11

「……なおくん……」
「……………………」
 ……しまった。忘れていた。
 完全に、俺のミスだ。
 忘れていた、こいつが昔から、俺のためなら外聞なんて気にすることなく泣きじゃくることを。
 だから、席を変わろうと言ったのに。
 なにが、別れる場所は、できるかぎりうるさい場所にしましょうだ。別れ話にショックを受けても、人目を気にして怒鳴ったり泣いたりすることなく、「良い男」を演出しようとする、だ?
 わかっていたくせに。ハルトが俺のことになると、なりふり構わなくなることくらい。それくらい、全力でぶつかってくるやつだって、わかっていたはずなのに。
 今すぐ泣き止めといっても泣き止むタマじゃないのは知っているし、彼女たちの視界から離れてこの店を出て行ったところで、ハルトがいま傷ついているという事実は変わらない。俺が無理矢理離れるということは、いまこうして、こんなにもハルトを泣かせてまですることなのか? 他のやつらがどうかなんて知らないけれど、おれたちが、お互いが、こんなに嫌だと思いながら離れなきゃいけないもんなのか?
 疑問が頭を占拠し始めた時、再び指南書の一節が脳裏を過ぎった。

 ―――一方的に話しをするのはやめましょう。
 ―――相手の話を聞くというのは流されることとは違います。あなたは、別れようと思っている。その確固たる決意を崩さないため、相手に情を持ちすぎないようにしましょう。

「…………」

 情って、なんだ。
 産まれた頃から付き合ってる相手だぞ、情が、無いわけないだろう。

 二十年の付き合いになる目の前のこいつより、出会ってたかが二週間の本ごときを信じるのかよ、俺は。



 ……指南書なんて、クソくらえだろ。



「…………不動産には……、」
「―――」
 ぽつり、長すぎる沈黙の後でようやく呟いた俺の言葉に、ハルトはびくりと肩を揺らして意識を寄せてきた。
 本当にこの選択をしていいのか、今別れることがこいつのためになるんじゃないのか、俺だって、将来奥さんになる人を探すべきだ。
「………………あとで、断りの電話入れとく」
 それなのに、そんな選択肢、こいつの涙を見れば、一瞬で吹き飛んでしまった。
「―――から、拭け、バカ」
 俺の吹き出したアイスコーヒーでベチョベチョになっているハルトのおしぼりは役立たないからこそ、俺の使っていたおしぼりをハルトの帽子めがけて投げつける。
「……ナオくんっ!」
 しかし、俯きから一転、顔を合わせて視線を交わしたハルトの瞳はすっかり乾いていて、おしぼりなんて微塵も必要とはしてしないようだった。
「―――おまっ、嘘泣きかよっ!!?」
「じゃないよ! ほんとに、マジでほんっとに哀しかった!」
 ナオくんのバカ! と叫ぶ目元は確かにうっすらと赤くなっていて、またごめんと呟くことしかできなかった。
「だめだよ、ゆるさないよ。なおくん、もう出てくなんて言っちゃやだよー」
「…………あと少しだけだかんな」
「うん、あと少し経ったら、おれ、また引き止める」
「そういうこっちゃねえよ!」
 ばかやろう、と怒ってもハルトはずっとにこにこしていて、きっと今何を言っても無駄だろうということはすぐに分かった。
「………………なんでも食えよ。悪かった、心配かけて」
 ほら、とメニューを促しながら、こんな予感はしてたんだ、と小さく溜息を吐く。
 ハルトに叩き起こされて喚かれたあの朝から、きっとうまくはいかないだろうと思っていた。
「ナオくん! チーズケーキあるよ、チーズケーキ!」
 だって、さっきまでの雰囲気とは一転して、楽しそうに笑っているハルトが居るだけで充分すぎるほど喜んじゃっているあたり、俺もまだまだ子離れなんてできないとわかってしまったからだ。
「…………おれは、おまえのチーズケーキが食べたいよ」
 そう言えば一瞬で深刻な顔をしたハルトは、ぱたり、メニューを机に捨ててしまった。
「…………どうしよ、今すぐ帰ってチーズケーキつくりたくなった」
「ぶはっ、ばぁか。もう夜だっつの」
 くつくつと口元を抑えて笑えば、にんまりと笑ったハルトが、ねえねえ、と小さく俺を手招きする。
「ナオくんナオくん」
「あ?」
「いいじゃん。このままずっと、おじいちゃんになるまで一緒に居れば」
 お互いテーブルの中心に近づいて、広い店内の一角で、こそりと内緒話。
「それが、「しあわせ」ってやつなんでしょ?」
 そして、悪戯っぽく笑ったハルトは、俺が口にしたセリフを繰り返した。
「…………生意気なんだよ」
「いてっ」
 軽くハルトの頭を叩いてもそれでもハルトは笑っている。そしてようやく、今までと変わらないことに安心したのか、安堵の溜息を吐いたあと、少しだけムッと唇を尖らせた。
「だいたいナオくんは、何で離れられると思ったの?」
「は?」
「だっておれ、ナオくんが居ない時間なんて一秒も過ごしたことないんだよ? 俺が産まれた時から、ずっと、ずっとずっとずうーっと、ナオくんはそばにいたの」
 子供時代を思い出しているのだろうか、ふにゃっと格好を崩して笑ったハルトは当たり前だけれども幼い頃の面影があって、どれだけ成長してもやっぱり可愛いなと思ってしまう。
「だからね、ナオくん。ナオくんが離れていったら、さ」
 けれどそう思ったのは一瞬だけ、俺の名前を呼ぶと同時に口調を強めたハルトは、鋭い瞳で俺を射抜いてくる。


「―――……俺が、生きていけると思う?」


 ぞくり、鳥肌が立ってしまったのは、当たり前のように過ごしている、生きる、というフレーズに焦点を当てて話をされたからだ。
 大袈裟な、と軽口を返す余裕がないのは、それだけ、ハルトの瞳が笑うことを許していないせいにほかならない。



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