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「……れーん、おかえりっ」
「先に言うなよ。……ただいま」
 ガチャリと家の鍵を開けて先に玄関へと脚を踏み入れたのは健悟だったというのに、彼はただいまと言うことなく蓮に抱き着いた。蓮の項に鼻を押し付けた瞬間に長い一日が漸く終わりを告げたと酷く落ち着いた心地になっては、この隙間無い距離もまだ埋めたいと言わんばかりに蓮に体重をかけていく。
 それを受けた蓮は重いと一言苦言を吐いたけれど、そのすぐ後に、ただいま、という穏やかな蓮の声を健悟の耳元に落とすものだから、その一言が何よりも嬉しいと言わんばかりに健悟はぐりぐりと自分の額を蓮の肩に押し付けていた。
 玄関を抜けて部屋に入ろうとする蓮は隙間無く抱き着いてくる健悟のせいで随分と靴を脱ぎ辛そうだったけれど、延々とハートマークを放出してくる健悟の攻撃から逃げるように屈んでは、自分と健悟、二人分の靴を一気に脱がしていた。
「………………」
 健悟と一緒に暮らす前、付き合っていたときにだって、一緒に玄関に入る機会などいくらでもあった。たかが玄関に入るだけ、それだけの筈なのに、いまと同じ状況の筈なのに、なぜこんなにも嬉しく満たされたかのような感情に支配されてしまうのだろうか。
 所詮は遠距離恋愛をしていた時代、ただいまとおかえりが繰り返される中、当然のようにそれに続く言葉は帰りに交わした『バイバイ』の四文字だった。また連絡すると言いながらこの家の扉を閉めた回数は数えきれないほどだ。だからこそもうその言葉を言う必要がないという事実は感慨深く、未だに信じられないと猜疑心すら抱いてしまう。もうバイバイなんて言わなくていいんだもんなぁ……、と、蓮がこっそりとその事実を胸中で実感していた、その瞬間―――。
「……あー、なんかいいよね、ただいまって……」
 寄り掛かるは蓮の肩元、たった四文字の言葉を噛み締めるかのように、自分の中に落とし込むような口調で健悟はぽつりと呟いた。
 そして幸せいっぱいに緩やかな笑みを浮かべて、蓮の髪の毛を柔らかく撫でながら随分と安心しきった声音を響かせた。
「だって蓮はもうこの家の子だもんね。言うのはいってらっしゃいだもん、……バイバイとかもう言わなくて良いんだねー」
「、」
 感慨深く呟かれた健悟の言葉といえば正に今この瞬間に蓮が思っていたことでもあり、蓮は驚きに身を任せるように双眸を大きく開いてしまった。
 健悟の発した一言、ウチの子、という文字列を脳内で変換すればまるで蓮自身が全て健悟のものであると形容されているような感覚に陥る。縛りの強いそれは圧迫感のある反面とても心地の好いもので、自分を大事にしてくれる誰かが居ることに、例えようもない感情が爪先から首を抜けてはぞくぞくと背が震えた。
「……はっ」
 沸き上がる衝動に蓮がつい笑ってしまうと、健悟はその様子にわざとらしく頬を膨らませてから、蓮の頬の肉をぐいと引っ張り始めた。
「えー、なんで鼻で笑うの〜」
 本心を馬鹿にされたことが気に障ったのか、いじけるように蓮を睨んだ健悟が蓮の目の前まで顔を近付ける。けれども、極限まで近付いてきた顔に蓮が拒否をする仕草は躊躇いもなく、蓮はふいと右下に顔を背けながら小さく唇を開いた。
「……ちっげーよ、俺も同じこと思ってたの、いま」
「え、」
 蓮の言葉を微塵も飲み込みきれていない健悟に向けて蓮が繰り返すのは先程健悟が呟いた言葉、もうさよならを言わなくて良いだなんてそんなこと、……思っていたのは自分だけだと、思っていたのに。
 タイミング良く同じことを思っていたと言う事実は嬉しくもありむず痒くもあり、蓮は少しだけ言葉を躊躇ってから口にしていたようだった。
「……もぉー、れぇーーんー」
 けれどもそんな戸惑いなんて必要ないとばかりに満面の笑みを隠そうとしない健悟はぎゅうぎゅうと蓮に抱き着いてから、この湧き出る衝動をどうしていいのか分からないとでもいいたげに蓮の首筋にガブリと小さく噛み付いた。
 ちゅ、と治癒するように舐められるそれは健悟のスイッチがオンになったときの合図のようなもの、耳元でリズム良く鳴り続ける水音と、蓮の服に直接掌を侵入した後に腰を撫でまわして来るそれを感じたからこそ、蓮は一応とでも言うように健悟を上目で睨みつける。
「、おい、明日武人の引っ越しだっつの……」
「えーーー……むり……」
 けれども、ぼそっと呟いた健悟は今更止められないとばかりに性急に蓮の身体を撫でている。
 昨日交わしたばかりの約束が執行されなかったのは、蓮の言葉の根底に本気の拒否を感じなかった所為、口先では拒否の意を示していても健悟の服を引っ張る手元に全力の力を感じることはなかったからだ。
「、チッ」
 それは蓮にとっても自覚がある出来事だったらしい、この手を温めてあげたいと撮影後にうっかり思ってしまった事実は何一つ間違ってはおらず、がりがりと髪の毛を掻きながらも火照った顔を隠すことなく唇を尖らせた。
「……挿れねーかんな」
「うんうん」
 警戒心こそは解かなかったものの健悟の手の甲に掌を重ねた蓮は充分な承認を意味していて、健悟は漸く蓮に触れられることができると本当に嬉しそうに微笑んでいた。
「手伝い料だから、明日の。……働けよ、てめー」
「ハーイ」
 にやっと自然に口許が緩んでしまうことも無理はない、積み重なり続けた欲求を漸く解放できると、どれだけ大切に想っているかを刻み込ませることができると、自分が意図せずともついつい頬が緩んでしまったのだ。
「……あー、久しぶり、久しぶり。やばい」
 言わずとも綻んでいる健悟の表情は空気だけで蓮へと伝わる、嬉々とした声に身を委ねていると、その一瞬後、悪意を持って耳の中に入ってくるぬるりとした感触があった。
「ヒッ、」
 尖った舌先が性急に耳の内側を舐めてきたことに蓮が驚くも、健悟は素知らぬ素振りをしながら耳介に舌を這わせていく。そのぞわぞわとした感触が耳の内から全身まで鳥肌を伝えていくものだから、蓮が覆いかぶさってくる健悟の胸元に手を置いて、つい押し返してしまうことも無理のないことだった。
「ちょ、せめてベッド連れてけアホ……!」
「……んー」
 曖昧な返答をする健悟の腕の中、蓮がもぞもぞと暴れながら話し掛けるも、健悟は聞く耳持たずと云う風に好き勝手に蓮へと触れていく。
「あー、ほんとやばい。れーんー、ちゅーだけで勃っちゃいそうなんだケド」
「たっちゃいそうっつーか……たってんじゃん……」
 密着する下半身に気付いた蓮が深い溜息を吐いたのはこれからの出来事を想像してしまったせい、悪びれもせず下半身を押し付けてくる健悟は酷く楽しそうで、蓮が腰を引こうとすればするほどに追い詰めているようだった。
 蓮の身体に抱き着いてはゆっくりと歩みを進めていく健悟、それが寝室に向かっていることは考えるまでもない決定事項のようで、明日の午前から始まる武人の引っ越し作業に間に合うことができるのだろうかと頭の片隅で心配することしかできなかった。




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