青空に漂う積雲は太陽の光に透けているようで、その灰色と白との見事なコントラストに、東京で見上げた空との違いをすぐさま知ることとなる。
 緑に映える飛行機雲があまりにも長閑で、田んぼの畦道を足早に過ぎてしまうことも無理の無いことだった。
 人通りの少ない道路、腰を曲げながら苗を植える老婆、偶に走る車はトラクターか軽トラックで、時の流れる遅さや朗らかさに意識せずとも表情は綻ぶ一方だった。
「おっじゃましまーす!」
 ――どすん。
 数日分の荷物が入ったボストンバッグを玄関に置くと、「オカエリー」と、相変わらず明るい声が聞こえたことに安堵する。
 ただいま、と言い直すと少しだけ照れくさいものの、そんな甘い考えは真っ先に障子を開けた人物によってあっさり消え去ることになる。
「あれー、健悟じゃん。今日だったっけ?」
「……」
 出た出た、と健悟の口角が引き攣りそうになるのは無理も無い、長旅の疲れを真っ先に癒してくれる存在は居らず、目の前には色気無く大福を食べる利佳が居るのみだったからだ。
「っス。蓮は?」
「一言目がそれ?」
「……蓮は?」
「二言目もそれ?」
「蓮はっ!」
「……部屋じゃん?」
 呆れながらお茶を啜る利佳からの冷たい目が変わることは無く、それを振り切るように足を進める。
「サンキュ、はいこれ土産ね」
 利佳の頭上に東京駅で買った箱を乗せて、荷物を部屋の端に放り投げれば、進む道は一つしか思い浮かばない。
 睦に軽く挨拶をして、何週間ぶりかも分からない階段を、破けそうな心臓と共に上っていく。
 あと十歩、五歩、一歩、――はい着いた!
「れーん!」
 ばんっ!
 勢いに任せて蓮の部屋の扉を開く。
 満面の笑みを浮かべる健悟が想定していた事項は、オカエリという明るい声と笑顔がベッドに転がっている風景。
 だからこそ、シンと静まり返った部屋には不信感を露にし、明らかに眉を寄せてしまったほどだった。
「……居ねえ」
 トイレか、と小さく呟くと、一階から忠敬の特徴有る喋り声が聞こえてきた。畑から帰ってきたのだろうかと思いながら階段を下りると、案の定手厚い歓迎で抱き締めてくる忠敬に盛大に笑ってしまう。
「あー、ねぇ、おじさん、れんは?」
 きょろきょろと周りを見渡すがやはり事態は変わらず、キッチンに睦と忠敬、そして居間には利佳が居るのみだった。
「蓮? 宗像んとっから帰ってねんだっぺか?」
「……宗像?」
 不審そうに眉間に皺を寄せた忠敬の表情を見て、更に健悟が表情を曇らせる。
 ――宗像。
 よく、蓮の口から零れていた名だったからだ。
「酒屋酒屋。健悟ぐん来っからって酒屋さ用足し行ったんだけっど……なーにくっちゃべってんだあいつぁ」
「えー、いいのにそんなの〜、――……で、いつから?」
「…………」
 1オクターブ声が低くなった健悟に苦笑いを返した忠敬が、ちらっと時計を見て、苦笑混じりに数える。
いち、に、さん。
 指を折る回数が増えるたびに健悟が唇を尖らせると、ついに忠敬の右手は綺麗な拳を象っていた。
「5時間ぐれー前け?」
「…………へぇ〜」
 あっさりと言い放った忠敬に御礼を言ってから、健悟は居間に置きっぱなしだった携帯電話を取り出した。
 健悟の土産を食べながらテレビを見ている長閑な長女に「顔コワいんだけど」と睨まれて、「ほっとけ」と返す余裕すらない。
 着信履歴を埋めるほど掛けられた番号に呼び出しを掛けるも、接続音が続くのみですぐに留守電サービスへと繋がってしまうからだ。
「…………」
 ぷち、と電話を切って、また掛ける。
 その動作を三度繰り返して漸く、利佳が呆れたように健悟を呼んだ。
「なーに。蓮?」
「そう」
「上に居ないの?」
「居ねぇ。つーか5時間前から居ねぇらしいけど」
「あ、マジで」
「気付けよアホ」
「あぁ?」
 不機嫌そうに健悟の土産のチョコレートを投げてくる利佳、それを巧くキャッチして耳を澄ますも、やはり事態は変わらない。利佳からは相変わらず訝しがられて、忠敬と睦の笑い声が台所から聞こえる。それだけだ。
 ……べつにいいけど、いいけどさぁ。
 段々と唇を尖らせながら携帯電話を眺めていると、思わず溜息が漏れてくる。すっげー期待してたのに、という愚痴は自分の胸だけに留めてモヤモヤさせておくしかない。
 仕方ない、と再び掛けなおすと、一応は繋がる電話。
 呼び出し音が長くなるだけのそれに若干諦め掛けていると、利佳が至極興味無さ気に質問を投げかけて来た。
「電話してるのは分かるけど、うちのオトートどこ居っか知ってんの?」
「宗像ってヤツんとこらしいけど」
 忠孝に聞いたままに答えると、利佳は一瞬チョコレートを摘む手を止め、酷く面白そうに笑った。
「……ああ、そりゃ帰って来ないわ」 
「はあ? なん……――あ! もしもし、れんっ?」
 すると、その瞬間呼び出し音は止まり、電話元から音が届いた。
 今蓮が居ないという事態を怒るべきだというのに、電話に出たという安堵から健悟の表情が一変し、図らずとも微笑んでしまっていた。
 しかし。
『や、』
「……え?」
 電話口から聴こえる声は、低く野太い。
 たった一言で愛しい声ではないことが分かり、健悟は再び一瞬にして表情を変えていた。
『電話うるせぇからとったんだけど……あー、……わりいけど今あいついねぇから、あとでかけ直させるんでちょっと待っててもらっていっすか』
 ぴきっ、と健悟の表情が引き攣ったことに気付いた利佳は、何やら楽しそうだと一人口笛を吹きながら傍観している。
「……かけ直、“させる”?」
 健悟が呟く。
 まるで自分の所有物ような言い草に棘が刺さり、ついぽろっと口から出てしまった。
『はい? つーかだれ……なに、ハート……は?』
「、」
 どうやら画面を確認したらしい蓮の友人(暫定)は、ハートという表記を見て訝しんでいるようだった。
 勝手に人の電話出てんじゃねぇよ、と舌打ちしてしまいそうな感情を抑えて、仕方なく、無理矢理に口角を上げることにする。
「あー、えっとね、俺利佳のツレで、それは利佳が勝手に……」
 面倒だと丸投げして嘘を付くと、その瞬間、不自然に飛んで来たチョコレートが今度は頭に激突した。
「いてっ」
「いつからあたしのツレになったのよ。名乗る位なら堂島ロール買い占めてから遊びにきてよ」
「……食いてえの?」
「うん」
「……今度ね」
「べつにあんたはいらないから郵送して」
「……」
 このアマ、と言いたい一言をグッと堪えると、今度は電話口から声が聞こえる。
『……利佳?』
「……あ、そう。今の利佳。久しぶりにこっちきたから、蓮に会いたいと思って電話したんだけど。……それで、蓮は?」
 落ち着け、落ち着け。自分に言い聞かせながら問い質す。
 しかし。
『あいつならいま風呂入って――』
「――はあ?」
 ……風呂?
 いやいやいや、と、いっそのこと驚きが笑いに変わってしまいそうな声音だった。
 どういうことだと聞きなおすべく電話を強く握りなおすと、その瞬間突然電話口が騒がしくなり、ガタガタと大きな音が聞こえてきた。
『あ、今来たっぽいんで変わりま……っ、おい、アホ。どこ触ってんだよ』
 ぺちん、と乾いた音が聴こえたのは気のせいではなく、愛でるべき声が「いってぇー!」と楽しそうに笑っているのが聴こえてきた。



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