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 健悟に言われるがままに無言を貫いた数分を経て車内という密閉空間から抜け出したふたりは、喧嘩をしているわけでもないのに一切の言葉を掛け合うことなくマンションのエントランスを潜り抜けていた。
 いつもならばエントランスですら気を抜かず、芸能人らしい余裕と貫禄を見せつけながら車の鍵をくるくるとまわすような男だというのに、今日という今日はそんな素振りすら見受けられず、マンションのカードキーだけをただ握り締め、一刻も早く自室に入るべく足早に進んでいるようだった。
 その隣では、まるで躾をしている飼い主よろしく、車を降りてからも事あるごとに、さりげなく指を絡めてくるという一方的な攻撃を振り払い続けていた。
 そして、不自然な無言に包まれながらもふたり一緒にエレベーターに乗り込む。貧乏揺すりさえ始まりそうな芸能人から二歩の距離をとって乗り込んだエレベーターでは、すっかり慣れてしまった高層マンションの最上階にあっという間に到達してしまう。扉が開くと同時、もう良いだろうと言いたげに、蓮の手がぐいと引っ張られる。そこからの健悟の行動は早く、既に握りしめていたカードキーで、最上階にひとつしかない扉の鍵を開けて―――ようやく。
「……いてえんだけど」
「………………」
 ガバッ、と乱暴な効果音がすっかり似合ってしまうほどに勢いよく、一瞬にして、蓮の背中に両手がまわされた。
 粗暴なそれは相手の痛みも考えずに彼の頭の中でのみ完結して行われたのだろう。シカトかよ、と鼻で笑った蓮は呆れながら膝を使って健悟を蹴りつけたけれど、当の本人といえば太腿を攻撃されてもなお反応を見せずに、ただ抱きしめてくるのみだった。
 害のないそれはただ甘えているだけだと分かるからこそ、まあいいけど、と溜息を吐きながらひとり納得し、きっと待っているのだろうその広い背中に、蓮は久しぶりに両腕を回してやる。
 愛を囁くわけでもなく、手をつなぐわけでもなく、頬を撫でるわけでもなく、キスをするわけでもなく、ただ胸元に蓮の頭を押し付けて抱きしめるだけの行為だからこそ、何をするでもなくただただ相手の温もりを両腕いっぱいに感じることができる。
 玄関先でなにしてんだか、と頭の片隅で呆れながらも、蓮が負けじと更に健悟を引き寄せると、隙間をなくした胸の内から相手の心臓の音が聞こえてきて、余計に自分の鼓動が早まったことに気づいてしまった。
 どちらのものだか分からなくなるほどに近い距離、四日間規則正しいリズムを刻んでいたそれはいともあっさりと覆されて、耳の奥まで響くほどに煩く鳴っているにもかかわらず、蓮の心をひどく落ち着かせてくれる。
(…………すげえくやしいけど、……すっげーおちつく……)
 自分よりも随分と背丈の大きな男に癒されてしまっている事実に一抹の悔しさを覚えながらも、くっそー、と心中毒づきながら健悟の胸元へすりすりと額を埋める攻撃を繰り返す。
「……れーんー」
「……なんだよ」
 すると、ちょうど蓮の髪の毛に顔を埋めた健悟が、蓮の頭蓋骨に響くだろう位置でこそりと空気に音を乗せ始めた。
「んー……なんでもない」
「っだよ」
「……あはっ、うそ、なんでもある」
「だからなんだよ」
「……えー、……おさけくさいですよ〜、れんくん」
 くんくん、と蓮の頭に顔を突っ込んで髪のにおいを確かめる健悟は蓮から見えない位置ですっかり眉を顰めており、煙草や油の染みたにおい、自分の知らないニオイをつけている蓮に対して若干の苛立ちが沸き上がってしまう事実を止められない。
「んな飲んでねえよ」
「うそつかないの」
 放っておけば飲酒量まで的確に当ててきそうなほどにしつこく、くんくんと鼻頭を髪の毛に寄せられる。
 あまりにもしつこいそれに蓮が身を捩って離れようとした瞬間、ふと、すっかり唇を尖らせていじけている大の大人が視界に入ってきた。
「…………」
 その一瞬の表情だけで十分すぎるほど、妬いてるだけだこりゃ、と悟ってしまうほどには相手のことを熟知している。
 だからこそ蓮は全身の体重を健悟に寄せたまま、腕だけをぐいと動かして、両手で健悟のアウターをぎゅっと掴んだ。
「……悪かったよ」
「!!!」
 そして、アウターを引き寄せて、そう一言。
 可愛らしいリップ音もせず、ただ皮膚が重なるだけのキスは、色気も何も孕まない。
 けれども、ほんの少し押し付けるだけの軽いそれすら四日ぶりなものだから、拗ねている表情から一転、驚いている健悟の様子が顔一面に飛び込んでくるのはもちろん、普段では絶対にしないだろう行為に蓮の方が照れてしまうという不慮の事態に陥った。不意をつかれたと言わんばかりに立ちすくむ健悟の肩を、不必要なほどに強く押して、蓮はさっさとその場を離れるべく自分のブーツに手をかける。
「……なにびびってんだよ」
「、だだ、だって蓮からとか! ずるいっ!!」
「……はあ?」
「俺めっちゃ我慢してたのに!!!!」
 会った時から! 車でも! 下でも! いまもっ! ずっとちゅーしたかったのに!!! と大きな口を開けて元気に力説してくる健悟は、テレビの中にいる時の様子は微塵も垣間見れず、悔しさからか照れからか若干耳元を赤くして蓮に糾弾してくる。
「知るかバーカ」
 けれどもそんな健悟の焦った様子など、所詮は可愛いとしか思えぬ盲目の持ち主だからこそ、ハッと鼻で笑った蓮は行儀よく靴を脱ぎ始めていて、おまえもはやくしろよ、と顎で健悟を急かしてやる。
「あーもうほら、靴脱げよ。リビングいこーぜ」
 がし、と土踏まずで健悟の脛を軽く蹴ると、健悟はその攻撃に反撃することなくただ唇を尖らせて、一言だけ拒否の意を示し始めた。
「……やだ」
「あ?」
「……行かない」
「なんでだよ」
「ベッドがいい」
「…………てめえな」
 真っ直ぐな瞳で言い切る健悟に呆れて蓮が溜息を付くけれども、健悟は足早にブーツを脱ぎすてると、揃えることもせずに蓮の掌をぎゅっと握りしめて玄関をあとにする。
「……疲れてるんじゃねえのかよ」
「いい、吹っ飛んだ、元気超元気。はい蓮、荷物持つから、いこ!」
「…………」
 言いながら、本当に蓮の荷物を全部受けおった健悟は、右手に荷物、左手にはお決まりといったように蓮と手指を絡めて、指輪を呼応させながら短い廊下を歩いて行く。
 たかが寝室までの距離だというのに、まるで子供を連れて行くかのように優しく手を繋いで移動する健悟に対して、蓮は恥ずかしそうにしていたけれど、相手と一緒にいることができなかった四日間を考えればそれだけで嬉しく、珍しく反抗することなくその背について行った。
 そしてリビングにあるふかふかのソファにさよならをして辿り着いた先は案の定寝室だったけれども、電気をつけて一瞬後、ベッドの上を視界に入れた時、蓮は目を丸くして動きを止めてしまった。

「!?」
「、げっ」
 焦った健悟が右手の荷物を放り投げてベッドに向かい、見られたくなかったであろうモノを隠すも時すでに遅し、健悟の背後にいた蓮もズカズカとベッドに近づいていき、への字に口を曲げていた。
 自分のシャツを捲り一瞬腹筋を見せたのち、一気にシャツの中にソレを隠した健悟だったけれど、蓮は既に目にしていたようで、「……出せよ」と低い声で健悟に右手を差し出してきた。
「…………えー」
「出せ」
「…………」
 まるで大型犬が反省するかのように有りもしない垂れ下がる耳が見えたかと思った次の瞬間、健悟がシャツの下からしぶしぶ出してきたものはやはり見間違いではない、四日前に蓮が洗濯機に突っ込んでおいたカーディガンそのものだった。
「……おいそれ、俺がこの前洗濯室に置いといたやつだよな?」
「……あー」
「……一応聞くけど、なんでベッドの上にあるんだよ」
「……えーっと、」
「………………んな隠そうとするってことは、……洗ってねえんだな?」
「……………………えへ?」
 四日前に手中を手放したカーディガンがなぜ目の前にあると言及しても、返事といえば誤魔化すようなその言葉、役者にしては下手くそな苦笑いを浮かべているだけだった。
「馬鹿野郎、なんで洗ってねえんだよ、くせえだろっ!!!」
「くさくないいっっ!!」
 ばーか! と汚い台詞を吐きながら健悟からカーディガンを奪おうとすると、普段は見せないような軽い身のこなしでひらりと躱されてしまった。
「っぶないな、蓮、引っ張ったらカーディガン伸びちゃうよ?」
「伸びる伸びねえより前になんでてめえが持ってんだっつー話が先だろボケ」
 返せドアホ、と右手を健悟に伸ばしても、その手に布が落ちる雰囲気はない。
 不機嫌を露わにする蓮に対して、しまった、と頭を抱える健悟だったが、見られてしまったら仕方が無い、言い訳のしようもないと分かっているからこそ、すとん、ベッドに腰を落として溜息を吐く。
「…………………しょうがねえじゃん、……寂しかったんだから」
「、」
 そして一方で、ぐしゃり、いきなり泣きそうに顔を歪める健悟に絆されそうになってしまい、蓮は慌てて顔を背ける。
 演技だ、泣き真似の演技だ騙されんな、と眉根を寄せて意識を逸らしていると、ふと、寝室のクローゼットが視界に入ってきた。不自然に開きっぱなしな上、慌てて収納したのだろう、蓮のアウターばかりが乱れている現実を目の当たりにしてしまう。
 何に使ったのかと聞くまでもない状況は過去十年分の健悟の想いからも十分すぎるほど汲み取れるものであり、四日も家を空けて大丈夫なはずがなかった、と頭を抱えることしかできない。
 そしてクローゼットから、へこんでいる張本人に視点を移せば、変わらず伏し目がちに唇を尖らせ、未だカーディガン抱きしめているものだから、はあ、と溜息を吐いて、諦め混じりにベッドに腰を落とした。
 ーーー何が問題だって、洗濯物も洗わず奪いやがったこいつを、気持ち悪いって押しのけられねえ俺が問題だと思うんだけど。
「……んなら、……俺も持ってけば良かったっつーの……」
「……え?」
 ぼそり、静かな寝室で発した言葉はきっと健悟まで届いていた。
 その証拠として一気に顔色を明るくした健悟が期待まじりに蓮を覗いてくるものだから、自分の口走ったことが信じられなくなった蓮は、ドンッと勢い良く健悟の肩を押しつける。
「なんでもねぇよ、バーーーーカ!!」
「!?」
 そして、ばふんっ、とベッドに背中を委ねた健悟の腹の上に蓮が乗っかると、その久しぶりの体温と覚えのある重さに健悟はぱちぱちと目を瞬かせ、ただ驚くことしかできなかった。
「ーーー取れよ」
 けれども、蓮に押し倒されるという珍しい状況のなか、偽の髪を梳いた蓮が低い声で言うものだから、健悟は左手で握りしめていたカーディガンをようやく手放し、本来の灰色を徐々に取り戻していった。





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