――ぱたん。
 先程とは打って変わり、利佳が聞いたとて自然に流されるであろう程度の音量で、車の扉は閉ざされた。
 それは助手席の音であり、蓮がおとなしく車に乗り込んだ姿を確認してから健悟も運転席へと向かった。その間、車を廻っていく健悟の様子を嬉々とした目で追い、普段よりも幾分も笑顔を浮かべる蓮が居て、外の空気に溜息を滲ませることしかできない。
 様々な思考を巡らせながら健悟が運転席に乗り込むと、その瞬間、ぺちぺちと太腿に衝撃が走った。
「けんごぉー」
「……うるさいよ酔っ払い」
「けぇーんーごぉー」
「酒臭いって酔っ払い」
 ちらと見れば、何の罪悪感も負っていなさそうなふにゃりとした笑顔があり、小刻みに揺れてくる蓮の右手首を健悟は払った。
「ふはっ、けーんごちゃーん」
 それを冗談と受け止めた蓮が、再び両手を差し出す。
 普段ならば考えるよりも先に手が出るのは健悟の方で、手を差し伸べれば握り返されるのが常だったが、今の健悟の眉間には明らかな皺が寄っていることが分かる。
「触らないでクダサイ」
「…………あれ、」
 ぷい、と目を背けた健悟の表情は帽子に隠れて見えなくなったが、様子が可笑しいなどと言うことは一目瞭然であり、蓮の手が一瞬にしてピキリと固まりを見せた。
 健悟からのフォローも入らぬ儘、何食わぬ顔で車の鍵を差し込むその所作を見て、蓮は若干の焦りを滲ませながらつんつんと脇腹を押してみる。
「ちょちょ、健悟くぅーん?」
「……なによ」
 しかし、返ってきたものといえば、此方を振り返ることなく呆れを含む声であり、耳に残る冷たい声に、ずん、と下腹部が重くなった気さえした。
「え、怒ってる?」
「怒ってる」
 不安を問えば予め用意していたかのようなスピードで肯定の眼光が降り懸かり、蓮はびくりと身を固める。アルコールに支配された脳内が若干の覚醒の蔭を見せるも、思考が追い付くには至らず、考えるよりも先に口が勝手に動いてしまう。
「なんで?」
 本当に不思議に思って聞いたというのに、二週間振りの逢瀬の空気に戻りたいと願って聞いたというのに、健悟はエンジンに掛けていた手を止め、頬をひくひくと痙攣させていた。
「……なんで? なんでっつったのこの口は? んん?」
「いったい、たいたい!」
 そして、上下の唇を右手の親指と人差し指で挟まれ、ぐいぐいと引っ張られるものだから、その痛みに釣られて運転席へと少しずつ引き寄せられていってしまう。
 健悟の手から逃れるように思い切り下を向き、服の上からは分からない固い腹に頭を押し付ける。
「……ちょっーと酔い醒まして冷静になってみようか、キミ」
「もう酔ってねえよぉー」
「酔っ払いは皆そう言う」
「えー」
「……はあ、」
 すると、怒っているのか呆れているのか、健悟はその手を唇から頬へと移動させて、ぷにぷにと優しく弄りはじめた。
 口ほど怒気を孕んでいるとは思えないそれの真意が見えずに、蓮は腑に落ちぬ儘その行為に身を委ねる。健悟の太股に手を置きながら、腹に頭を預けたこの体勢。頬を触られたり頭を撫でられたり、遊んでいるのだろうか時折咥内に指を入れられて笑ってしまったり、言葉も無いそれが何故か心地好く、視界がとろんとぼやけてきた時だった。
「れん。ほら」
 酔いを覚ませとは言葉の儘に、健悟がミネラルウォーターのペットボトルを渡して来る。
 先程の残り物ではなく新たに頂戴した品のようで、いつの間にと蓮は眉を顰めながら離れようとした。
「……いらね」
 健悟の太股に置いた腕を伸ばして立ち上がろうとすると、両肩を固定され、ぐいっと再び下に下ろされる。
「いるの。」
「いらねぇー」
 先程充分というほどに飲まされた所為で腹内は充分なほどに満たされており、たぷたぷと音がするのではないかと疑ってしまうほどだ。
「…………はぁ、」
 いやいやと目を閉じて拒否を示していた蓮の元に、大きな溜息が降ってきた。
 それで健悟も諦めを示したのだろうとと察し、はやくあの狭い部屋に戻ろうと口を開きかけた。
 しかし、いざ目を開けば視界に入って来たのは健悟の喉仏、上を向いて水を煽るその姿だった。喉仏が揺れない理由など明白で、蓮はうっと後ろに下がろうとしたが器用に押さえ付けられたこの体勢で逃げられるはずもない。
 決して屈さない灰色の瞳が狙いを定めているのは己の口許だとは承知の上、このまま逃げれば冗談ではなく、口目掛けてではなく、水を掛けられそうだ。そのまま顔中にぺっと吐き出されては敵わないと、蓮は、罰が悪そうに小さく口を開いた。
 そのまま顔を下ろしてくる健悟はキャップが邪魔だと悟ったのか、キャップを助手席に投げてから、そのまま顔を落ろしてきた。
 現れた灰色に、あ、と蓮が言った気がしたけれど、そんなことはどうでもいい。利佳からの忠告すら脳内から出かけてしまい、その言葉が帰ってくる気配は微塵も見せなかった。
「……ぅ、……ん、っ、」
 ごくっ、と揺れた喉仏は蓮の方であり、健悟は水を飲みきった蓮の髪をえらいとでも云うように撫でている。
「ぷはっ、」
 自分では調節する事も出来ない水の量に限度が分からず、蓮が目を瞬かせると、再び健悟が水を呷った。
「!」
 まさかもう一度来るとは思わず、蓮が健悟の腹を叩くも、それすら楽しそうに健悟は顔を落としてきた。
 背が痛くないのだろうか、背を丸めながら蓮の両頬を掴み、関係ないだろうに舌までもが進入してきた。
 生温い水が残る咥内に舌が進入し、無理矢理に舌を掠められる久しぶりの感触に鳥肌が立ってしまいそうなほどだった。
 しかし。
「、ゲホッ」
 健悟の舌が邪魔をしてくるせいで思うように水を飲み込めず、蓮が咽せてしまった。健悟は苦しそうに涙を浮かべるその表情を間近で捉えてから、蓮の髪の毛をくしゃくしゃに弄り、漸く離れていった。
「超キスしづらい、この体勢」
 水が垂れていた蓮の口端を拭って、健悟は不服そうに言葉を漏らす。
 数週間ぶりに逢ったというのに、一向にスキンシップが足りないこの状況を怨みつつ、一刻も早くあの狭いベッドに飛び込んでしまいたかった。



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あきゅろす。
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