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* * *

「―――おはようございます!」
「……はようゴザイマス」
 業務中だというのに、がた、と椅子から立ち上がり、真っ赤な顔を隠しもしない挨拶が次々に健悟へと降ってくる。サングラスをかけていてもなお“真嶋健悟”だと偽ることはできなかったのか、健悟はその対応が酷く怠そうに会釈をしているようだった。
 健悟に連れられたまま、何処に行くとの案内もないままに到着した目的地は、青山にあるガラス張りの大きなビルの中だった。『中条プロダクション』の肩書きは芸能界に微塵も詳しくない蓮でも知っていて、それの意味するところは、所詮―――健悟のプロダクションである、ということは明白なまでの事実だった。
「………………マジで……?」
「マジで。」
 入り口で蓮が歩みを止めて戻りたいとでも言うように一歩後ろに下がれども、健悟はそんな素振りを気にすることなく蓮の手を引いてどんどんと進んでいく。家、スタジオ、事務所、自分の領域内では所構わず蓮の手を引く健悟は傍から見ればただ引率しているだけのようにも見えるけれど、実際のところは蓮と触れていたいというそれだけなのだから、男同士で手を繋ぐという行為を肯定している事実にはならない。
 人避けのサングラスをかけているそれは全く意味もなさず、事務所に入った途端に注目を集める健悟はさすがとしか言いようがない。庶務をしている社員も皆ちらちらと健悟を見てはこそこそと黄色い声を飛ばしたり、顔を赤くさせて見つめ続けるものだから、蓮はむっと唇を尖らせながら健悟を蹴り付けたくなってしまった。
 健悟と付き合う前に募った違和感、健悟が羨ましいと、自分だってもてたいと思ってしまうような嫉妬ではない、対象は一転して女性に向けられて、見られることすら嫌だと立派に独占欲すら湧いてくるものだから、自分でも飼い慣らされていると思わざるを得なかった。勿論そんなこ絶対に口に出すことはなく、自覚しているからこそ決して顔には出さないように努めてはいるけれど。
「―――誰アレ?」
 それでも噂の的になっている自覚は十分にあって、健悟が一緒に連れてきたというそれだけで不躾な視線が止め処なく送られてくる。その視線から逃げるように健悟を見ると、嫌そうなそれを蓮から受信した健悟は皆から見えない位置でポンポンと蓮の腰を叩いては、大丈夫だよとでも言うようにそれを軽く撫でてあげた。
「ねェ。」
「ハイ!」
 目の前を通り過ぎようとした社員に健悟が話しかけるとフロア中の視線を集めたけれど、常日頃視線を浴びながら生活している健悟にとっては何の障害にもならないらしい、臆することなく次に続く言葉を口にしていく。
「社長は?」
「あっ、しゃ、社長室にいらっしゃいます……!」
「そう、ありがと」
 びくびくと真っ赤な顔で返答する女子社員に少しだけ会釈をして、サングラスの下からでも分かる様な機嫌の良さを振りまきながら蓮の手を引っ張った。
 フロア中の視線の宛先など双眸も見れぬ健悟よりも寧ろそれに引き攣られている蓮への好奇心の方が勝っていて、フロアを抜けるその最後の瞬間までとうとう何十もの視線により背を射抜かれたままだった。
 広いフロアから長い廊下を抜けて最奥にあるらしい社長室の扉をトントンと二回ノックしたのはいいけれど、健悟は内側からの返事を聴くこともなくその扉を我が物顔で開けている。社長室、と書かれているプレートの重みに一人焦っていたのは蓮のみで、健悟はそんな蓮の様子を見ることも無く、何食わぬ顔でその部屋へと侵入していった。
「ちーっス」
「…………」
 そして、低い声で告げながらさらりとサングラスを外すものだから、蓮は初対面の相手に密かにドキドキしながらも此処が健悟の心を許せる領域内であることを覚った。
「……あんたね、こっちが良いって言ってから開けろって何回言えば分かるわけ?」
 二十畳はあるだろう広い部屋の端、綺麗に磨かれた窓ガラスのすぐ傍にあるどっしりとした座椅子に座るのは、「珍しく顔を出したと思ったら……」と呆れながらチッと舌打ちをした女性―――中条(ナカジョウ)だった。オンナ社長だ、と蓮がこっそり思えども口にすることはなく、無意識に健悟の後ろに隠れてはこそこそと様子を窺っている。
「良いじゃんどうせアンタしか居ないし、商談なら会議室使うっしょ」
 初めて訪問する場所に気後れしている蓮とは対照的に、健悟は革張りのソファに我が物顔で座り込んで、蓮に隣に座るようポンポンと掌で叩いて指示をする。
「……珍しい客。あんたが事務所に誰か連れてくるなんて初めてじゃないの?」
「んー? ふふー」
 若干眉を顰めた中条が探るように問えば健悟は蓮の肩に手を廻して抱きしめるように蓮の頭を自分の許へと寄せるものだから、突然の攻撃に吃驚した蓮はぺちぺちとその腕を叩いて離せと訴えた。
 それでもなお健悟は変な笑いを抑えきれないまま蓮の手を取り指を取り、訳が分からないと眉を顰めている蓮を見ることなく蓮の右手を好き勝手に弄っていく。段々と健悟の手が小指に近づいて行っては、お揃いのシルバーリングを中条に見せつけるように掲げたとき―――中条は漸く持っていた書類を置いて、ゆっくりとふたりのもとへと歩いてきたのだった。
「……あー、そういうこと。」
 そして一人納得した中条は、健悟の根底にあるすべてを握っている人物と言っても過言ではない金髪を見下ろして、じろじろと上から下まで吟味する。
「、」
「てめぇ。見てんじゃねーよ、減るわ」
「あんたが連れてきたんでしょうが」
 あぁ? と威勢の良い声と眼を引き連れながら、健悟の座るソファを長く細い脚で蹴り付ける姿は蓮にとって少しの既視感を覚えるもので、長いこと一緒に暮らしていた姉を思い出しては微々たる納得を得た。
「…………」
 真嶋健悟という肩書きに臆すことなく攻撃するそれは利佳に酷似していて、蓮がとりあえず逆らことだけは止めておこうと小さな決意をした―――次の瞬間、コンコン、と、聞き通りの良いノックの音が二回響いた。
 健悟のように無断で入ってくる気配もないそれを見たかとでもいうように誇っては、中条は、良いわよ、と返答する。
「失礼します。社長、午後のスケジュールに関する見直しが……って、」
 漆黒のファイルを片手に入ってきたのは当然のごとく社員のひとりだったけれど、ただの社員ではない、中条にとっても健悟にとっても―――蓮にとっても、随分と見馴れた人物だった。





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