慣れなかった宿の一室も、今や生活のにおいみたいなものが染みついている気がした。日付が変わる前にここに帰ってこれたのは久しぶりだ。おれが部屋に入ると、尊大な態度でソファに寝転がり、本を読んでいたローはこちらを一瞥したが、すぐに手元の文字へと意識を落とした。機嫌でも悪いのかと思ったが、大体いつもこんな様子だったかもしれない、と考えを改め気を取り直す。

重たい制服を着替えて、二人分の淹れたてのコーヒーを手に部屋へ戻り、相変わらず占領されているソファの前に腰を落として、熱い液体に口をつける。コーヒーの苦味と芳ばしい香りが口の中に広がり、肩の力が抜けていくのが自分でもわかった。ソファはひとつしか無いのだから少しは気を遣って退いてくれても構わないのだが、背後の主は少しも体勢を変える様子は見受けられない。ただ、頭の後ろでページを捲る紙の擦れる音だけがした。ああ、やっぱり少し不機嫌かもしれないな、と目の前で湯気を上げるもう一人分のマグカップを眺める。

この島を明日の昼には出て行く、そう言っていたのはさっきまで一緒に飯をしていたペンギンだ。特におれがローに滞在期間を聞くことはなかったし、彼も何も言わなかった。ただ、この島は比較的、ログが溜まるのに時間がかかる。ローたちと出会ってから、正確に日数を数えていたわけではないが、そろそろ新しい島への航路に進路が書き換えられている頃だろうとは考えていた。海賊を野放しにしておいて言うのも何だが、ロシナンテさんの思い出話ができなくなったり、立派な大人に成長したローを眺められなくなるのは、少し寂しい、と思う。なんだかんだ濃密な時間だったからこそ、そう思うのかもしれないと、自分の感傷的な気分に苦笑がこぼれた。

ぱたん、と背後から本を閉じる音がすると同時に、おれが机に置いたコーヒーへ手を伸ばす腕が視界に入った。どうやらソファを占領するのはやめたらしい。やっと空いたか、と重い腰を上げて、一人分の隙間ができたソファへ体を滑り込ませる。背もたれへ体を預けると、自分の視線より少しだけ高い位置にある黒髪が視界に入り、より心細さ、みたいな感情が増した。


「元気でな、ロー」

「……誰から聞いた」


ペンギン、という言葉が喉元まで出かかったが、返された低い声に思わず飲み込む。ああ、やっぱり機嫌が悪かったか、と鋭くこちらを睨む瞳に誤魔化すように笑い返せば、苛つきに任せて目の前の仏頂面は舌を打った。不機嫌とかその程度の話ではなくて、たぶん、怒っている。唐突に掴まれた腕を、みしみしと骨の軋む音が聞こえてきそうなほど強く握られて、鈍い痛みにほろ酔いだった脳が醒めていく気がした。やめろ、とその腕を自分の方へと引き寄せるも、おれの腕を引く力を見事に利用され、そのまま押し倒さる。二人分の体重を受けて狭いソファへ、あっさりと沈み込む自身の体。少しも思い出に浸らせてくれる様子のない不満顔に、感傷を返せと言いたいのを堪え、おれは、でかくて重たい体を押し返した。




ほのかにアルコールの香りを漂わせて帰ってきたナマエになぜか無性に苛ついた。らしくもなく、間も無く来る別れの時間に、焦っていたのかもしれない。おれは海賊で、こいつが海軍である限り、世界線は近づくことはあれど交わることはないとわかっていた。だから、余計にこいつが自分と離れ離れになった後のことを考えると苛つくのだ。このまま縛り上げて無理矢理、自船にでも連れていって閉じ込めてしまおうか、と冷静じゃない脳で考えていると、おれの胸を押しながら、眼下でわずかに身を起こしたナマエは、眉尻を下げ困ったように笑みを浮かべてこちらを見上げた。色んなことを手放したような、諦めの滲む表情。昔からそうだ。優しくて愛情深い。それがナマエという男だった。

おれが、無理を言えば恐らく大抵のことは許容される。それはナマエにとっておれが、あの珀鉛病の少年で、慕っていた海兵が残していった子どもだからだ。例え男とそういうことをするのが本意でなくても、おれがキスをすれば、きっと抵抗はしないし、抱きしめたら、仕方がないと、抱きしめ返してくることも容易に想像することができる。それでも、別に構わないと思っていた。一緒の時間を過ごしていれば、望む愛情じゃなかったとしても、独りよがりではなくて、少しは別の形に変わるだろう、と。けれど、それは結局、今日まで叶わなかった。おれを慈しむ表情は散々ガキの頃に与えられてきたもので、どこまでいっても優しさに満ち満ちている。もっと違う関係性で出会えていれば、とナマエの周りにいる男たちを疎ましく思ってしまうほどに。


「…そういう顔するなって」


余程酷い顔をしていたのだろう。細い指先がおれの頬を撫でる。吸い込まれるように、薄い唇へ、自分のものを押し付ければ、少しの躊躇いの後、ゆっくりとナマエの腕はおれの背中へ回された。微かなアルコールとナマエの香りが、頭の奥をぐらつかせる。背中を往復する温度は暖かい。角度を変えて、深く隙間なく唇を塞げば、熱の篭る吐息が皮膚に当たった。細められる金色の瞳に胸が苦しい。何もかもを奪って、この体へ取り込んでしまいたいほどに離れ難いのに、このまま明日が来て、海へと旅立った途端、ナマエは今日までの出来事を思い出す時間さえ、あっさりと手放してしまいそうで、それが無性に許せなかった。

あまりに自分の体中に染みこんでしまった考えが、脳に命令を下したのかもしれない。無意識に呟いていた。一緒に来い、と。まん丸に見開かれる金色の双眸に、自身の肋骨が膨らむ。ナマエはすぐに白い瞼を伏せて、小さく思案声を漏らした。それが、おれの船に来ることを検討しているわけではないことくらいわかったが、伏せられた瞼は睫毛の影を落とし、白い頬はわずかに色づいていた。少しの沈黙のあと、緩やかに瞼を持ち上げ覗いた金色は、穏やかでいて少し照れくさそうに笑みを浮かべる。それは、初めて目にした表情だった。


「愛されてるね、おれ」


愛、名前をつけるなら確かにそうかもしれない。堪らずおれは、ナマエの体温の中へ落ちていった。




唇に燻ぶる花吐息、春を煩う生温い瘴気




風呂上がり。汗に濡れた体を互いに洗い流し、先に髪を乾かし終えベッドへと戻っていったナマエは、外気から逃れるようにシーツへ顔を埋め、ぐったりと深い眠りの中へと落ちていた。銀糸から覗く、甘ったるい香りでもしてきそうな白いうなじに、いつか残した噛み跡はもうない。消えてしまった。どうせまた付けても、すぐに消えてしまう。だから、他の証しを残していこうと考えていた。静かな寝息を立てる体を起こさないように慎重に横へ座る。ベッドは二人分の体重を受けてわずかに沈んだ。シーツから覗く白銀の髪を掻き分け、形の良い耳を露わにさせる。おれは、手元に用意しておいたニードルの鋭利な先端を薄い耳たぶへ押し付けた。そのまま押し貫くために指に力を込める。皮膚を破るような独特な感触。びく、と肩を震わせ、ナマエは寝惚けた声で何事かと短く奇声をあげた。しかし、ニードルはもう貫通する。そのまま手にしていたピアスを通し、素早くキャッチを嵌めてやれば、わずかに血色の良くなった耳には、赤色の宝石が添えられた。星のように細かく光を反射し輝くピジョンブラッドのルビー。やはり、よく似合う。

眠りを妨げられた上に、突然耳に穴を開けられたナマエはおれに向かって抗議の声をあげたが、構わず耳にかけてやった髪を戻し、反対側の耳にもピアスをつけるため、体を無理矢理ひっくり返す。文句を言いながらも大人しくされるがままに反対側の耳をおれへ差し出す彼に、所有欲みたいな感情が満たされていく気がした。もう一度、新しく袋から出したニードルの先端を耳たぶへ押し付ける。皮膚を突き破る感触が気持ち悪いのか、顔を顰めながらシーツを握りしめるナマエのその仕草に、さっきまでの熱い行為が思い起こされて、再び腹の奥が熱を持ち始める。そんなこちらの葛藤も知らずにナマエはとんだ執着心だよ、と小さく文句を寄越した。


「次会うときまで、外すなよ」

「膿んでもか」

「膿んでもだ」


まあ膿むことはない、と付け加えれば、軽快なやりとりがおかしかったのか、くつくつと肩を震わせて小さく笑ったナマエは、口元に笑みを含ませたまま、ベッドの中へ誘うようにおれの腕を引いた。その手に抗わず体を滑り込ませ、腕の中へ華奢な体を閉じ込める。時折、銀糸の間から覗く炎のような赤色は、さっきまでの苛つきが嘘みたいに、おれの気持ちを穏やかにさせ、こんな物で満たされていく自分に苦笑が漏れた。






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