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in fiore


今夜、赤髪海賊団は再び海へと飛び出すらしい。驚きはなかった。シャンクスにも大分前からそう告げられていたし、そわそわするほどではないが、日ごとに宴会の数が増えているような気がしないでもない。そもそも海賊がずっと地上にいるのもおかしな話だから、必然的と言えば必然的だ。おれは彼らとはこの島で別れるのだろう、と漠然と考えていた。シャンクスからは薄情者呼ばわりされたが、自分でもそう思うしかないほど、何の感情も湧き上がらない。朝からしつこく自身の海賊団へ勧誘をしてくるシャンクスから逃れて、この島にある唯一の繁華街、静寂の街ノクターンへと足を伸ばした。剣を握らないこと自体が、とてつもなく久しぶりだ。相変わらず、いつでも夜を思わせるというノクターンはひんやりと寒く怪しい雰囲気で、様々なにおいがした。この繁華街は年中薄暗いらしいが、残念ながら自分には見えない。なんとなく道なりを散策していると、知っているにおいがした。愛煙家ベン・ベックマンの吸っているそれは、この島にはない珍しい銘柄のものだ。

シャンクスを“動”と例えるなら副船長と呼ばれている彼は“静”だ。おれがシャンクスに絡まれている時に、何度も助けてくれた。仲間たちからシャンクスとは別の慕われかたをしているのも納得がいく。きっとベックマンがいなければ、破天荒なシャンクスが率いる赤髪海賊団は保たないのだろうということを少し過ごしただけでひしひしと感じるほどだ。ノクターンに相応しいほど怪しい雰囲気を惜しみなく発揮している酒屋の戸を開けて、彼の煙草のにおいを辿れば、聞き慣れた声にすぐに、よう、と、声をかけられた。どうやら昼間から一人で呑んでいるらしい。



「お頭から逃げてきましたって感じだな」



くつくつと笑った彼は吸っていた煙草を揉み消した。彼はおれがそばにいる時、必ずと言っていいほど煙草を吸わない。おれの嗅覚を気遣っているのはわかりやすかった。言われるがままにカウンターの隣に腰を下ろせば、何も注文していないのに、目の前に酒を出される。香るアルコールは相当な度数のはずだが、どう考えてもそれはおれの為に出されたものだった。仕方なく大人しくそれを手前に引き寄せれば、ベックマンは別に飲まなくてもいい、と釘を打った。それから、それ以上の会話もなく、おれと彼との間の時は静かに流れた。当たり前と言えば当たり前の状況だが、ベックマンの穏やかな心音は寝ているんじゃないかと思うほどにゆっくりと力強いもので、それを聞くのにおれは飽きなかった。

不意に紙を捲る音がして、そこで初めて彼が新聞を手にしていたのだと気づく。少し、ほんのわずかだが脈の乱れた心音に、何か気になる記事でもあったのだろう、と思いながら、おれは手元の酒を一口だけ含んでみたが、舌が痺れて喉が焼けるように熱くなったので、すぐにそれ以上呑むのは諦めた。そんなおれの様子を見ていたのか、偶然か、ベックマンが、おれの名を呼んだ。彼は手にしている新聞の中に何か気になるものを拾い上げたらしい。



「ナマエ、おまえが来る少し前に、おれ達のところへとある海賊の兄貴が訪ねてきた。おまえと違うタイプの奴だ」



違うタイプ、の定義はいまいちわからなかったが、ベックマンはその男の話を続けた。十年も前にシャンクスが出会い、命を救った村の少年の兄貴が海賊になり、お礼を言いに来たのだと。ベックマンがその話をおれにした真意がわからなかった。だって、リョウが死んだ時おれは無力で、片腕をくれてやるようなそんなヒーローはたったの一度だって現れてくれやしなかったから。しかし、そんな卑屈な考えを何も知らない彼に言えるわけもなく、その兄貴、スペード海賊団、火拳のエースという男の話を延々聞き流す。おれは最後の最後にどうしてもベックマンを許せなかった。彼がおれ自身に変化を望むことが。言葉も出ない悔しさと苛立ちとトゲトゲした黒い塊が体の中を走り抜けた気がした。おれはどこにも行けないのだ、どこにも。押し黙るおれに、ベックマンが長く息を吐き出した。



「おまえは何事も考え過ぎだ」



これから先も生きるんだろう、と言われて、そうかおれはこれから先も生きなくてはいけないのかと改めて実感させられる。暗に、楽にしろ、と彼はそう言いたいのだろう。その日その言葉はおれの胸にずっしりと重たくのしかかった。そしてそれが彼なりのおれへ手向ける言葉だったのだろう。この広い海に出たら彼らと二度も会う確率の方が少ない。今日の夜、彼らがこの島を出たらおれはまた前のように当てのない旅に出て、リョウのためにこの見えない瞳に死ぬまで世界を焼き付けるのだ。海賊と関わるのもこれで最後になるだろう。長かった数日、色々なことがあった。どれもこれも、おれを強くさせてくれた。そのことは感謝しかないが、根本的には何も変わった気がしない。おれには圧倒的な無力だけがずっと付きまとっていた。その日彼が手にした記事は火拳のエースが白ひげ海賊団へ入団したというものだった。





in fiore(花が咲いて)





「なあナマエ、一緒に来いよ」



シャンクスを見送りにきたのが間違いだったのかもしれない。ひっそりとした岬に忙しく積み荷を運び込む彼らの仲間が、シャンクスにサボるなと厳しい言葉を飛ばしたが、彼は子どものように、仲間へ舌を出して、おれは船長だから働かなくてもいいんだなんてよくわからない理由をゴネた。こういった時、本当にシャンクスに威厳を感じない。今日だけで何十回と断った誘いを未だ呪文のように唱え続ける彼を無視しようと心に決めた時、とうとう諦めたのかシャンクスはおれの頭に大きな手のひらを乗せた。仕方ねえか、と深い深い溜め息を吐き出す。正直、溜め息を吐きたいのはおれだ。急に押し黙ったシャンクスの視線を痛いほど感じた。彼の“赤色”をした熱い瞳を。もうしばらくこの熱を感じることもないのだろう、と思うと少し悲しみに似た何かが心の隙間にすとんと落ちた。揺らぐシャンクスの気配に、何もかもを暴かれるようで急に逃げ出したくなる。



「ナマエはおれが好きだって言ったよな?」



今更になって、あの時シャンクスに好きだよなんて軽々しく言った自分が恥ずかしくなった。ただ、あの時は本当に口から滑り落ちるように、簡単に言えたのだ。嫌いじゃないって意味だと言えばシャンクスは大袈裟に笑って、おれの頭を軽く叩いた。この人は人の頭を何だと思っているのだろうと思っても、どうせ返り討ちにあうので口にはしないが。シャツの襟首を引かれて彼に顔を寄せれば、耳に生ぬるい吐息がかかった。低い声がおれの名を呼ぶ。こういう時、彼とおれの周りは時間や音を失っみたいに止まるような気がする。おれはおまえを愛してるよ、そう言った掠れたシャンクスの言葉が自身の中を通り抜けた、いつものふざけた笑い方の含まれない真剣な声にくすぐったいような熱いようなものも同時に走り抜けたが、それには気づかないふりをして彼の両肩を押し返す。おれの額に彼の唇が触れ、可愛らしいリップ音を立てて離れていく。それから、シャンクスは残念そうに溜め息を吐いた。







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あきゅろす。
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