「……前から思ってたんだけどさー」
「んー」
 ぽつりと蓮が紡いだ言葉に返ってきたのは曖昧な頷き、テレビを見ている自分を後ろから容易に抱きしめることができるのは単にこのカウチソファーが広いからでしかなく、健悟のドラマを見ている蓮を、その主演男優とは思えない表情の男が抱きしめ座っていた。
 自然と抱きしめられる体勢になっているのは所詮慣れというものでしかなく、首筋のあたりに背後からくんくんと鼻を押し付けられることもまた、日常と化していた。
 テレビを見るでもなく何をするでもなく、ただ後ろからくっついてくる健悟の姿は今更ながら不思議なものでしかなく、蓮は呆れながらも口を開く。
「……おまえそれ楽しいの?」
「んっ? うん、すごい楽しい」
「…………あそー」
 顔は見えないながらも、にぱっと笑われた雰囲気は十二分に伝わるために、変な奴、と頭の片隅で思うことしかできない。
 変な奴というよりは変態に近いかと蓮が呆れたところで、未だ首筋に張り付いている健悟から話し掛けられた。項に刺さる髪の毛が擽ったいと身を捩りながら、なに、と返事をする。
「……蓮こん中なら左の子好きでしょ」
 突然の健悟の問いかけはテレビの中を指してのもの、家庭用とは到底思えないテレビ画面に映し出されている女の子は三人で、その中でも可愛いというよりは美人に分類されるサラサラのロングヘアーを指差して、健悟は言った。
「お。せーかい。なんでわかったん」
 やるな、と蓮が思ったのは一瞬、次の瞬間には後ろからガブッと噛み付かれ、想像すらしていなかったために肩が大きく震えてしまったからだ。
「ってえ!!」
 噛まれた首筋に蓮が手を這わせればその指すら舐められて、ドアホ、と半ば叫びながら灰色の頭を殴り付ける。
「たかがテレビに張り合うなよ……!」
「えーだってさー」
 呆れたように言えば、今度は蓮をぐいっと自分の胸に引き寄せた健悟が、可愛いふりをしているつもりなのかぷくっと頬を膨らませながら覗き込んできた。
「そこは“けんごがいちばん〜”でしょー」
「……うわキモ。ねーわ」
 蓮がハッと鼻で笑い飛ばせばまた健悟が頭を下げたことが分かったので、噛まれそうだという寸でのところで蓮は右肩を器用に下げた。
「……だっから噛むなよテメェは?」
 避けていった肩に健悟がチっと舌打ちをするものの、噛み跡だらけの首筋は変わらない。そして、ちぇーとわざとらしく口を尖らせた健悟は、ぐりぐりと蓮の背中に頭を埋めてから、あ、と呟いた。
「じゃあ耳かきしたげよっか」
「あー、んー」
 最早ドラマを見せるつもりがないのだろうかと言うような妨害に、耳かきにでも集中すれば静かにしてくれるだろうかと蓮は曖昧に返事をした。健悟がいそいそと耳かきを取りに行けば背中が急に冷え眉を顰めたものの、すぐに戻ってくるかと、ぽすんとソファーに背を埋める。
 健悟が動く傍ら何も動かずぼうっとテレビを見ていれば、またもやそのドラマを妨害するかの如く部屋中に大きな音が響き渡った。
「……っせ、」
 部屋中を支配したのは英語の歌詞で、洋楽に疎い蓮には何の曲かすら分からない。カラオケで健悟が歌っているのを何度か聞いたことがある、所詮はその程度の曲だった。
「ごめんごめん。マナーにすんの忘れてた」
 ぱたぱたと駆けて来る健悟にしつこく鳴りつづける携帯を渡そうと電話を探せば、音源は白い携帯からだった。仕事用の携帯だと思いながらちらと表示を見ればサブディスプレイに映るは歴とした女性の名で、尚且つ見たことのある字面だった。最近見たドラマで主演をやっている気がするのは気のせいではなかったはずだ。
 電話をしてくるくらいには仲も良く、芸能人という仮面を被りながらも当然快く番号を交換したのだろうと思うと、ふうん、と少しだけ口が尖ってしまった。自分だってクラスの女子と番号の交換くらいする、その程度のことだとはわかっているけれど、この女優が、健悟をどういう眼で見ているのかが少しだけ気になった。
 平然を装って白い携帯を健悟に渡せば、健悟は携帯を受け取りながらも蓮の頭を押さえて自分の膝に寝かせるような体勢をつくる。
 所詮は膝枕というポジション、頭上から「げ、」という宜しくない声音が聞こえたのは一瞬で、健悟は膝に乗せた蓮の髪を撫でながら、小さく呟いた。
「……ちょっとごめんね」
 くしゃくしゃと髪を撫でられた蓮は、勝手にしろとでも言うようにテレビに顔を向ける。
「―――はい、もしもし。」
 そして、どこかつくったような落ち着いた声に吹き出しそうになりながら、蓮は健悟が話しやすいよう、少しだけテレビの音量を下げてあげた。
 用件を聞いているのか相槌を打っているのか、とりあえずずっと耳を撫でてくる手は心地好く、ピアスの穴や軟骨部分、耳の裏を撫でられてはうっとりと眠気が襲ってきそうだった。
 
 ――凜とした声で話している癖に、いまおれに、こんなことしてるんですよ。

 一生喋る機会はないだろう女優にそんなことをいま言えば、どんな顔をするのだろうか。そんな風に少しの優越感に浸っていると、ふと、からん、という木の音がした。
 耳の縁に添えられた感触は考えずとも一緒に百均に買いに行った耳かきで、電話をしながら耳かきしようとする暴挙には流石に、わき腹に向かって肘打ちを食らわせてやった。
「う゛っ、」
『え、どうかしました?』
 テレビの音量を下げたせいか、電話元の声はやけにはっきりと聞こえてくる。
「……いやちょっと、……うちのネコが……」
 心底痛かったらしく頬をひくひくさせながら見下げてくる健悟の表情に、蓮はざまあみろと舌を出してやる。けれどもその顔が気に入らなかったのか健悟は一瞬だけ出ていた蓮の舌を親指と人差し指で抓みあげて、ぐいっと引っ張ってきた。
「!!!」
 健悟の手が、ぬる、と舌を滑ると同時にビリビリとした痛みが走った蓮は、目をぎゅっと閉じてばたばたと足を動かしている。
『わあ、真嶋さんネコ飼ってらっしゃるんですか? えー、いがーい!』
 今声をあげたとしてもたかが男友達が遊びに来ているだけだと思われるだろうに、疾しいことがあるからか声を出すことは憚られ、解放されない舌の痛みに涙腺が壊れてしまいそうだった。
 此方がこんなにも痛がっているというのに、健悟は「ごめんごめん」と口パクで笑いながら、蓮のぷくっと膨らんだ両頬を片手で潰しながら笑いを堪えていた。
 不満げな蓮の拗ねた表情が堪らなく好きで、ついついちょっかいを出してしまいたくなるというのに、そんなことも知りもしない蓮はいつも以上にぶすくれた表情を作っては健悟を睨みつけている。
『ていうか聞きましたよー、いまやってるCMの――……』
 時折聞こえてくる声は高校時代のクラスメイトのように黄色いもので、二転三転する話題のどこに本題があるのかもわからない。
 そして、明らかにネコを二、三匹飼っているかのような健悟の声は表情とは全く一致しておらず、視線は一心に蓮の双眸だけを追っているというのに、口だけが勝手にしゃべっていく術を身につけているようだった。
――「あー」「そうですねー」「あははは」
 健悟の口から出るのはこの三文字の連続でしかないというのに、よくも会話が続くものだと呆れることも無理はない。俺が女だったならつまんなくなってすぐ切るレベルだぞ、と蓮が言ってみたところで顔面偏差値の壁は高く、顔が良いということはそれだけで得な人生を歩んできたのだろうと目の前の男を睨みつけた。
 大した話もしていないくせに健悟の話は終わらず、その声に邪魔されてドラマの声も中途半端にしか聞こえなければ、つまらないという五文字に脳内が支配されることも無理のないことだった。
 いつの間にか髪の毛をゆっくりと撫でられていることにようやく気付きこのまま眠ってしまいそうになったけれど、電話越しの女性が遠まわしに食事の約束、言い方を変えれば所詮はデートの申し込みをしていることが聞こえてきて、表情を顰めながら上を向いた。
 今現在電話越しに口説かれているというのにその双眸が真っ直ぐに見つめているのは蓮だけで、行く気がなければさっさと断れとその商売道具に拳を押し込んでやりたくなってしまった。
 苛々するのはきっと健悟の立場が羨ましいからで、ポジションを変われボケとそう言いたいからで、決して、決して決して、疾しい意味ではない。
 そうは思っても苛々する感情ばかりは抑えることができず、次にする行動に躊躇いはなかった。髪を撫でた後に頬っぺたをぷにぷにしてきた指を右手で引っ張り、モヤモヤと曇っていく心がそれだけで染まらないうちに、その指先を思いっきり噛んでやる。
「いいってえ!!!」
するとその瞬間、膝枕をしていた健悟の足が跳ね、同時に蓮の頭も揺れてしまった。
それほど想定外の攻撃だったのか、素で声を上げた健悟に口角を上げたのは蓮だけで、指を震わす健悟の耳元からは、戸惑ったような声しか聞こえなかった。
『……ま、真嶋さん……?』
何か信じられないものを聞いたかのような戸惑った声に蓮はにやりと口角を上げて、「ざまぁ」と小声で呟く。
あんたが熱をあげてる人はとんでもねぇヘタレなんですよ、と言ってやりたい気持ちを喉元で引き止めて、ふふんと勝ち誇った笑みを見せてやった。
「……いやちょっと、ねこが、噛んできちゃって……」
『え、だ、大丈夫ですか……??』
けれども、言い訳をする健悟に、ぺち、と小さく額を叩かれては、何で俺が叩かれなければならないのかとムッとした。
『ねこちゃんは何ネコなんですか?』
邪魔したことにもめげることなく、本題にすら入ることもなく、未だ続きそうな会話に唇を尖らせたのは蓮のみで、さっさと切れよバカ、とは言えないまでもむくりと健悟の膝から起き上がった。
目の前にあったちんこを一発殴ってから立とうとしたけれど、それはさすがに酷すぎると、逆にシカトを決め込んでソファーから降りる。
だからこそ、風呂? と、口をぱくぱくさせて聞いてきた健悟にはべーっと舌を出して、振り返ることもせずにリビングを出て行ってやった。



「……あーあ、拗ねちゃった」
 ぽつり、健悟が嬉しそうに溜息を吐いたのは、蓮の背中が完全に脱衣所に消えてからのことだった。
『え?』
「いや。ちょっとからかったら、拗ねたみたいで」
 くすくすと笑いながら言うのは勿論蓮のこと。それを、ああ、ねこがですか、と何もわかっていない癖に話を合わせてくる電話元の相手に、感情も込めずに「はい」と紡ぐ。
 調子を合わせるだけの電話も、電話の相手も内容もどうでもいい、全然構ってくれない蓮に悪戯を仕掛けるようにわざと電話をしていただけだというのに、あまりにも予想以上の反応に正直どうしたら良いのか分からないくらいだった。
 人差し指に付いた真っ赤な噛み跡に唇で触れては、たまには嫉妬して欲しい気分だった心がぐんぐんと満たされていくことがわかった。
 やっぱ好きだなぁ、としみじみ思えばどうでもよくなるのはこの白い携帯電話で、次の収録に支障がないくらいに会話に付き合ってから、遠まわしに食事の誘いを断り通話を切った。
 そして見れば見るほど、まるで指輪のようにしか思えない噛み跡に心中で大満足しながら、今度は此方が身体中に残してやるかと、弾力あるソファに別れを告げた。



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