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「じゃあさ、今度なんか借りてくるから! そしたら着てくれる?」
「だからアホッ、着るわけねーだろ!」
「ええ〜〜ずるいよ〜もう〜!!」
 やだやだやだとソファを叩く健悟に絆される義理は無い。一頻り騒いだ後、ぶすくれた表情を変えない蓮から相手にされないと悟った彼は、再び自分の携帯に視線を送り、ぽつりと呟く。
「……………………かわいい……」
「……そればっかかよ」
 思わず出てしまった、というような自然なトーンは本日何度目かも分からぬほどに聞き飽きていて、馬鹿の一つ覚えのように繰り返されるそれに呆れている反面、じわじわとした恥ずかしさもしっかりと込み上げていたことも事実だった。
「…………も〜……」
「あ?」
 すると、もう限界、と顔に浮かべながら、健悟は水に濡れた紙のようにふにゃふにゃと背を丸めた。
 ソファの背もたれに左肩を預けて、身体の矛先は蓮に向けたまま、まるで気を抜かれたようにソファに体重を預ける。すっかり緩みきっているその様子は限られた空間でしか見えない姿で、蓮が懐かしさを覚える反面、健悟はその気の緩みを反省するように溜息を吐いていた。
「……おれ、怒ってたのに」
「………………」
「……怒ってたのにさあ、こんなかわいい蓮みたら、そらほっぺた役に立たなくなっちゃうじゃんー」
「………………」
 ああもうー、と、つい発した悔しそうな口調とは裏腹に、携帯の無機質な画面をぐりぐりと人差し指で撫でくりまわす姿を見て、つい、「やめろ」とその二の腕を殴ってしまったことは誰も責められないだろう。
「…………なんでこんな蓮に甘いのかなー、俺も……」
「甘いかあ? んなことなくね?」
 普通に怒られてる気もするけど、と眉を顰めた蓮の頭に浮かぶのは、洗濯物出してとか起きてとか母親のように世話を焼く姿ばかりで、うっかり笑ってしまいそうになった。
 生活するという観点はともかく、記憶を辿ってみれば、どんな些細な喧嘩をしても最初に謝ってくれるのは健悟からな気がする。
 最後には、仕方ないなあ、と笑みを浮かべながら溜息を吐く健悟を思い出せば、強ちその台詞も間違いではないのかと思えてしまった。
「………………うーわ」
「え、なに?」
「……おれおまえといると、なんかすげーダメにんげんになってる気がする」
「なにそれ」
「……や、だって、たしかに…………、」
 年上だからとか、大人だからとか、そういう問題では決してない。甘やかされていたなと、自分で言うのも可笑しいだろうと語尾を濁すけれども、健悟はその言い淀む姿だけで全て通じたとでも言わんばかりに、蓮の頬をぶにっとつまんできた。
「……許すよ」
「、んあ?」
「許すに決まってんじゃん」
 少しばかりの反省と罪悪感が込められた蓮の瞳は普段よりも些か薄暗い色を宿していて、だからこそ、ぐりぐりと痛くない程度に蓮の頬をぶにぶにと揺らした健悟は、ずるいなあ、と言わんばかりに唇を尖らしながら言葉を続けた。
「卑怯だよ。俺が蓮に弱いの知ってるくせに、そんな顔するの」
「っ、」
 むーっと拗ねたような顔を見せる健悟に対して、それはこっちの台詞だと言い返したくなるのは、他でもない、蓮の方だった。
 おまえだって、おれがその顔に弱いの知ってるくせにーーー言えばこの先三年は喜びそうな台詞だからこそ口にはできない悔しさを抱えたまま、震える鼓動を隠しながら見上げることしかできなかった。
 健悟のずるいところはここからで、蓮の頬に伸ばした手を前髪へと移動させ、撫でるようにその髪を耳に掛ける。
「髪。ちょっと伸びてきたね?」
「……ん」
 邪魔な前髪がなくなったことで蓮の表情が直接捉えられるとともに、銀色の派手なピアスのついた右耳が露呈する。
 ふにふにと耳を撫でられれば、湧き上がる身体の熱を止めることは些か難しく、案の定、緩い赤色に染まった耳の縁が健悟の視界に入ってしまった。
 その瞬間、まるで蓮の感情をすべて見透かしたかのように表情を崩した健悟からは、拒否という選択肢が一切昇華されてしまったようだった。
「もー、れーんくん。風呂。いらないっしょ?」
 そして、何処ぞの悪餓鬼のように歯を見せた健悟は半ば強引に蓮の手を引いて、制止の声は聴こえないと言わんばかりにソファから距離をとっていく。
「は、いるいる、いるって!」
「いらない。だめやだ、きょうは俺の言うこと聞くのっ」
「、おまっ、」
 健悟に掴まれた腕の先にある、肩口から溢れる罪悪感を捨てきれず強く否定できずにいると、無抵抗を肯定と都合よく捉えた健悟は躊躇いなく寝室へと歩みを進めていく。
 そしてその結果として、ぼすん! 突然ベッドに投げ捨てられた蓮は、たかだか数十分前に見た天井と再び対峙することとなってしまった。
「……おまえさー、さっきとなんも変わんねえんだけど」
「あはっ」
 風呂に入るべく出て行ったにもかかわらず本懐を遂げぬまま連れ戻されたことに顔を顰めるけれど、観念しろとでも言いたげに蓮の上に覆いかぶさる健悟の表情はおもしろいくらいに蓮と正反対なものだった。
 会わなかった四日分を取り戻すかのように、ぎゅうと背に腕をまわされ、首筋に額をうずめられれば、数日間手に入れることができなかった居心地の良い圧迫感に包まれる。
 適度な圧迫感とともに与えられるあたたかな体温と、反対から押し寄せるふかふかな布団の感触。するすると滑る枕カバーはシルクの生地が綺麗に整えられていて、思わず一度頬ずりをしてその感触を楽しんでしまった。
「…………ふとん」
「ん?」
「……すげえふかふか、気持ちい。……干したの?」
 首筋に埋まる銀色の髪の毛を梳かしながら蓮が聞けば、そんな時間があったのかは定かではない塊がひょこっと頭を上げた。
「干したよ〜、久しぶりに蓮が帰ってくるんだから。合宿所の方が良かったって言われたら俺しんじゃうもん」
「……言わねえよバカ」
 へらっと表情を崩した忙しい芸能人を失礼にも鼻で笑ってしまったのは、そんな暇があったのかという驚きからだった。時間のかかる面倒くさい洗濯は自分の役目のはずだったのに。わざわざ早起きして干してから出かけてくれたのかと、ただでさえ少ない睡眠時間を自分のために惜しまず尽くしてくれる優しさに、思わず、ぎゅうぎゅうに抱き締めてしまいたくなってしまった。
「、さーーんきゅー!」
「ん〜〜」
 普通に御礼を言うのは照れくさくて、冗談交じりに声を荒げる。
 抱きついてくる健悟に想いを返すように、わざと絡まる両脚の力を強くして、冗談交じりに下からぎゅうぎゅうと抱きしめると、手中に居る塊から苦しそうでもあり幸せそうでもある声が漏れた。
 いたいいたい、と、あははと笑うその声音が聞きたかったのだろうか、健悟が笑っている声音が耳に入るたび、歯痒いようなむず痒いような、言い表せない感情がふつふつと腹の底から込み上げてくる。
「……けんご、」
「ん?」
 見上げるかたちになっていた健悟の首をぐいっと引っ張って、その全身を自分に密着させる。
「わ、」
「…………」
 そして、一度全身で相手の重みを受け止めてから、それを流すように己の左側へとごろんと倒す。その瞬間、健悟にも伝わるふかふかの布団の感触。
 真横に倒れて少し驚く健悟のところまで蓮が這い寄ると、そのまま、まるで悪戯が成功した子供のように笑みを浮かべた。
「マジ、ちょーきもちくね?」
「……それってさあ、布団じゃなくて俺が居るからじゃないの? ねえ?」
 すると、その蓮をも上回るような楽しそうな表情で蓮の顎を撫でる健悟が居て、答えなど聞かずとも分かっているかのような笑みを浮かべられる悔しさから、蓮は、わざと仰向けになって軽く左右に身体を揺らす。
「……あー、『布団』きもちー。マジ寝れるわー」
「もーっ!!!」
 嫌味を強調してうつぶせのまま枕に顔を埋めれば、素直さを捨てて来たことを悟ったらしい、さっきのかわいいおまえはどこいったの、と、唇を尖らせた健悟がベッドに肘をついてさらりと蓮の耳を食んだ。
「っ、」
 瞬間的に背を震わせた蓮は、反射的に耳を抑える。けれども健悟はその手を奪い拘束したまま、蓮の顎を引き寄せて、ゆっくりと、耳から頬へと唇を這わせていった。
 寝室に何度も響く、ちゅっ、というわざとらしい音がだんだんと蓮の唇に近づいていくことを蓮自身が肌で感じていると、ぺろり、そのまま乾いた唇が舐められる。
「、犬みてえ」
 唇をぬるりと撫でられる感触に、羽生の家で飼っていた犬を思い出して言えば、違うだろうと言いたいのか健悟は唇の端から端まで余すことなく丁寧に舌を乗せてきた。
「犬より働きますー」
 にやりと笑みを浮かべながら動かされた健悟の右手は、するり、服の上から腹を撫でてくる。
「れーん。寝るのは、また後で。ね?」
「あ?」
 そして、薄い布が邪魔だと言わんばかりに手の位置を下げた健悟は、服の境目をぺらりと捲ると、そのまま蓮の同意を得ることなく余計な肉の付いていない薄い腹をさらりと撫でていった。



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あきゅろす。
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