10

「ナオくんは、おれといて、しあわせじゃなかったの?」
「…………」
「ナオくんの言うしあわせって、俺、わかんねえよ。俺の「今」ってさ。ナオくんの言う「しあわせ」からなにもブレてる気がしないんだもん」
「…………」
 ここで違うと言えれば引っ越しの話は丸く収まるかもしれない。けれどそれは俺とハルトが過ごしてきた十年間を否定する言葉で、これ以上ハルトに嘘を吐きたくなかった。
 それに、こいつのことだ、俺の吐くヘタクソな嘘なんて、笑って見透かすことだろう。
「……しあわせじゃないっつったら、こういうときだね。ナオくんが出てくって聞いてから、……おれ、毎日どん底みたいな気持ちだよ」
 自嘲を浮かべるハルトを見れば、庇護欲からか鋭い刃物がぐさりと胸を抉ってくるから、急いで見ないふりをした。
「……今だけだろ。一時的なもので、一回離れちゃえば、おまえだって―――」

「………………ずっと思ってたよ」

「……?」
 ぽつり、先程までとは違い弱々しい声が耳を擽る。
 どこか拗ねたような表情を見せるハルトは、俺からぱっと顔を逸らしてしまって、誤魔化すように煙草の箱を指先で弄んでいる。
「一時的なんて言葉で片付けないでよ。ほんとの家族じゃないナオくんが、いつ離れてくんだろうって、……俺、ずっと怖かった」
「―――ハルト?」
「……ナオくんは覚えてるかわかんないけどさ。ナオくんが大学生になったとき、ナオくんの友達がおれたちの家に集まって飲み会してたじゃん」
 全く思い当たる節が無くて首をひねると、呆れたように溜息を吐かれてしまった。
「ナオくんは覚えてないよ、きっと。べろっべろに酔っぱらってたから」
「……ソレハスミマセンデシタ」
「二次会することになって無理やりうちに来たんだろうね。俺もその日仕事って言ってたし、ナオくんも俺がはやく仕事終わって帰ってきてたの気付いてなかったんだよ、俺、自分の部屋に居たから。うるせーなーと思って会話聞いてたらさ、そんときナオくんといい感じだったらしい女が、酔っ払ったナオくんに、明日から毎日ごはん作りに来てあげるって言ってたんだ」
「…………俺はそれが誰かすら覚えてない」
「だろうね。でも、それだけでみんな馬鹿みたいに冷やかして盛り上がっててさ。俺だけだった。俺だけ何も喋れなくて、冗談だってわかってても気分悪くて仕方なかった。俺たちの家に誰かが入ってくるなんて、ナオくんの隣に俺の場所がなくなって、誰かが自然と居るなんてさ、そんなん考えたら、俺、吐いちゃうくらい嫌だったんだよね。反吐が出るってああいうことかと思ったよ」
「…………」
「だから、料理だって練習したんだよ、あんな女に来てほしくなくて。最初はへったくそだったけど指がボロボロになるまでやって、撮影んとき繋げねえだろってすげえ怒られたりもしてたんだよね。でもさ、それでもね、ナオくんが俺以外のごはん食べれないくらい美味しいの作りたいって思ってたんだ……ちょっとでもナオくんの役に立ちたかったから」
 へらっと笑ったハルトは当時を思い出しているようで、今は傷ひとつ残っていない両指を見ながら話を続けていく。
「……あれだってそうだよ」
 そしてその流れで指の方向を変えた先、ドラッグストアの店頭には、何枚も同じハルトのポスターが飾ってあった。
「? なんだよ」
「…………ナオくん、自分の髪の毛触って、俺を思い出したことある?」
「あるよ、そりゃ」
 くん、と自分で髪の毛を引っ張って匂いを嗅げばハルトのCMを思い出すし、その流れでハルトと同じ匂いなのだと実感する。そう何の気なしに告げれば、ハルトは、やった、と至極嬉しそうに微笑んだのだ。
 流れの見えない会話に眉間に皺を寄せながらアイスコーヒーを飲んだ瞬間、ハルトがぽつりと言葉を漏らす。
「俺ね、ナオくんが風呂で髪洗ってる時に思い出してほしいなーと思って、このCM受けたんだよね」
「ぶはっ!」
 思いがけない台詞を聞いて漫画のようにアイスコーヒーを吹き出すも、ハルトはそんなこともわかっていたとでも言いたげにテーブルの上に飛んでしまったそれを拭いてくれていた。
「俺は、俺が居ない時にもナオくんに思い出して欲しいんだと思う」
「…………」
 汚れたおしぼりを畳みながら俺の辞書にはない台詞を吐くハルトだったけど、もしそれが本当だったら、とっくの昔に成功していると思う。
 学校でハルトの名前を聞かない日はないし、通勤中の電車内で広告を見ない日だってない、今の俺のバイブルとも言える指南書だって、ハルトの表紙を見ないコーナーを歩きまわった結果なのだから、あんな至る所に生きてるやつを、思い出すなという方が無理だろう。

 おまえが思っているより、おまえは、とっくに俺の中に侵入しているくせに。

「……俺は、ナオくんが居なくなるのがずっと恐かったんだって言ったよね」
 もう飲みきってしまったアイスコーヒーの氷だけを、ハルトはくるくると掻き回している。
「ナオくんは出て行くって言いはるけど、だから俺も、簡単に良いよなんて言いたくない」
 カランカラン、不規則な音とは正反対な落ち着いた声が、すとんと耳に入ってくる。
「本当に納得できるまで、俺はナオくんと離れる気なんて、ないよ」
 カラン、ぴたりと動きを止めたハルトに、真っ直ぐに射抜かれた。



「―――「俺自身」からは逃げたって、「俺」からは絶対に逃がさない」



 丁度音楽の変わり目だった店内は、一瞬すべての音が掻き消された。
 そのせいで余計鮮明にハルトの声が俺まで届いてしまって、ぞくりと身体に走った鳥肌が一向におさまらない。
「………………」
 逃さないと言われた俺の脳内には、ハルトと離れている時間でも、俺の日常生活に易々と侵入してくるハルトが浮かんでいて、こんなに街中に、日本中に現れる男から逃げられる方法など、俺が一番知りたいと恐ろしいことを思ってしまった。
「…………」
 逃がさない、その重い台詞は俺が思ったよりも俺自身の根底を撃ち抜いてくれていたらしい、ハルトから目を離せないどころか、指一つ、視界に入るはずのない足の指一つすら動かすことができなかったからだ。
「……それでも、ナオくんは離れていくの?」
 ぴくり、ようやく動くことができたのは、ハルトの気迫が薄れ、肩を落とす張本人が目の前に現れたからだ。
 同一人物のはずなのに全く違う雰囲気にごくりと息を呑む。俺が知っているハルトは、こんなやつだっただろうか。


 こんなに怖くて、こんなに弱いハルトを俺は知らない。


「ナオくんは、やっぱり、俺以外の人と、ずっと一緒にいたいの……?」
「―――……おまえ、泣いて……」
「おれは、やだよ」
 きっぱり言い切るハルトは俺を避けるように目を逸らして、ぐっと目深に帽子を被り直した。
「……どんな場所でもいいから、どんな距離だっていいから、ナオくんのなかで、おれ、生きていたいんだよ」
 すっかり交わらなくなってしまった視線を此方は離さず送り続けていると、ぽつりぽつり、今まで見えていなかった本音が聞こえてくる。
「でもほんとは、ナオくんになんか聞いた時、問いかけられた時の答えが、ぜんぶ俺につながっていてほしいよ」
「………………」
 集中を切らせば聞こえなくなってしまいそうなほど小さな声はまるで縋るように俺だけに向けられていて、なんと返せばいいのかがわからない。
 こんなに真剣な想いを告げられているにもかかわらず、こんなに中途半端な気持ちのまま、一方的に別れを告げるなんて、できるはずがなかったからだ。
「いちばん大切な人も、いちばんいっしょにいた人も、いちばんいっしょにいたい人だって……いちばんに思い出してくれなきゃ、やだよ」
 やだ、素直な感情を吐き出したとき、ぽとり、目の前の光景に動きが見えた。
「ッ、」
「―――ハルト…………」
 更に深く俯いてしまったハルトの瞳は見えないけれど、たしかに涙が落ちるのを俺は見た。
 ドラマみたいに綺麗に落ちた涙は、ドラマなんかよりも、もっとずっと俺の心を刺激して、何度も何度も針に刺され続けるように絶えず罪悪感がこみ上げる。
「―――……ナオくんっ……」
「…………」
 視界に映るのは、俯いたハルトが唇を噛んでいる姿だけ。精一杯の力を込めて呼ばれた名前は、いかないで、と聞こえてくるようで、店に足を踏み入れたときには持っていたはずの確固たる決心が足早に俺の中から逃げていく。

 ……だって、どんなに外見が変わっても、どんなに大人になったとしても、俺はいつまでも、どうしたってこいつがかわいいことには変わりがないんだ。

「―――ッ」
 もうほとんど折れてしまいそうなギリギリの感情で、わかった、という言葉だけを吐き出せずに喉元で堰き止めていると、男二人が黙り込んだまま動かない異様な光景が気になったのか、ぼそぼそと背中から声が聞こえ始めた。
 此方が集中して話をしているあいだに、いつの間にかすぐ後ろに人が居たらしい。
「……え、あれ、……奥の男の人泣いてない……?」
「え、マジ……?」
 囁くように話される声も静かな店内ならば届いてしまって、まずい、と背筋が強張るのに時間はかからなかった。
「えっ、え、え、あれっ、ハルト……?!」
「えええええ……! そんなわけっ……!」
 焦点を合わせてまじまじと見れば相手が芸能人だと気づいたのだろう、小声の中に好奇心がまじり、余計に此方に集中している様子が背後から感じられた。 



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