「……はぁ」
 葛藤にも満たない些細な葛藤の後、幾度の溜息と共に、とんとんとドライヤー片手に階段を上る。たかが行動の一部分だというのにこんなにも鼓動が煩いのは初めての経験だった。
 蓮の部屋の扉を開ければ、やはり真っ先に視界に入って来たのは裸のままパワプロを続ける蓮の姿で、言っても懲りやしない、俺を見つけた途端に水を得た魚のように大きく口を開いていた。
「あ、てめぇ、いってぇだろさっき!」
 部屋に入るなり、床に落ちているゲームソフトを投げ付けられてしまい、着ていたTシャツが一瞬だけ波打った。
 痛くないですけどね、鍛えてますからね、蓮の裸に比べれば物理的刺激の方が断然ダメージは少なく、溜息一つで払拭すれば、うっと顔を仰け反らせたのは蓮の方だった。
「……わかりゃーいんだよ」
 ふん、と俺から目を逸らして、再びコントローラーを手に背を向ける。
 なんですか、何も言ってないんですけど、何も分かってないんですけど。
 何それあんた自分で喧嘩吹っ掛けてビビッて外方向いちゃってんの、それ可愛過ぎんじゃないの、意味わかんなすぎて困るんですけど、そんなんされたら困るんですけど。
「つーかはえーね、忘れもん?」
「……」
 野球の試合が始まると同時に音楽が変わり、すっかり憤怒も警戒も消えた蓮を見れば、所詮は友達相手だからだろうが、一線も引かれていない無自覚さには、安心すると共に付け込みたいという悪魔は消えなかった。
 ドライヤーのプラグをコンセントに挿し、胡坐を掻く蓮の背中に沿うように胡坐を掻いて、ドライヤーの電源をオンにする。
「はっ?」
 けたたましいうねりを上げるそれに、テレビの音がかき消されると同時、ぽかんとした表情の侭で振り返る蓮を制し、その首を動かして無言でテレビへと向けた。
「っにすんだよ、いーって」
 ゲームをしているから邪魔なのか、ドライヤーから逃れるように首を振るものだから、肌触りのよさそうな背中を咎めるように軽くパチンと叩いてしまった。ああもう畜生、魔が差した。
「……うごかないの」
「あっつ、へたくそ!」
「バッカおまえが動くからだってば。大人しくしてたらすぐ終わるって」
「……うぜぇー」
「はいはい」
 服も着ない髪も乾かさないで、いくら夏だと云っても風邪を引かれたら敵わない。なんて、利佳に見つけられた時の体の良い言い訳だ。所詮は近付きたいと云う下心しかないなんて俺も終わってる。
 面倒臭がりの蓮だからこそ否定する自体が面倒臭くなったのか、すぐ終わると捲くし立てれば尖った唇が横から見えた。
 でも、金色に指を差しこんで、パサパサと髪をはらっていくうちに、温風を当てて穏やかな空気が漂っていくうちに、コントローラーを動かす蓮の指が散漫な動作へと変化していることは分かっていた。ああもう、この子は本当に頭触られんの弱いんだな、くっそ、かわいすぎる。
 濡れてぺたりとしていた頭がふわふわへと変わり、いつもの耀きを取り戻した頃には、すっかり悪態も吐かずに大人しくなっていた。
「きもちかった?」
「んー……」
 ぱちん、とドライヤーを止めたら、ふるふると首を振る動作がまるで犬みたいで笑ってしまいそうになった。
 心に従うままに「可愛い」と言えば、きっとこのぼんやりとした雰囲気も払拭され「うぜぇ」と不貞腐れてしまうんだろう。
 頭を撫でる位ならば怒らないと知っているからこそ、毛先に触れ、束を掴み、ゆっくりと梳いて行く。
「んだよ」
「あーもう、動くなって」
 手を振り払わない蓮の様子に、何故か勝利したという昂揚さえ湧き上がり、よし、と心の中で呟いた。
 見よう見まねの其れだけれど、よく美容室に行けばやって貰えるマッサージを始めるのだって、所詮は蓮の傍から離れたくないだけの言い訳だった。
 頭の形に沿うように揉み込めば、蓮の表情こそ分からないものの、時折聞こえる声には予想外の邪な妄想が働いてしまう。
「あー……やばいそこ、ちょうきもちー……」
 そして、本当に凝っていたのだろうか、ゲームを忘れたかのように頭をだらんと下げ、まるで身を任せるかのようにするものだから、嬉しいと共に戸惑いが出てきてしまう。
 首を下げた蓮の身体には余計に背骨が浮き出るのが見えて、頭よりもその背を伝いたいという欲求を必死に堪えることしかできない。
 きもちいいっておま、え、ばっかじゃねぇの……!
 盛大な舌打ちを又もや堪えて、唇を噛み締めながらマッサージを続けるものの、その時間もそう長くは続かなかった。
「……あー、おまえ、巧いなぁ……」
「ッ、」
 感心すると共に、熱の篭もった蓮からの言葉に思わず手がビクリと震えてしまったからだ。
 俺の持つ邪な考えは所詮情事を匂わせるだけでしかないくぐもった声に負けて、つい、頭から手を離してしまった。
「くっそ、おわり!!」
「ってぇ!」
 もういい、負けで!
 なんて声を出すんだ、と恨みがましく、ぺちん! と背中叩けば本当に痛そうに背に手を伸ばし悶えているようだった。
 ざまぁみろと落とす余裕すら無く、赤くなった顔を見られないようにと背を向けて深呼吸をする。
 そして、落ちている服を拾い、目に毒でしかない肌色を払拭しようかと蓮に託そうとしたの、だけれど。
「ほら、服……って、あ」
「いいってぇー……ちょ、おま、んだよいきなり、これ跡ついてねぇ?」
 涙目で此方を振り返る蓮の背には、しっかりと俺のつけた手形の跡が赤くなって残っていた。
 視界を潤ませて痛い痛いと喚く蓮すら、いま、俺が与えた感情であり、赤い跡はあと数日は蓮の背を這い回ることだろう。
「……なーんも」
 痛いよね、ごめんね、と云う罪悪感は勿論感じたものの、それ以上に、白い肌に咲く手形がまるで所有物の証のようで嬉しくなってしまったことは否めない。
 つけることの許されないキスマークの代わりのようで、滲み出る独占欲が止まりそうになかった。
 あ、やばい。あれ、なにこれ、なんでこんなに満たされてるんだろう。やばい、これ、やばい。
 緩む頬を蓮に見られないようにと掌で隠すと同時、いつかこれ以上に絶えず所有の証を付けてやりたいと、可哀想なその背中に近寄っていく。
「ってぇーマジで……」
 右手の掌を背中に近付け、上下に動く蓮の手を制して、代わりに俺の手を乗せた。一瞬揺れた蓮の肩を見なかったことにして、脆い理性を投げ棄ててから、男の癖にやけに綺麗なその背を擦っていく。
 勿論女性とは違い、骨と皮ばかり、暖かい背を上下する手に扇情を滲ませるのは自分だけだと分かっていても、此処まで直接的に蓮に触れた事が初めてで、どくどくと五月蝿い鼓動が止まりそうになかった。
「湿布持ってこよっか?」
「……いらねーよ」
 湿布を貼ったり服を着たりすればきっと誰にも見る事はできない、誰にも知らずに自分だけが知っている傷跡に、溢れる笑みを悟られないようにと掌を這わせていると、ふと、背中に振動が走った。
「つか、さわんな」
「え、」
 振動は二つ、蓮が話す声によって身体から引き出されたものと、蓮の手によって背中から手が払われたことにあった。
 掌から突然消えた体温に狼狽すれば、次の瞬間に蓮が振り向いた。気持ちを悟られたか、調子に乗りすぎたか、怒気を孕んだ姿を想像して息を詰めてしまったのだが、振り向いた顔は眉を下げて唇を尖らせるというなんとも可愛らしいものだった。
「……なんか、ゾワゾワすっからやだ」
「……ぷっ、」
 だから離れろ、と座った侭で足を蹴られて、痛くも痒くも無いそれに安心した途端に笑いが込み上げてしまった。
 肌が粟立つのも仕方が無い、確かに入れてはいけない感情を持ってして背を撫でていた自覚は確かにあったから。
 先程びくりと揺れた背は弱点を堪えていた為なのだろう、背中が弱いということすら初めて知った事項であり、そんな些細な事すら蓮に関することならば何でも嬉しい自分はもう末期としか呼べないのかもしれない。拒否された時には息が止まるかとすら思ったのに、たかが蓮の所作一つでこんなにも湧き出る笑みが止まりそうにないなんて。
「ああもう、笑ってんじゃねぇよ。……ほら、さんきゅ。風呂入って来いよ」
 笑われたことに照れているのか、蓮は目を逸らしながらも律儀にドライヤーにコードを巻き付けて渡してくれた。
 きちんと御礼を言えるそれも睦さんからの躾の賜なんだろうと思うと、また一つ、こうして段々と知っていく蓮のことが嬉しくて仕方が無い。
 たった数分間という短い時間でさえ絶えず入ってくる蓮のこと。
 もっと知りたいと思っているから、だから、離れたくなくなるんだ。数分でさえ勿体無いないと思ってしまうんだ。ああ、もう、すっげー好きだっつーの、この野郎。
 渡されたドライヤーを受け取るも、そのまま床に置けば片眉を上げられてしまった。しかし、それにも気付かないふりをしてもう一つのコントローラーを手に取った。
「良い、やっぱり俺もやる。機械よりいいっしょ」
「あ、てめぇ!」
 そして止まっていた試合をリセットすれば、口先だけで怒鳴られた後にどんどんと画面が変わっていった。
「俺赤が良いー」
「えー」
 組み分けのチームは白と赤。
 迷うことなく赤を選べば、きっとどちらをとっても文句を言う蓮ですら許容してしまう俺はどれだけ彼に甘いんだろう。
「いいじゃん」
「あー、じゃあ俺白か。えー、メンツどーすっかなー」
「……」
 ちらりと見るのは、未だ赤くなっている蓮の綺麗な背中。肩に掛かるタオルは水分を含んでも変わらず赤を彩っていて、こんな好機に恵まれた赤いチームが負けるとは思えなかった。
 赤は地獄のイメージなんてきっと嘘だ、天国が白いと云うのは所詮はイメージでしかなく、今このときの天国は熱に浮かされる赤に違いない。
 天国と地獄、誰しものイメージに差異はあるだろうが、きっと蓮が居る場所こそが俺にとっての前者なんだ、二つは表裏一体、いまなら勝てる気がするのは可笑しいんだろうか。
 負けそうになったら、敵の大将の背中でも撫でてやろう。
 飛び上がって服を着る蓮を想像しただけで緩む口元が抑えられそうにない、風邪をひかないためには最善の策だけれど、目に毒である肌色を払拭して欲しいような、そのままで居て欲しいような。
 曖昧な線引きの示す終着点は、所詮はもう少しだけ一緒に居たいという感情であって、隣に蓮が居さえすれば全てなんでもいいと、素直にそう思ってしまった。
「あ。つーか風呂行かねぇなら早くアイス取ってきてよ」
「……」
「チョコのねー」
 自分で行けと言うのが正解の筈なのに、背に貼り付く跡を眺めれば文句も言えずに立ち上がってしまった。
 御馳走様と感想を述べるのはきっと俺の方、結局、何をされても、如何にも彼には甘いらしい。



おわり。



3/4ページ

[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!