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亡命する星々


表層の海を進んでいた潜水艇は、耐えうる水圧の層まで水深をさげていた。流石に太陽の光は前ほど届かなくなるが、深海に近づけば近づくほど、水温は一定の温度に安定をはじめる。寒い冬の海域を抜けるため、少し歩みは遅くなってしまうが、船ごと船員が凍るよりは良いという判断からだ。この中層の海は、薄光層と呼ばれ、人間の目にはわからないほど、ごくわずかな太陽の光が届くことからトワイライトゾーンとも呼ばれている。限りなく黒に近い濃い青の中で、重力も関係なくただ漂う、プランクトンたちは暗闇の中で微弱に光り、まるで宇宙船に乗っているかのような錯覚に陥りそうになる。

ナマエは、この船で最も大きな窓を備えた観測室で、その美しい光景に見惚れていた。暗く密度の高い闇のなかで、キラキラと光る何か得体の知れない生物。こんな深海にいたら水圧で簡単に死んでしまう人間の体の構造とは違うそれらは、海の中を優雅に漂い、仲間同士でなにかコミュニケーションを取っているかのようにキラキラと透ける体の器官を光らせた。そんな光景に、たましいが抜かれたかのように観測窓の外の世界を眺めるナマエの新鮮な反応を横目に、ペンギンは室内にあるいくつかの動作スイッチが正しく作動しているかを確認していた。今日はここで船の行く手を阻むものがないかナマエと見張りだ。真新しいものを目の当たりに楽しそうな彼とは裏腹に、自分は光の届かない深海の渡航はあまり好きではなかった。あんまり長く深海にいると、体からきのこが生えそうな気がするのだ。

少し前に突然この船の近くに降ってきた男は、海賊のような荒くれ者とは違う、不思議な雰囲気を持っていた。自分も昔、話を聞いたことがあった。花屋、という家業を営む一族がいることを。ナマエがその一族なのかは知らないが、この美しい男は、我らが船長のあの鉄の心を、出会って間もないうちに攫っていってしまった。


「ナマエって、なんで落ちてきたんだ?」


ナマエの隣に並び、観測窓から外の様子を伺いながら声をかければ、すっかり海へ見惚れていたナマエは、おれの声に反応して、美しい双眸をこちらへ向ける。質問に対し、ナマエは頬を掻くと、手紙の配達中に海賊と戦闘になってしまったのだと始末が悪そうに苦笑した。ちょっとした興味に負けた自分が馬鹿だった、と。ドジったのか、と聞けば、ドジった、と返す。あまり無鉄砲そうには見えない彼のドジ話に興味が引かれたが、ナマエは、苦笑を浮かべたまま、話を切り上げるかのように、再び窓から見える外の世界へ視線を向けた。横顔を見つめれば、金色の瞳を縁取る白い睫毛がぱたぱたと瞬きをする。どうやらこれ以上教えてくれる気はなさそうだ。諦めたペンギンは大人しく観測室に備え付けられた、椅子に腰を下ろす。暗い海の底、光の少ないこの部屋で銀色は、いつものような白銀の輝きもどこか鈍い光に変わるような気がした。



亡命する星々



数十個のガラスの瓶を並べて、ナマエは澄んだ瞳に、少年のように笑みを浮かべた。
数分前、突然良いこと考えた、と呟いた彼の案に乗ったおれは、見張り中のため、バレないようにコソコソと二人で手分けして、船内の透明なガラス瓶を集めてきたところだ。ナマエは、ひとつひとつの透明なガラス瓶を、丹念に布で拭き取っていく。ガラスを拭き取るナマエの丁寧な仕草や、整った容姿、目の下に影を落とす白い睫毛は、確かに男である自分でも目を奪われるような麗姿だった。窓の外を観察するふりをしながら、その顔を横目に見下ろす。この視線に気づいてるいのかいないのか、ナマエはペンギン、と自身の名を呼び、瓶に何か細工を施しながら、こっちに来いよと手招き。存外、表情豊かな彼の横に腰をかける。口元に小さく笑みを浮かべた彼は、おれの手のひらの上に瓶をのせた。瓶の底には、キラキラと光る微粒なガラスのようなものがいくつか落ちている。

パン、と両手を合わせた彼は、瓶を乗せたおれの手に自身の右手を重ね、左手は瓶の上にかざした。ああ、これが船長が言っていた、ナマエの植物を創造する能力か、と息を飲む。瓶の中のキラキラと光る粒が、かざした左手に反応するかのように、むくりと土も水もないそこから唐突に膨れ上がり、不思議な形の丸い芽が小さな瓶の世界に生まれた。その芽からはみるみるうちに、肉厚な葉がいくつも生え伸びる。さらに驚いたことに、それはぼんやりと暖かな薄橙色の光を帯びていた。瓶の中をちょうど埋めるようなサイズに育った炎の形のようなそれは、その肉厚な葉を、まるで人間が肺で呼吸をするかのように、収縮させた。


「うおおぉ…やっぱ本物を見るとすげぇな」

「ふふ、この植物は土や水がなくても、空気中の水分を吸って、生きていけるんだ」


自分の手のひらの瓶の中で明るく燃えるそれは、暗いこの海中の部屋を、蝋燭の光よりも遥かに強い光量で照らした。膨れては萎んでを激しく繰り返していた葉は、ゆっくりとその呼吸の速度を緩め、橙色は徐々に、白色にも近いような黄色に変わり、安定した光量で輝き出す。唖然とするこちらなど気にも留めず、ナマエは集めてきたガラス瓶に次々と、似たような形の炎を生んでいく。観測室はすっかり、外にでもいるかのように、明るい光に包まれていた。中層の海は暗いから、この光源は確かにありがたい。

絶え間なく輝く炎の植物を片手にナマエは、あ、と声をあげ、大窓を指差した。外海で輝いていたプランクトンたちが、この大窓から漏れる明る過ぎる光に誘われて、少しづつその姿を増やしていたのだ。この光のない海で、一点だけに光量が集中していたら、光を感じる生物たちが寄ってくるのも納得である。ナマエは、ひとつの瓶を残し、他の瓶の蓋を閉じた。それに応じて植物たちはその光量をみるみる失っていき、室内はもとの明るさに戻る。海王類にでも見つかったら、めんどくさいからね、と。彼は肩を竦めた。あとで船で配る時にでもまた蓋を開けて呼吸をさせてやろう、と。唯一残した輝く瓶を二人の間に置いて座り直し、見張りを再開する。室内は陽の光の下に晒された木のような、やわらかな匂いに包まていた。光を失った、窓の外の不可思議な生物たちはまた、あてもない海の浮遊をするため、徐々にどこかへ姿を消していく。ぼんやりとそんな姿を見つめるナマエの様子を、横目で盗み見るように伺う。船長がこの男に気もそぞろになるのが、わかるような気がした。


「ナマエって、もうキャプテンのものになっちゃってたりして」

「んー?誰のものにもなってないよ」


ナマエはにやっと挑発的に笑みを浮かべた。まだね、と付け加えて。あ、意味がわかるのか、と胸中で呟く。それもそうか、この見目で海賊船相手に物売りをしながら渡り歩くのだから、そういう話ぐらい耳にしてきたことだろう。自分でやっておきながら、遠回しに聞いた「探り」に情けなく思いながら、挑発的に口角をあげる彼のその白い頬へ手を伸ばす。色っぽく笑みを浮かべたナマエのその頬に触れる。少し顎を上げた彼は、おれをじっと金の瞳で射抜いた。おれは、ぐっ、と指の下にある頬の皮膚をつまんだ。いてーと声をあげる彼は、確信犯でやっていたであろう挑発的な笑みを崩し、ケラケラと笑った。あの顔やめとけ、と忠告するおれに、ごめんなさい、とナマエは素直に謝罪を口にした。たぶんこの笑顔は災厄になる、とペンギンは熱くなる体温を冷ますよう、自分に言い聞かせた。船長の前でナマエにこんな顔をさせたら、きっとそのクルーは体を解体されてしまうし、船長にこの顔をしたら彼はきっと襲われてしまう、と。


「ペンギン顔赤い」

「…っ、だからその顔やめろって!」




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