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grazie



マルコさんは、誰も使っていないという空き部屋へおれを連れてくると静かに扉を閉じて、彼の足音は遠ざかっていく。この部屋に来る前、自分が血なまぐさかったからだろうか。シャワーも貸してくれた。血行の良くなった身体が、じんわりとあたたかくて眠たくなる。彼、マルコさんは悪い人ではないのだろう、と思った。波の揺れを身体に感じながら、備え付けてある椅子に腰を掛け、目を閉じる。部屋は空き部屋の割にはきちんと手入れが行き届いているのか埃臭くはなく、身体中に纏わりつくのは、船の匂いと、潮の匂い。今更になって、海賊船に乗っているのだと沸々沸き上がる自覚に、どくん、と胸の辺りが熱くなった。恐くはない。ただ、怒りや悲しみや、優しさがない交ぜになって自分でも不可解な苦しさに、胸だけではなく目頭までもが熱くなる。ぶっ壊れた警報装置が頭の中を悲鳴のように打ち鳴らし、いやな記憶ばかりを遡り、蘇らせる。




05.grazie(ありがとう)




次の島に無事に降りたら、なにをしようと考えてもいつも、何をすればいいかわからなかった。正確に言えば何をしてもつまらないのだ。魅力の欠片もない世界を当てもなくふらふらとさまよって、思い立ったときに他の島へ旅に出るなんて生活を繰り返してきたいま、初めて、死ぬのかもしれない、むしろここで死ねれば良い、と感じた。死ぬことは別に怖くないはずなのに、おれのじゃない金色の瞳からは涙が溢れた。おれの中に巣喰うリョウが泣いていた。



「ナマエ…?」



再び静かに開かれた扉から、困惑気味におれへと視線を注ぐマルコさんに、慌てて頬を伝う涙を拭って、はい、と返事を返す。おれは彼が近付いて来たことに気づかないほど動揺しているのか。随分と恥ずかしいところを見られた。穏やかな雰囲気を纏い、ぱたん、と静かに扉を閉めた彼はコツコツと近づいてくる。潮と木の匂いがするこの部屋に、ふんわりと美味しそうなパンの匂いがした。彼はなにも言わず、横に並ぶ机に静かにそれを置いた。ああ、やっぱり海賊の癖に優しいひとだなあ、と思う。途端に空腹を訴える身体に、素直に自分の前に置かれた、良い匂いを漂わせるパンに手を伸ばし、口に含む。



「…美味しい」

「そりゃ、よかったよい」



見えないけれど、なんだか、目の前の彼は柔らかく笑った気がした。海賊に会ったのが初めてという訳ではない。決して彼らが悪逆非道ばかりでないことは知っていた。そう思えるのはかつて、"良い奴ら"に会ったことがあるからだ。けれども、大多数は血も涙も無いような奴らばかりだったから、こうやって彼のような人に助けられるのは、運が良いのだろう。口の中のパンを飲み込み、またもう一口食べる。自分一人ではおざなりにしがちな食事、こうやってきちんと食べたのは久しぶりだ。本当自分に生きる活力が備わっていないという自覚症状のなさに、自嘲するくらいしかできない。死ねやしないのだから。黙々と食べるおれを気遣ったのか、席を立ち上がったマルコさんは、コツコツと出口のほうへと向かって足音を立てた。止める理由もないので、ただその音に耳を澄ませていると、扉の前で止まった彼の気配はゆらりと揺れた。



「夕飯になったら迎えに来るよい」



今度は食堂と促されて、おれも良い大人だ。いやだ、なんて自分の我が儘を突き通すのは、例え初対面同然だとしても言えやしない。気配に向けて静かに頷けば、そうか、と言って彼は静かに部屋を出ていった。食べかけのパンを皿に置いて、遠ざかっていく足音に耳を澄まし、溜め息を吐き出せば、幾分上がった心拍数は落ち着き始める。こんなに人と会話を交わしたのはいつだったか。食事を採るよりも、回数の少ないそれは、自身にとってはほとんど無用のものとなっていた。

恐らくあれは今夜、マルコさん、彼の海賊仲間たちと一緒に夕飯を食べる、という暗黙の了承なのだろう。彼と一言二言交わしただけここまで気疲れしている自分が、ただでさえ粗暴な海賊相手に耐えられるか不安を覚えたが、マルコさんに迷惑をかけるのは避けたい、というよりはできることなら彼ともあまり関わりたくはなかった。ならば、とりあえずこの船の上、一人で過ごせる術を見つけなくては。

夜に備えて寝ようと思い立ちベッドに潜り込む。以前、自分のこういう排他的なところが良くないのではと、誰彼かまわずずかずかと人の中に入ってくる太陽のような男に指摘されたことがあったのを思い出した。その時は、自分の気持ちなどは彼のような人とは分かり合えやしないと適当に片付けて、それから、今も代わり映えない自分の思考だ。不可抗力とは言え、おれが海賊船に乗っていると知ったらあの男はきっと酷く驚くだろう。いま彼はこの海のどこかで元気にやっているのだろうか。

重たい瞼を閉じる。暗闇に続く暗闇。おれが唯一視認できる色、黒。慣れ親しんで抜けられそうにない闇。何の色にも誰にも染まらない色だと聞いたことがある。けれど、おれにはあたたかい場所だ。この船全体を穏やかに揺らす波にも似たやわらかさを持っている。波の揺れを感じながら眠りについた。







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あきゅろす。
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