* * *


「……ただぁいまぁー」
慣れた合鍵でロックを解除すれば、広いフロアにようやく音が生まれた。武人の家から自転車で二十分程度の健悟の家、マンションの下から見上げた部屋の灯りは案の定灯っておらず、室内に入りパチンと電気を点けても、人の気配はしなかった。
玄関にある大きな姿見で確認した自分の顔はどこか強張っていて、武人の家ではふざけて明るく振舞っていたけれども、いざ健悟に聞くとなれば本当に聞けるのだろうかと思うほどには心臓が煩くなっていた。
蓮よりも一回り大きな健悟のブーツの横に脱いだスニーカーを並べてから、未だに自分の家とは到底思えない広大な敷地に足を踏み入れる。どんなに広い家だとしても家主の居ないそこはがらんと静かで、防音設備も相俟ってどこか寂しい印象が窺えてしまう。コートをばさりと脱げばその音すらも耳に響いて、こんなことなら武人の家の狭い六畳間に居ればよかったと、少しだけ思ってしまった。
自転車を漕いでいる時に震えたポケットでは、今日は早く帰ると、帰ってきてと、話がしたいと書いてあった。それを見て悪い方向に心臓が跳ねたことは言うまでもなく、自転車を漕いでいる間も、エントランスを潜る瞬間も、カードキーでロックを解除する瞬間も、聞きたくもない健悟からの言葉と表情を想像しては背が震えた。返信は、もちろんしていない。
そろそろ健悟が帰ってくるだろう、そう思ってソファの上で体育座りをして、膝小僧に顎をうずめる。
悶々としている脳内で何から聴こうかと思考を巡らせていると、玄関の扉の向こう、エレベーターが止まり最上階のフロアに足音がひとつ増えたことに気付いた。
「、」
―――健悟が、帰って来た。
震えた肩を携えて一瞬だけ足を床に落とす。そのまま立ち上がろうとしたけれど、焦りを隠しきれない行動が情けなくて、地についた足をソファに戻してから、平然を装ってテレビを点けた。正直頭には何も入って来ないバラエティーは名も知らない芸人ばかりが集まるもので面白さのひとつも理解できないけれど、これから訪れるかもしれない沈黙を考えれば、煩いくらいがちょうどいいのかとすら思ってしまった。
「…………」
ごつごつと足元を蹴っている重い足音が、どんどんとこの部屋に集中し始める。規則的に床を蹴る音が止みガチャリと差し込まれたカードキー、音もなく開いた扉に衣擦れの音を感じ取り、仕事を終えた健悟が本当に帰って来たことを知る。
部屋に電気が点いていることはきっとマンションのエントランスを潜る前から知っていたに違いない、いつもならば喜ばしい足音に玄関まで迎えに行く日も少なくはないけれど、今日という今日は勝手が違うと、近くにあるクッションを手繰り寄せてぎゅっと抱きしめた。
そして、肌触りの良いもこもこのクッションを抱き締める力をより一層強めたとき、リビングと廊下を隔てる扉が――ガチャリと、開いた。
「―――」
「―――」
リビングに入ってきた健悟と数メートル離れた位置で、暫し見つめ合う。まるで口を開くタイミングを忘れたかのようにお互いを見合って、そのまま動きを静止してしまっていた。
「……あー、……ただいま」
先に掠れた声を出したのは健悟の方、小さな声で紡がれた挨拶はつつつと目を逸らして行われ、そのどこか気まずそうな表情には此方の顔まで歪ませるような威力があった。
……なんだ、いまの、一瞬の間は。
「、ちょっと待っててね」
「…………」
此方のオカエリを聴くこともせがむこともせずに、健悟はリビングから直接寝室へと消えていく。黒のジャケットを脱ぎながら寝室へと消えていく様は言わずとも着替えをするためだと分かったけれど、そんなことが分かったところで此方の心臓が治まることは無かった。むしろより一層心臓が不安に鷲掴みされて、クッションを握り締める爪先が白く変色しているほどだった。
――健悟が、抱き着いて来ない。
「…………」
何をバカなことをと思うかもしれないけれど、いつもの健悟を考えれば、帰ってきてから直接寝室に向かうことはまずない、到底信じられないことだった。
いつもなら、おれがどこにいても、こっち来てうざいくらい抱きついてくんじゃん。やめろって言っても離れないで、すっげえ、抱き着いてくんじゃん。
「っ、」
通常とは違う健悟の様子に気付けば、怪しいとしか疑うことすらできず、蓮は抱きしめていたクッションをソファに投げ捨てすくっと立ち上がった。ぐっと噛みしめる唇はある意味決意を表していて、いつもと違う健悟の真意を知りたいと、ただそれだけだった。
一歩、二歩、とリビングの騒音から離れて健悟が消えていった寝室へと近寄っていく。距離を示すかのように厳重に扉が閉められていたけれど、そんなことに傷つく感情よりも、健悟の真意を図りたいと、そう思う感情の方が強かった。
こんこん、と扉を叩けば、中からは短い返事が聞こえた。入っていいよとは言われていないけれど、入って来ちゃだめ、とも言われていない。自分に都合の良い解釈をしてから蓮は扉に手を重ね、健悟との距離を隔てるそれに手を置いた。
そして、ぐいっと扉を引けば案の定中には着替えをしている健悟がいて、ジーンズはそのままに今まさにセーターを脱ごうとしている健悟が居た。腹前で腕を交差させ着替えようとしていた場面に出くわすのは慣れたものでそのまま部屋に入ったけれど、どう考えても健悟の顔が一瞬固まり、見間違いでもなんでもなく唇を真一文字に閉じ、焦っているような姿があった。
やばい、と顔に書いてあるそれが珍しいと同時に不可思議で、蓮は寝室に足を踏み入れて健悟に近寄っていく。
「――けん……、」
けれど。
名を呼びながら近づいたとき、嗅ぎ慣れた香水とは掛け離れた匂いが鼻腔を擽った。
怪しくて近寄った先に辿り着いたのは石鹸の香りで、少しのフローラルが混じった匂いが蓮のもとへと届いてしまった。
「……っ!」
明らかにどこかでシャワーを浴びてきたらしい健悟と、その焦った表情が相俟って、思わずくらりと足元が歪んでしまった。
頭に浮かぶは浮気の二文字で、こんな時に、こんな時だからこそ、ピンクのメイクセットに加えて幾枚も重ねてあった写真を頭の中で拾ってしまった。
「………………」
受信したそれらを思い出せば自分でも信じられないほどに視界が歪み、健悟の顔がぼやけてしまいそうになる。鼻の奥がツンとした感触は健悟と居ることによって覚えのある感覚となった、涙目になる直前の兆候だった。
それを感じ取ってからは足を動かすことができず、石鹸の香りが鼻腔を擽る中で呆然と健悟だけを見つめてしまった。涙が出そうになるのを堪えて変化する場所は潤み続ける目元だけでなく、自分でも無自覚にぷるぷると震えてしまっている唇や、直視できず俯く顔、健悟にぶつけようとしていた言葉に躊躇いが生じて、その躊躇いに忠実に則するかのように後ずさりしてしまっていた。
「………………」
「えっ!?」
俯きながら、ず、と後ろに下がった蓮を見て、健悟がその不可解な行動に目を見開く。
脱ごうとしていたセーターに手を付けるでもなく蓮に近寄れば、その度に健悟から離れていく塊があって、もう後ずさりできない場面、部屋の壁に蓮が背をつけたことを確認してから、健悟は急いで蓮に近寄った。
「え、……え!? なんで泣くの!?」
「、……泣いてねえしっ」
焦る健悟からも変わらず石鹸の香りは届いてきて、蓮はぐいっと目元を擦るけれどもその度にまた新たな雫が涙腺から溢れ出てしまっていた。
「……ちょ、も、…………もーーっ!!!」
「、わっ!」 
それを見た健悟が堪らず蓮へと抱き着けば、当の本人は背中を壁にぶつけてから驚きに涙目を見開き健悟を見つめている。
けれども、匂いは変われども普段と変わらぬ熱と感触に落ち着いたのも事実で、蓮はようやく触れたと言わんばかりに、素直に健悟の背に手を回した。顔を横に振って健悟の鎖骨部分に目元を擦り付ける行為は涙を拭っているようで、同時に、見るなと、健悟に伝えているようでもあった。
「なに、どうしたの」
「…………」
健悟が腕の中に入れた塊の金の頭をぽんぽんと撫でるけれども、当然塊は黙したばかりで震える唇を開こうとすらしなかった。
「なんかあった? された? 俺がなんかした?」
不安に任せて健悟が口を開き、少しでも密着できるよう隙間もなくして抱き締める。距離がゼロになると同時、蓮、と彼の名を呼んだ。
するとその瞬間目の前の塊はようやく顔を上げた、――けれども。
「…………………………」
その顔は明らかに歪んでいて、先程までの可愛らしい泣き顔ではなく隠しもしない怪訝な表情をぶつけられてしまった。
「う、」
今度それに目を逸らすのは健悟の番で、なんとなくその表情の意味を悟った健悟は徐々に下半身だけを蓮から逸らすように離れさせて、作り笑いの苦笑を浮かべている。
「、……や、だからこれは、置いといて……なに、どしたの?」
「……置いとけるわけねーだろ!!!」
話を進めようと健悟が促すけれども、当然その誘導に乗るはずもない蓮は先程までの憂いを帯びた表情とは一変、鬼気とした表情で右手を伸ばした。
「んだこれっ!!!」
「ぎゃっ!!!」
右手が伸びた先は勿論健悟のジーンズで、型のしっかりとしている硬いジーンズの上からでも分かるくらいに勃っているそこに手を伸ばした。
むんずっと確実に掴んだ蓮は眉を顰めながら健悟に問い質し、健悟は触るなと言わんばかりに抱きしめた腕を離し距離を取ろうと画策していた。
「ちょ、タンマ、むり、それマジほっといて……いまそれどころじゃないでしょあんた……」
「なっ……!!!」
けれども目を伏せながら勘弁して、と言う健悟を見れば蓮の頭に血がのぼるのは当然のことで、げしっと殴る蹴るの暴行を加えた後、イタイイタイと騒ぐ健悟に向かって勢いに任せてずっと言いたかったことを吐き出した。
「てっめ……誰だ相手っ、あのケーコってやつかよ、おいっ!!」
「はあっ!?」
のやろ、と蓮がげしげしと蹴るけれど、当の本人からは意味が分からないとでもいうような叫びしか聞こえない。
「ちょ、なに、ったいたい、いたいって!」
ガードをすれども武人のように攻撃してくることのない健悟は、蓮からの慣れた攻撃にその両手を掴んで、ぐっとその手首を握り自分の後ろへと持って行った。
「あーもう、落ち着けって!!」
ぐいっと引っ張ることによって自然と距離もなくなり殴ることすらできない体勢に、健悟はもっていた手首を離して蓮の背に己の手を回した。背中を上下に擦ってあげれば蓮段々と落ち着きを取り戻し、チッと舌打ちをしてから、諦めたような声が聞こえてきた。
「………………あたってるっつの」
「……それは置いといてってば」
ぽん、ぽん、とゆっくり蓮の背をさすってから、ゆっくりと息を吐き出す。
「はぁー」
蓮の耳元で吐き出された色欲混ざった吐息に蓮が若干の震えを見せたことには気づいていたけれど、健悟はそれに触れることなく蓮の顔を引き寄せ、額と額を合わせてから、ゆっくりと問うた。
「なによ、どうした? ケーコ?? ……ゆっくりでいーから言ってみ? 怒んないから、ほら。」
わざとらしくおでこをコツンと合わせれば蓮の顔が上気していくことが分かり、赤くなった耳を食んでしまいたいとこっそり思った。
明らかに勃ち上がっている下半身に気付いていたからこそこの家に入ってきたときから距離を取りうずうずと我慢していたというのに、こんなに取り乱す蓮は予想外で、もういいか、と諦めるように健悟は抱きしめる力を強くした。
「………………きのう、」
「うん」
「……つか、おとといだけど……洗面台のした、……入浴剤取んのに、あけて、」
「あ、」
「! あ、ってなんだテメェっ」
ばっと顔をあげた蓮の所為で額は離れ、切羽詰まったかのような表情が垣間見られた。
何かを心配しているらしい蓮が冷や汗を流しそうになりながら眉を顰めているものだから、その表情が何を心配していたのかを悟り、健悟は大きく深い溜息を吐いた。
「あー、あー……ケーコって………………あー、はい、そう、ああー、うん」
目を逸らしながら呆れた健悟は「ケーコ」という三文字で今回の経緯をすべて覚ったようで、メールの返信がなかったことも、電話にでなかったことも、あのとき脱衣所から出てきて異常なほどにテンションが下降していたことも、なるほどそういうことかと溜息を吐くことしかできなかった。
「……あのねぇー、」
呆れるように健悟が言うけれど、目の前に居る蓮は再び泣きそうな表情をして此方の出方を待っているのだから浮かばれない。数分前から明らかな反応を示している下半身には必死に無視を決め込んで、健悟は蓮の手を引きながら寝室を抜け出した。




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