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 ―――――そしてそんな蓮の罪悪感も露知らず、合宿所における三日目の朝の始まりといえば部屋に鳴り響くバイブレーション、蓮の携帯電話に対して絶えず続く鬼電からのスタートだった。
「―――…………」
 ぼおっとしている蓮が無意識に携帯電話に手を伸ばし、目を閉じながら耳に当てると、朝にはそぐわない大きな声が蓮の脳を揺らしはじめた。
「―――れーんっ!!」
「―――ッ」
 うるせ、と額に手を置きながらつい呟いてしまうことも仕方がない、未だ目が開ききっていない状態で繰り広げられる健悟からの言葉は懐かしさよりも先に訝しくなってしまうほうが先決で、絞り出される声は至極低いものだった。
「…………あぁ……? 電話、って……電波入ったんか……」
「やっと出た〜〜〜〜〜おはよ〜〜〜!」
「……っるせ……」
 耳から離しても未だ聞こえる声に溜息を吐きながら、ようやくぱちぱちと目を瞬かせながら窓の外に目を向ける。
 部屋のカーテンが開いていてすっかり緑の背景が広がっているということは、先に起きた恭祐がカーテンを開けていたのだろう。室内を見回しても姿が見えない恭祐は朝風呂にでも行っているのか、それとも髪の毛をセットしているのか。後者だろうなあと朝早くから尊敬しながら蓮がふっと笑えば、そんな蓮の様子を汲み取ることは無い電話元からは絶えず新たな声が届いてくる。
「ねえ、変なことされてない?大丈夫!?」
「……はぁ?…………おまえな、誰にされんだよ……皆がみんなおまえじゃねぇんだよ、ふざけんなっつの……」
「ふざけてないってば、ぜんっぜん!一ミリたりとも!!」
「あー、ハイハイ……つかいま何時……」
「七時半っ!俺いま楽屋なんだけどね、もうこれから仕事だからさ、……良かったぁ……出掛ける前に蓮の声聞けて」
「……んな大袈裟な……」
 一向に本気にしない蓮が鼻で笑えば、健悟はむうと喉から不服そうな声を出したけれど、蓮が「明日帰るよ」と言えばそれだけで嬉しそうな声音へと切り替わる。
 そこから数分、健悟の仕事の話をしたり蓮のレクレーションの話をしたり、話が尽きることなく自然に盛り上がっていると、暫く経ったころ、ようやく恭祐がどこかから戻ってきたようだった。
「あ。イガ―、起きたのー?」
「あー、起きた起きた……はよ」
「うん、おはよー」
 へらっと笑う恭祐はコテとワックス片手に部屋へと戻ってきたものだから、その風貌と相俟ってトイレで変身していたのだろうということは容易に見て取れる。
「……イガ……?」
「うるせぇよ」
 電話にしっかりと耳を当てているのか、少し離れた恭祐の声を拾ってまで突っ込んでくる健悟に小さく叱ると、電話元の男は少しだけ不機嫌になっているようだった。
「朝食、バイキングもうあるから食えってさぁ、行こ行こー」
「おー、いまいくー」
 コテやワックスを適当に鞄にしまいながら恭祐が誘えば、それを否定する必要もないとばかりに蓮も布団から起き上がって伸びをする。
「恭祐、スウェット?」
「ん、いーっしょ別に」
「おー」
 まあメシ食うだけだしな、と蓮が自分を見下ろしながら同意して、残る事象はあとひとつ、すっかり不機嫌そうな声を出していた耳元の男に対して、蓮はあっさりと終止符を打ってやる。
「あー、じゃあまた後でな」
「ちょっ、蓮っ……!」
 焦る健悟の態度も気にすることなく、ぷちっと容易に通話の終了ボタンを押した蓮は未練も残さず恭祐と食堂へと進んだけれど、一方で、未練しかないこの男は―――。

「――――切れたぁぁあああぁーー!!!」

 うっそおおお!と全力で叫びながら携帯の画面を見れば通話表示はなく、相も変わらず隠し撮りした蓮の寝顔という待ち受けが広がるのみだった。
「うるっさい!」
「ってぇ!」
 当然そんな健悟を殴ってくるのはマネージャーの泉以外には存在しない、割り当てられた楽屋はひとりきりのものだったけれども、誰かが挨拶に来たらどうするとでも言うように泉は顔を鬼にしながら健悟を蹴り付ける。
「おまえね、いい加減イメージっつーもん意識しろっつってんだろ、私用電話なら猶更だ、馬鹿野郎」
「……だって、蓮がっ……!」
「蓮がじゃねぇよ、今は仕事、仕事中なの。分かりますか?お仕事ですよ、オシゴト」
「っせーな……周り誰も居ねェことくれぇ確認っしてるっつーの……」
「じゃあもう行け、とりあえず顔合わせだけだから、今日は」
「……へーい」
「腑抜けた返事すんなっつの」
「だって!蓮が!!」
「あーーーーうるっせぇ!!」
 両耳を塞ぎもう聞かないとでも言いたげな泉は健悟を蹴り付けるだけで楽屋から出そうとしていて、顔をつくれと視線だけで睨みつけてくる。
 早朝から始まる本日一発目の仕事といえば二か月後から始まる舞台の軽い顔合せ、初対面の面子ばかりだからこそ泉が必要以上に気を張るものの、肝心の張本人といえば打ち合わせ中も心ここに非ずという表情をしているものだから、そのたびに泉は健悟の足先をぐいと何度も踏み躙っているようだった。
 台本の説明から始まる舞台の詳細説明、関係者全員を含めた初回の打合せにはキャストが全員参加していることは勿論、それに携わるスタッフが数十人と壁際に並んでは同じ説明を受けている。収容人数が二千人ほどの大劇場のスポンサー紹介から始まり、一か月に渡る講演スケジュールの共有、動員予定人数など細かい数字がアジェンダに沿って話し出されるけれど、厳しい眼差しで資料を見る健悟の考えていることと言えば所詮はもう三日もあっていない可愛い恋人のことだけで、今にも貧乏ゆすりしてしまいそうな衝動を必死で堪えながら役者の仮面だけを被っている。
 二か月後から始まる舞台の劇場、そこは蓮の大学のすぐ傍に建てられていることを知っているからこそ二つ返事で了承した背景だけは拭えない。休憩時間や講演後、少しの時間だけでも逢えるかもしれないとの淡い期待を抱けばそれだけでうきうきと浮き足立ってしまう。
 蓮の大学から千五百メートルも離れていない此処は歩いても精々十五分ほどで辿り着くからこそ、今日蓮が大学に居ればこのまま一緒に帰ることができたのに、と思わず舌打ちしたくなってしまう。これから一緒に家を出たりできないかな、合間に逢えないかな、とそわそわしてしまいそうな駄目人間っぷりはしっかりと泉にも届いているようで牽制するかのように横目に睨まれたけれど、本番はもちろん公開舞台稽古にも練習にも呼んじゃうからね、とこっそり思ってしまう事実は変わらない。逢える時間が増えればそれだけで嬉しいし、見ていてくれればそれだけでもっともっと頑張れる気がするからだ。
 今日だって忌々しい合宿に行っていなければ車で拾って一緒に帰れたと思えば思うほど、朝聴いた声の主が腹立たしく、たった一日でも他の人間にそのポジションを渡したくないと強く思ってしまう。だって、蓮におはようと言えるのは、自分だけの特権なはずなのに。
風呂に行こうと誘っていた声と朝食へと蓮を誘っていた声を思い出せば、テンションは違えども同一人物だと分かり、思いだすだけで腹の底に黒い靄が溜まる感覚がある。
 ただの友達だと分かってても許容できるかどうかは別問題で、この唸るような感情だけは何年経っても変わることは無い。独占欲と嫉妬の塊だということは知っているけれど、手元に居ても安心できない温もりが、離れてしまえば不安で不安で仕方がない。

 ―――……はやく、帰ってこねーかなぁ。
 帰ってきたら、蓮がどんなに嫌がっても死ぬほど身体洗ってあげるのに。

「……逢いたいなぁ……」
「――――」
 小さな声でぼそっと呟けばその瞬間に背筋を伸ばした泉に脚を全力で蹴られたけれど、顔色を変えることをしなかったのはスタッフである女性の声が顔合わせのフロアに響いたからだ。
「続いて、主演の真嶋健悟さん―――」
「―――はい」
 ズキズキと痛む右足を悟られることなく数十人からの拍手を受けながら挨拶をしていても、口から出てくる言葉と脳内に浮かぶ言葉は一向に噛み合うことはない、今は見えない場所に居る金髪がこの瞬間に誰と何をしているのだろうかと、結局のところ傍に居ても離れても、それしか考えることができなかった。




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