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 ふたりだらしなくベッドに転がり、暫くうとうとしていると、頬や鼻を抓っていただけの健悟の手が段々と降下していくことがみて取れた。
「、……すんの?」
「しないの?」
 捲られたシャツの隙間から温い掌が侵入してきたタイミングで色気なくそう問えば、至極当たり前のようにきょとんとした顔で問い直された。
「……しないっつったら?」
「する」
「なんで聞いたんだよ」
「参考までに?」
「参考にしねーもんを参考までにとは言わねーよバカ」
 意地悪でしないと言ったというのに、そんな選択肢は微塵もないと自信満々に言い切る健悟に、ふっと笑いが込み上げる。
 四日ぶりの健悟は、何かを確かめるように全身を撫でていた。
 少し傷み始めた髪の毛の先から変わりなどない膝裏までぺたぺたと触ってくるその手つきにただただ相手を実感していると、すん、健悟の鼻が揺れたことに蓮が目敏く気付く。
「あ。つか風呂。入ってねーんだけど」
 はっ、と目を覚ましたかのように、近づく健悟の額を掌で押し返すけれども、健悟は何も気にしていないように蓮の腕を引っ張り、その腕に小さなリップ音を落とした。
「うん、居酒屋くさいね」
「嗅ぐなっつの」
 てめえ、と蓮が健悟の腹を軽く蹴るけれども、当の本人は微塵も気にしていないらしい、うそだよ、と微笑みながら更に蓮の鼻の頭にキスをした。
 軽く繰り返されるそれは部屋の雰囲気を支配するには充分すぎるほどの色気を孕んでおり、ぽかぽかと幸せそうな表情を見せる健悟を眺めていると、自分でも、流されそうだと実感していた。
 もういいか、風呂はあとで、と投げやりに健悟の大きな枕を抱いて身を委ねた瞬間、ちりっ、少しだけ強い刺激を感じる。
「―――……」
 あ、これ、いま痕つけやがったなこいつ……。
 やめろと言っても一向に聞く耳を持たない健悟に眉根を寄せて、もういっそ芸能人というカテゴリーを無視して俺も痕を付けてやろうか、と自暴自棄になりかけた、―――瞬間。

 …………痕?

「…………!!!」
 思い至った出来事に、がばっ!と一気に起き上がる。
「っ、……!!!」
「?」
 ベッドに両肘を置いて、わなわなと震えることしかできない。
 寄り添って来る健悟を土踏まずで一蹴すれば怪訝な表情をされたけれども、そんなことに構う余裕など一切存在しなかった。
 だって、自分の頬が赤くなっているだろうことなど本人が一番分かっている、身体から湧き上がる異常なほどの火照りはすべてが顔に集約したのではないかと疑うほどに、耳から頬から赤くなっている自覚があったからだ。
「なに、どうしたの?」
 目を見開いて呆然としている蓮に向けて、事態を飲み込めない健悟が手を伸ばす。
 けれども、まるで敵と認識するかの如く払いのけられた右手は乾いた音を生み出して、滅多にない本気混じりの対応に健悟は難しい表情で右掌を見つめることしかできなかった。

 ―――しかし、その一瞬後。

「………………てっめえええ〜〜!!!」
「ええええっ!?」
 先程まで枕を抱きながら、しおらしく受け入れていた蓮の様子とは一変、抱きかかえていた枕への温情など元からなかったかのように、本来の持ち主へと全力で投げ付けた。加えて、ばふんっ!と強く弾んだ音が寝室に響いたあと、くっそ、と舌打ちしながら健悟と距離をとっていくことも忘れない。
「てめえっ! 忘れてたっつーの!!!」
 理由は簡単、あのとき、平然を装っていた演技の下、じわじわと沈殿していた怒りがふつふつと湧き上がって来たからに他ならない。
「くっそ……! 今日という今日は殴る、ぜってー殴るっ! ちんこ出せてめえ! 潰す!!!」
「え〜〜〜っ、ちょ、れん!? 落ち着いて! 物騒すぎるよ!? ねえっ! さっきまでの空気っ!!!」
「んなモン知るかボケ!!!!」
 合宿中の風呂場で対面した恭祐の顔を思い出すだけで、腹の底にあった靄が一層色濃く広がっていく。
 馬鹿にするような距離を置くような、どこか異端者を見るような眼で上から下まで舐め回していた恭祐の姿。じんわりと支配する恥ずかしさと情けなさに身を委ねれば、八つ当たりの矛先など目の前にいる健悟という選択肢しか残らなかった。
 久方ぶりの熱を孕んでいた五分前の空気とは一転、当然色気とはかけ離れた意味で健悟のパンツに無理矢理手を伸ばせば、案の定先程までの二つ返事で了承する健悟の姿はなく、落ち着いて!とひたすら宥める選択肢を選んだらしかった。
「健悟っ!」
「……え?」
 止まらぬ苛々を隠さず目の前の男の名を呼べば、身体に似合う大きな枕を抱えたままの健悟が苦笑いをしながら視線を合わせてくる。
「俺、怒ってんだけど」
「……え〜?」
 態度を変えず、ずいっと自分の脚を健悟に差し出す。四日経って薄い黄色に変わっている内出血は、ようやく鮮やかな赤を捨てていた。
 数日前にくっきり息づいていた真っ赤なそれは、紛れも無く恭祐に見られていて、かつてないほど居心地の悪い空間をつくりだしてくれていた。
 胸元、腹、脇腹、助骨に沿うかのようにつけられた赤は、泉から、絶対にやっちゃだめだよ、と禁止されているもののうちのひとつだった。
「おっまえな、自分はつけんなっつってたくせに、これなんだっつーの!」
「え〜〜?いったたた!!!」
「ええじゃねえよ、ざぁとらしい!」
 てめえっ、とそのまま踵で健悟の太腿を抉るように攻撃するけれど、効いているのか効いていないのか困ったように笑っているだけだった。
「おっまえな、俺がどんだけ恥ずかしかったと思ってんだよ!」
「えっ、やっぱ見られたの!?」
「はあ!?みんなで風呂入んだよ、あたりめーだろ!」
「え〜〜〜〜!」
 踵で蹴りつけた時よりも大きな声が出たのは、明らかに残念がっている声音、だからこそ、呆れながらもふるふると拳が揺れてしまうことも仕方のない事だった。
「おっまえ……ぜんっぜん反省してねえじゃねえかっ……!」
「……だって、俺のだって自慢したいもんー」
「自慢って…………」
 ちくっ、と痕がまたひとつ増えた瞬間に蘇った合宿中の恭祐の姿、全身に込められた熱情を否定するつもりはないけれど、合宿に行くとわかっていながら牽制を込めたその真意に苛立ちが募る。
 恭祐に見られた恥ずかしさからの八つ当たりか、騙すように痕を付けた健悟に苛立っているのか、信用されていないことが哀しいのか―――未だ噛み合わない健悟に向けて、感情のままに一方的に怒る自分が虚しくなってくる。
「―――……」
 答えの出なそうな問題に向けて溜息をひとつ、どちらに非があるのかの答えは出ぬままにして、差し出してきた健悟の両腕をすり抜けベッドを降りた。
「蓮?」
「…………俺、やっぱ風呂入ってくる」
「、れん?」
「…………」


 きっとそれだけ、信用されていないということなのだろうか。


 着ていたシャツを洗濯籠に投げ入れる。数日分の洗濯物が溜まっている籠から健悟の忙しさを感じながらも、今すぐに洗濯をする気力はどうしても湧かなかった。
 数日間を過ごした大浴場とは違う静けさは心地が良い筈なのに、胸の奥にある靄が一向に晴れないからだ。
 ベルトに手を掛ける寸前、せっかく家に帰ってきたのに嫌な顔してんなあ、と鏡を覗いたところで、ふと、自分の肩口が視界に入った。
「、―――げっ……」
 そして、思い出すのは、派手としか形容できないあの男。
 恭祐と別れてから数時間経つというのに、何度脳裏を過ぎれば気が済むんだと勝手な感傷に浸りながら鎖骨を擦る。
「まだ消えてなかったのかよ……」
 鎖骨から肩にかけて残る規則的な点線は言わずもがな歯型であり、二、三本の前歯だけで噛まれたわけではない、ガッツリと残る楕円の形状が生意気にもあの年下野郎の口の大きさまでもを物語っているようだった。
「あいつどんだけ強く噛んだんだよ、……くっそ」
 チッと舌打ちしながら肩を擦っても、当然歯型が消えることはない。
「あー……マジか……」
 さっきの雰囲気のままだったら、ベッドでバレてうるせえことになってたな、と、思ってしまうことも仕方がない。
 風呂場で気付いてよかった、肩のこれが消えるまでは大人しく健悟を宥めるしかないな、と舌打ちと溜息を繰り返す。
「つか、さむ……」
 上半身だけ裸で脱衣所にいればいくら室内といえども身体は冷えてくるもので、急いで下も脱いで風呂に入ろうとベルトに手をかける。

 ―――すると。

「……れ〜ん〜」
「!?」
 ガチャリ、ノックの音もなく脱衣所の扉が開けられた。
「ちょ、まっ!!!!!」
 足音に気付かぬほど考え込んでいた自分が悪い、そう思いつつも今できる精一杯の抵抗など、掌で肩を覆う、たったそれだけのことだった。
「え?」
「―――……」
 ひやり、背中に冷や汗をかいている蓮の真ん前で、何も知らない健悟が素知らぬ顔をして脱衣所に脚を踏み入れる。
 さっきはごめんね、と続くはずだった健悟の言葉だが、蓮の姿を見ればそんな言葉を紡げそうにはない。目の前に広がる圧倒的な違和感に、意識を支配されてしまったからだ。
「……………………なに、その手?」
「、……いや?」
 ひくっ、と蓮の口端が釣り上がる傍ら、瞳までもが狼狽を隠せずにいた。
 この事態をどう切り抜けようかと動転する蓮の傍ら、迷いがなかったのは健悟の方であり、入り口から三歩進んで間髪を入れず蓮に近寄ると、躊躇うことなく蓮の腕を掴み上げる。
「ッ!」
「――――――……」
 普段とは違う、感情に任せた強さで握られた腕はあまりの痛みに骨が軋んだ気すらしたけれど、痛みよりも冷たい健悟の顔のほうが怖かった。
 何も言葉を発さない無表情の威圧に負けて、蓮はぎこちない笑顔をつくりながら、ちらちらと健悟の顔と肩口の歯型を見比べる。
「……や、ちげっ、これはふざけてっ……!」
「ふざけて?」
 鸚鵡返しのように冷静に繰り返される言葉だけれど、それを発する張本人からは一切の温度を感じず、脱衣所の温度が随分と急激に下がった気がした。
 最早健悟が自分で噛んだという選択肢はすっかり消えているだろう本人に向けて、恭祐への恨みを忘れぬまま、静かに答える。
「……ふざけて、………………噛まれた?」
「…………へえ?」
「っ、」
 観念して事実を述べただけなのに、語尾を疑問形にした途端、ぐっと眼を細められた。
 迫力あるそれには思わず背筋が伸びてしまったけれど、唇を真一文字にすればもう喋れなくなりそうで、その恐怖から無理矢理、開け開けと必死に脳から信号を出す。
「…………ち、ちげえって、おまえが思ってるようなことはなんもなくて……ただ、冗談で……」
「冗談?」
 ぴくり、ようやく反応した健悟は信じているのか信じていないのかどちらにせよ良い雰囲気を纏っているとは言い難く、疑われている、というキーワードが真っ先に頭のなかに浮かんできた。

 …………あ、やべ、信用してない?

 本当のことしか言っていない、けれど実際、歯型を付けて隠して言い訳する健悟を見てどう思うか、なんて自分に置き換えれば確かに信用できないと思ってしまい、もう真一文字に閉じた唇を開くことはできそうにない。
 甘い空気から一変して自分が怒り散らした五分前、そのたった三分後にこんな重苦しい空気に陥るなんて誰が想像していただろうか。
「………………」
「………………」
 シン、と静まり返る脱衣所でぶるりと生身の肩が震えたけれど、それが寒さからなのか居心地の悪さからなのかの判断はつかなかった。




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