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***


鼻先を掠める匂いは夢ではなかった。
目覚めたゾロは、馴染みのない天井に一瞬眉間を寄せる。

「起きたか?寝坊助」

声の方に視線を移すと、赤い格子の窓辺で佇むサンジが目に入った。
その指先に挟んだ煙管から立ち昇る煙。
夢の中まで匂っていたのはそれらしい。

「ああ…寝過ぎた…」

ガシガシと頭を掻いて起き上がろうとしたゾロは、布団を除けてみて暫し唖然とした。
褌も丸出しで寝乱れている己の格好にだ。

「おい…」
「?」
「…何かしたか」
「……、何かするとこだろ?ここは」

冷めた目線がとても連れない。

「…そう、だが…」
「覚えてないのか?」

覚えてない事もないが、いや、やっぱり覚えてない。

「あれほど愛してくれたのに…」
「?!!」

途端ガバリと、鋭い形相で立ち上がったゾロは、細い腰紐一つで辛うじてぶら下がった着物を引き摺って、ズカズカとサンジに歩み寄った。

「やっちまったか…!」
「……」

仁王立ちで半裸を晒したかと思えば、抱えた頭を掻き回す。
散々ポカンと見上げた後、サンジは鉛の管をコンコンと打った。

「色んな奴がいたけど、さぁ褌剥いてやろうって時に鼾かいた阿呆は初めてだよ」
「へ?」
「安心しな。なんもしちゃあない」

呆れたように笑うと、それこそ阿呆のように見つめる男に、それも嘘だとサンジは言わない。

“お前もちょっと寝ろ。今夜はゆっくり休め。”

酔ったゾロは床に入るや否や、サンジに巻き付いたまま寝息をたてたのだ。
どうも当人はそれも覚えてないらしい。

悪さが過ぎると二人してよく家を追い出され、寒い夜はどこかの納屋で身を寄せ合って眠ったものだが。
そうする事に微かな居たたまれなさを感じるようになったのはいつ頃からだったか。
あの頃と、ゾロは変わらない。

「…そうか…そりゃ面目ね──いや、…ん?」

呆けて首を傾げる男に、サンジはため息しながら新しい草を煙管に詰め込む。

「ここの酒は上級なんだ。口当たりがいいもんだから安酒しか知らん奴が飲み過ぎると後でエライ目に合う」

確かに、今まで味わった事のない美味い酒だった。

「具合は?」
「いや?別に」
「へえ。あれを二升も空けてそれで済むとはな」

漸く肩の力が抜けたゾロを、煙を燻らせながらサンジはくつくつと笑った。

「良かったじゃないか。なんだかんだ言って、色売りの男と寝る嗜好はないだろう?それで真っ当さ」
「違う」
「大体ここは大金持ちの坊さんや商人や、それに夫に先立たれたご婦人方が遊びに来るとこだ。あんたみたいな若侍が一人で来るようなとこじゃない」
「“あんた”って…」

窓の外に向かってサンジは目を細める。
赤い襦袢の大きくはだけた襟元が寒気に揺れて、ゾロは息を詰めた。

「それよりその格好何とかしたらどうだ?」
「へ」

そう言われてやっと自分の酷い身形に気付いたらしい。ゾロが慌ててバサバサと着物を着込む。
するとその胸元に、不意に手が伸びてきた。
「コレ…」
左の胸から斜めに、すー…と指が滑る。
袈裟掛けにすっぱり斬られ、乱雑に縫い合わされた痕を。

「こんなもん、抱いてたのか」

まるで我が身が斬られたように、サンジは目の端を一瞬だけ痙攣させ、ゾロを見上げる。

「まだ新しいな」
「……」
「痛むか?」
「いや?」
「…どこでこんな…」

赤い縫い目の隆起を往き来する、白い指。

「…まぁそりゃ、刀三本もぶら下げてりゃ、色々ある」

振り切るように背を向け、ゾロは笑いながら紐を直し始める。
そうかとポツリ返して、サンジはまた煙管を咥える。

「なぁ」
「ん?」
「里は、どうだ?」
「……」
「ゼフのじじぃは、元気か?」

声が少し震えた。

「やっと聞いたか」
「?」
「ああ。まだまだピンピンしてるぞ」
「……そうか」

ほっと安堵するため息の音。果たしてそれで充分だったのか、話の続きをしてやろうとしたが、

「お前、本当に晩までいるつもりか?」

迷惑そうな口振りに遮られ、腰紐が上手く結べず、背を向けたままゾロは天井にため息を吐いた。

「鬱陶しいか?」
「…まぁな」
「それとも、“レイリーさん”に操立てか?」
「?!」

不意の問いに、煙管を咥えようとしたサンジの手が止まる。

「すまん…、夕べ番頭が言ってた。銭見せたら黙ったがな。身請けはもう九分九厘決まってると聞いた。本当か?」

ゾロがこちらを向く前に、サンジは丸まった目を険しく逸らして、あのお喋り男めと舌を打った。


“シルバーズ・レイリー”
一人で何百という職人を育て上げた豪商だ。
その名は故郷の空の下でも聞くほどだから都で知らぬ者はない。
役人も頭を下げ、意見を求めたがるほどの切れた才を持ちながら、どこか歌舞伎者のような物腰で、その人柄の良さを知れば誰もが惚れ込むという生き神のような男だ。
その男が、目の玉が飛び出るほどの破格の金額でサンジの身請けを申し込んで来たのは七日ほど前の事だと聞いた。
しかも基本此方から断る事は出来ない話を、レイリーはあくまでもサンジの心向きを待つと言ってくれているのだとも。

「またえれぇのが来たもんだな」

先行きの薄暗い色売の男にとって、とんでもない玉の輿話だ。断る者などまずないだろう。

「明日の今時分、」
「?」
「ここに来る。その時に返事が欲しいと言われた」
「……、明日」

ふう、と格子の向こうに煙を吐き出して、サンジは呟く。

「たいそうな無駄銭だったな。だからって客を取っちゃいけない決まりはここには無いのに」

嬉しいとは思ってないのか、言い種に浮かれた響きはない。

「八つなんて、馬鹿だろ」

どう考えてもまともな職で得た金には思えないだろうが、サンジはそれ以上聞かない。

「… ふん、まぁ会えたんだし、一銭も損はしてねぇ」
「へえ、言うねぇ。だから遠慮して抱かなかったのか?」

嘲ったように唇の端を吊り上げて笑う。
冷たい風に金色の髪が靡いて、襦袢の肩が少し落ちた。
ゾロの手が、それを食い止めるように掴む。

「違う」
「……」
「会いたかったと、何度言わせる」

見下ろす目は怖いほどで、サンジは肩に掛かる手に視線を逃がす。

「ああ…、すまん」

バツが悪そうに肩までずれた襟元を直して、手は離れていく。
その仕種の不器用さに、微かにくすりと笑ったサンジは、また表の景色に向き直ると、今度はぐいと窓に身を乗り出した。

「虎だ」
「は?」

所在なく身繕いをしていたゾロが、何事だと外を覗く。
店の斜め前に屋台のような小さな小屋があった。

「なんだありゃ」
「祭りの拵えだ」
「祭り?」
「年に一度、ここいらの女郎が町娘に扮して憩う日だ。花祭りって言って、夜には花見もする」
「…花見。…まだ殆んど蕾だが?」
「今年は遅咲きだな」
「それでも花見か」
「はは、相変わらずお前は疎い男だな」
「?」
「みな花より団子がいいらしいぞ?」
「……ああ」

紫宴楼の前ではどうやら、風車や飴細工を売る準備をしているらしい。
飴屋は箸を器用に操り、犬や猫の形に細工した飴を並べている。
さっきからサンジが表ばかりをやたら見ていたのはそのせいだ。

「女だけの祭りか?」
「ああ」
「男は?」
「関係ない。それどころか、ちっとばかし懐があったけぇ格上の花魁が遊びに来る事もある」
「ほ〜」
「男に尽くすばかりの身を男で癒しに来るのさ」
「なるほどな」
「…オレだって次の春まで居たらそろそろ女に買われる歳だ」
「……」

陰間の色子の盛りは短い。二十にもなると女の相手に切り替わるとも聞く。

「ゾロ…」
「ん?」
「女の肌は心地好いか?」
「…え?」
「男は勝手が分からんと言ってた」
「──あ」
「寝た事ぐらいあるんだろ?」
「……、いや、まぁ、」

寝た事はあった。惚れる事こそなかったが。
一番最近では、用心棒を頼まれた庄屋の後家さんにえらく気に入られ、言い寄られて。
生唾が湧くほどの高い値を付けてくれたのはいいが、無理やり勃たされ、上に乗られて腰を振られる。
骨身を削る色子の方が余程綺麗に生きてると思えるような、用心棒とは名ばかりの、ただのヒモだ。

「心が無くとも抱けるものなのか?」

胸を暴く呟きに、ゾロは心臓が引き吊る思いで黙りこむ。

「お、次は兎だ。可愛らしいなぁ…」

何か言いあぐねている内に、飴屋のおかげで話が逸れた。
見れば成る程、兎の形をした飴がちょこんと屋台に座っている。
ふと思いつき、ゾロはサンジの肩を叩いた。

「買いに行くか」
「え?」
「ブラッと散歩がてらどうだ」
「……」
「男は表に出ちゃいけねぇ決まり事でもあんのか?」
「いや…」

突然の申し出に、サンジは目を丸くしてゾロを見上げている。

「今日はオレのもんだろ。この界隈だけなら連れ歩いても文句はねぇ筈だ」
「……」
「どうした」

黙っているサンジに、ゾロは「ああ」と思いついた。

「レイリーさんか…」

夜の勤めは勤めとしても、お天道様の下で他の客と逢い引き紛いな振舞いをするのは義理が立たないとでも思うのか。
だが、意外にもそれには「違う」と返事がすぐに返った。
サンジは何故か四方に視線を散らして、もぞもぞと落ち着かない様子を見せている。

「どうした。何か──」
「そういうのは、あまり慣れてない…好きじゃない…」

心無しか赤らむ頬を、隠すようにそっぽを向いて呟く。
一瞬の仕種に、ゾロの胸は痛みに似た脈を打った。

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