――帰りたくねぇ。
 
 都心の一等地、港区の高層マンションを目の前にして溜息を吐く人物は、広い範囲で見積もっても一人しか居ないに違いない。一見しただけではホテルと見紛うような高級住宅は誰もが羨むような立地条件の下で建設されており、事実、居住者からクレームが届いたと言うことは一度も聞いた事がなかったからだ。
 都心の一等地だというのに地上一階はガーデニングの緑に溢れ、誰が利用しているのか地下には二十四時間使用可能な温水プールや駐車場まで設置されている。フロントと言っても過言ではないような管理室や、建物全体だけではなくフロアセキュリティまで完備している住宅は難点を探すほうが困難を極める。
 しかし現実、溜息を吐いているその人物は、最上階から二階分のフロアを貸しきっている世帯主であり、建物ではなく環境に対しての不満が堰を切ったように溢れ出しているようだった。
 それもそのはず、この住宅は自分で選んだものではなく、資産の使い道に無頓着な健悟に対して事務所の社長が用意したものだったからだ。
 広ければ広いほどに一人であることを実感し、一番居て欲しい人物が居ない現実を突きつけられる。だからこそそれなりの場所に腰を据えていたというのに、メディア対策としていつの間にか契約は進み、健悟本人が引越しを知ったのは既に彼の荷物が此処に運ばれてからのことだった。
 かといって前の家に未練があるわけでも、今の家に不満があるわけでもない。
 彼ひとりが居なければ、場所が何処であれ大した違いはない。重要なのは彼が居ることであり、誰にも邪魔をされず彼と過ごせる場所さえあればそれで良かった。
 しかし現在その彼は新幹線と電車を何本も乗り継いで漸く辿りつくような僻地に居り、折角自分のものになったというのに一向に合えない日々が続いている。これこそが、健悟がひとりになりたくないという最大の理由でもあった。
 二クール続くドラマの主役に抜擢されてからというものの、収録は勿論、ラジオや雑誌での宣伝や諸々の付き合いで蓮に割ける時間が格段に減っている。睡眠時間を削って掛ける電話やメールだけならまだしも、蓮の実家まで訪れる時間は無く、数えてみれば実に二ヶ月も逢っていない計算になる。
 “真嶋健悟”としての人格を維持するためにできるだけプライベートやバラエティを含んだテレビ番組には出演していないものの、雑誌のインタビューは可能なだけ答えられるようにしてあるために、スケジュールに纏まったオフの時間がとれず、蓮の実家への往復の時間すら取れなかった。
 せめて一時間でも滞在の猶予があったのならば今すぐにでも飛んで行きたいというのに、生憎そういう日に限って蓮に予定が入っていて、見えない誰かに妨害されているとしか思えない日々が続いている。
 今日も今日とて早朝からのドラマ撮影に加え、その合間には雑誌のインタビューが二本もあった。連日続く仕事にはさすがに疲労の色を隠せず、何故エントランスにベッドが設置されていないのかと思うほど、歩くことにすら面倒臭さを感じていた。



 そろそろ脱走計画を練っても誰も怒らないのではないか、というハードスケジュールのもと、健悟は疲れに身を任せながらエントランスを潜る。
 そして、誰もが手放しで欲しがる最上階の一室に脚を踏み入れた。違和感を覚えたのは、自宅の扉をカードキーで開き、中に脚を一歩踏み入れた、その瞬間。早朝部屋を出たときには確かに消していたリビングの明かりが廊下へと漏れていることを、疲れ目で確認したからだった。
 この部屋の鍵を持っているのは数人、妥当な人選をすれば、気紛れに寄った事務所の社長という線が濃厚になる。普段のように酒に付き合う体力もなく、新しい仕事のオファーの説明してもらう気力すらない。
 そもそも今受けている仕事ですら不謹慎だとは思いつつも彼が喜ぶからという理由が大半であり、受ける仕事の線引きと云えば健悟よりも蓮に直接聞いて欲しいとすら思ってしまう。
 何にしろ、後日出直して貰おうと、壁に凭れ掛かりながらゆっくりとブーツの紐を解いた。
 今すぐにでも睡魔に襲われそうな脳内で、とりあえずゲストルームの鍵だけを渡して去ってもらうことが一番効果的かと策を巡らせていると、ふと、廊下の電気が点いて室内が一気にオレンジ色の光に包まれる。
 見付かったか、と思うと同時に口を開こうとするが、次に聞こえたのは慣れた声ではなく、近所迷惑ともいえるような廊下を蹴る足音だった。
「、?」
 聞きなれぬ騒音に目を向け、振り返ると同時に感じたのは、痛い、と、その一言でしかない。
「――っ……!」
 壁に背を凭れて気を抜いていただけに、突然脇腹を襲った痛みには盛大に顔を歪めてしまった。喧嘩で殴られた時のような重い衝撃は、ぐりぐりと擦り付けられているようで、離れる気配が微塵も感じられない。脇腹にぐりぐりとめり込ませるような感触と同時に、腹と背中が温かく包み込まれている感覚もある。
 何事かと頭を抱え、健悟は文句を言うべく口を開こうとした。しかし次の瞬間、漂って来た香りによって全ての動きを封じられてしまった。ぽかん、と開いたままの健悟の口元を見る人は誰も居ない。未だに脇腹にある衝撃の主は頭を下げて、向日葵色の後頭部しか確認できないからだ。
 玄関中に強く香る匂いは健悟自身が付けているものと全く同じ芳香で、それに少しだけ混じった彼の匂いを、健悟が間違える筈が無い。
「…………蓮?」
「…………」
 慣れた名を口にすれば、ぐいと抱き込む腕が更に強くなる。蓮が健悟の腹に手を廻して抱き付いていることは事実であり、まるで甘える子供のように、その頭をぐりぐりと健悟の脇腹に押し付けていることもまた、事実だった。
 蓮の名を口にする健悟の声が震えることも無理はなく、今日は平日で何の約束も連絡もしていない彼が、目の前に居る事実が信じられなかったからだ。合鍵を渡した記憶はあっても、彼がそれを使用した記憶はない。

 今日、いま、このときまでは。





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あきゅろす。
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