「―――れーん」
「……んー……」
 シーツに包まる肩をゆさゆさと揺らしながら起床を促す健悟の声音は非常に柔らかで、微睡む蓮の意識にじんわりと浸透していく。
「れぇ〜んー、朝だよ〜」
「、……けん、ご……?」
 夢現の蓮が眼も開かずに発した言葉は目の前で蓮を抱きしめている男の名前、顔を見ずとも声で気付いて貰えたことが、起きぬけ一番に発した言葉が自分の名前だということが嬉しく、健悟は腑抜けた面を自覚しながらも未だうとうとと瞳を閉じている瞼にキスをする。
「うん、おはよう」
「え、……なん…………、あー……」
 瞼、頬、鼻、朝から顔の上を滑る感覚を不審に思った蓮がゆっくりと瞳を開き、幾秒の停止の後きょろきょろと周りを見渡して漸く、自分の置かれた状況を理解したようだった。
「そっか……オハヨ」
 理解してからはポスンと枕に頭を落として、健悟の胸から離れながら伸びをする。
「うん、おはよう」
 双眸を閉じながら、んんん、とまるで猫のように身体中を伸ばすそれすら可愛らしいと、健悟はその姿を瞳の奥に焼き付けながら微笑む。昨晩から本当に一緒に住みはじめたのだと、その事実を再確認するかのように。
「あー……今日はなんだっけ、仕事あんだっけ……?」
「うん午後にちょっとね、でも1時間位で終わるから。そのときは待ってて?」
「んー、わぁった」
 じゃあ行こっか、と蓮の手を取った健悟に今度こそは唇にリップ音を落とされて、朝ごはんできてるよ、という言葉を聞いては、甘やかされてるなぁ、と自覚する。
 優しくしてくれるから優しくしたくなる、試すようにおあずけしてしまった昨日だったというのにそれでも変わらずぶつけてくれる優しさに、今日の夜は自分も優しくしてあげようかと、そんなことをぼんやりと思った。

 これからずっと、こんな毎日が続いていくのだろうかと思えばそれだけで心の奥底がきらきらと輝いていくような気さえする、昂揚と幸せで蕩けてしまいそうだと、起き抜けから満足感に支配されている馬鹿な自分を知ってしまった。







 健悟が作ってくれた朝食を食べた代わりに蓮が食器を洗っていると、数分間姿を消していた健悟が両手に大量の服を抱えながらリビングへと戻ってきた。それをソファに投げ出した次の瞬間、獲物を定めるような双眸で蓮を見ては、楽しそうに笑いながら手招きをする。
 丁度洗い物が終わったからこそ蓮が首を傾げながら向かうと、健悟はクローゼットから持ってきた服を蓮の身体に服を宛がっては代わる代わる吟味していく。ソファの上に投げ出されているものはジャケット、シャツ、ストール、ボトム、ベルト……中には色違いの代物も何点か混じっていて、蓮に似合うそれを見つけてはこれも着てあれも着てと煩く蓮に纏わりついてくる。
 健悟が纏うよりも明らかにサイズの小さなそれは言わずとも蓮のために買ってきたもので、無駄遣いは止めろと蓮が怒ったところで健悟の緩む頬に乱れはなかった。
 蓮が半ば諦め混じりで呆れながら、着せ替え人形の如く健悟が大量に買ってきたのであろうそれに袖を通す。何度も着脱を繰り返す蓮は面倒くさそうで嫌気がさしている様子が垣間見られたけれど、自分好みにカスタマイズしている健悟はそうは思わないらしい、自分の好みにどんどん変わっていく蓮を見ては楽しそうに微笑んでいるのみだった。
 やがて健悟が指定してきたもので上から下まで揃えると、本当に満足そうに微笑んでは「かわいい」と何度も言いながら何度も抱き着いてくるものだから、蓮が心底馬鹿な奴だと思うと同時に、それ以上に、可愛い奴と思ってしまう自分が居ることも否めなかった。
 散らかりっぱなしの服もそのままに、健悟がそのまま出掛けようと蓮の手を引いて駐車場に降りた時にも、まるでエスコートさながらのそれはいくら言っても止めることはなく、蓮が自分でドアを閉めようとするだけでにやにやと緩んだ顔と共に甘いキスが降ってくる。
 所詮は同棲二日目、しっかりと色ボケしている自覚は健悟にも蓮にもあって、誰にも見られていない今なら流されても構わないかと、蓮の肩の力が少しだけ抜けたことに健悟自身目聡く気付いていたのだった。
 飽きもせずに屈託のない蕩けるような笑みを浮かべる男は、その表情とは決して釣り合うこともない黒塗りの車へと乗り込み街中へと消えていく。
 街中は平日だからこそ人も少なくて、長らく一緒に居ることのなかった一年半を思えば目的地も決めずにブラブラとドライブするそれさえもとても貴重なものに思えて仕方がない。
 ちらりと見えた観覧車を蓮が物珍しそうに指差せば、当たり前のように今度一緒に行こうねと微笑まれる。物心ついた時から遊園地に一度も行った記憶がないのは蓮も健悟も同様で、行ったことのない場所なら山ほどある、今までさほど興味の湧かなかった所詮はデートスポットも相手が居るというそれだけで一気に距離が近づいたような気さえしていた。
 赤信号で指を握りながら言われた、オフになったら一緒に行こうという健悟の口約束が口約束では終わらないことを知っているからこそ、蓮は嬉しさに任せるように小さく何度も頷いていた。
 家の付近から少し遠くまで、蓮にもわかりやすいよう車で案内した健悟は、これから先蓮が自分の家に住むにあたり近所の様子を窺う程度の思いだけだった、しかし、当の本人は健悟が奢った昼ごはんをそれに見合った笑顔で本当に美味しそうに食するものだから、どこにどれだけ連れて行ってもまだまだ足りないくらいだと思ってしまうほどだった。
 近場のカフェでお昼を食べ終えたあともそれは続いていて、久しぶりにゆっくりと会話をしていた最中、健悟はふと気付いたように左腕に視線を配る。
「―――あ、ごめん蓮、俺そろそろ仕事行かなきゃ」
 腕時計を見た健悟がはっとしたように言うものだから、蓮はきょろきょろと顔を動かし、どこか休める場所はないだろうかと周りを見渡す。
「あーオッケ、したらどっかその辺居るわ」
「え、なんで?」
「は?」
 けれども健悟から返ってきたのはきょとんとした声と、銀灰の瞳をぱちぱちと瞬かせる驚きに満ちたモーションのみ。
「離れることなくない? いいよいいよ、いいからついてきて?」
「……はァ?」
 そう当然のように言い切った健悟はチャンスだとでも言うように蓮の手を握って、堂々と蓮の手を引きながら助手席のドアを開いた。
 蓮が本当に良いのだろうかと戸惑うことは無理もない、今まで付き合ってきた一年と七ヶ月、一度も健悟の仕事場に足を踏み入れたことは無かったからだ。
 蓮が東京に遊びに来るときは必ず健悟がオフをつくった土日、ゆっくりと過ごすそれだけで充分すぎるほど満ちていた。今更仕事場を見に行くのもどうかと思ったけれど、健悟の仕事ぶりが見たいのは勿論のこと、どんなふうにあんな画が録れるのか些かの興味があった。たった一瞬、たった一ポーズだというのに見るもの全てを魅了するかのようなそれが、どのようにつくられているのだろうかと。それが動画でも写真でも、同じこと。
「……なぁ、今日はなんの撮影なんだ?」
「L'sっていうブランドの宣伝。ファッション誌だよ、ESPOIRっていう」
「……ふーん」
 モデルの方か、と思うと同時、自分ですら知っている雑誌の名前にハッとして、そういえば本当に凄い奴なんだよな、と今更再確認させられた。
「……あ、いまちょっと楽しみになったでしょ。蓮この本好きだもんね?」
 にやにやと笑みを浮かべた健悟はだからこそこの仕事だけはキャンセルしなかったのだと、蓮には伝えない真実をひとり思う。
 他のテレビやインタビューをキャンセルしても、この雑誌だけは読んでくれるだろうという確信があるからこそ、健悟はこの仕事を引き受けた。
「そら……楽しみっしょ、おまえの仕事ちゃんと見に行くの初めてだし」
 撮影中は人混みでそれどころじゃなかったし、と唇を尖らせながら言う蓮は素直で、二年前よりも随分懐いてくれている、という確信を届けてくれる。
 素直すぎるその言葉が健悟まで届けばどきどきと煩くなるのは心臓の音、いますぐにでもどうにかしてやりたいという熱情をどうにか堪えては、健悟はぎゅうとハンドルを握りながら蓮に話し掛ける。
「…………れーん。今日ははやく帰ろーね。すぐ終わらす、もうマジでソッコー終わらすから」
「……ばぁーか」
 口先では罵詈を用いてもその先にある柔らかな物言いと赤い顔は隠すことはできない、到底拒否とは程遠いそれに健悟が口元を緩めては、マジでぜってぇはやく帰る、と心新たに仕事を終える決意を固めたのだった。



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