「めっずらしーよね。蓮ちゃんが泣いてるの久しぶりに見る」
「見んなっ、お……おれ、やばい……おかしいから、いま」
「おかしいってなによ」
「だから、なんかこうずっともやもやしてんだって、やなやつなんだよ、おれ」
「どこが?」
「…………」
 素直な表情に見つめられて、ぐっと涙を堪える。
 十七年間、武人に隠し事をしたことはなかった。家出をするときも、彼女が出来たときも、化学で赤点を取ったときも、全部全部言っていた。正しくは、言おうとしてはその都度バレて先に訊かれることが多かった、だけれども。人生単位で武人に隠し事することになるとは思わなかったし、十七年間全部を見られていた相手に、たとえ嘘を吐いても隠し通せるとは思えない。
「………………」
 観念したわけではなく、諦めでもなく、寧ろ何故隠していたんだろうとふと思った。直接疑問をぶつけてくる羽生はかわせても、確信を持って回答を求める武人に、勝てたことは一度もなかったのに。
「……おまえが、」
「うん」
 真っ直ぐ眼を見ながら同意が返って来ることに安心しつつ、もう一度喉を整えてから、扉までも届かないような小さな声で話し出す。利佳の靴があったことは、さっき確認していたからだ。
「……おまえが、何知ってるか知らねぇけど……利佳と、健悟……あいつら、付き合ってんだよ、……指輪あげて告ってんの俺聞いたもん」
「は? 利佳彼氏居るじゃん」
「それはっ! ……知らねえけど、そうなんだって」
「……ふーん、なんか引っ掛かるけど……、そうなんだ?」
 腑に落ちない表情を浮かべながらも訊き返す武人に、「そうだよ」と軽く答える。けれどもその声は掠れてしまって、無理に出したことを悟られたからこそ頭をわしゃわしゃと撫で回されながら、笑われてしまった。
 笑い話なんか何もしてないのに、呆れたように微笑まれる。
「ばっかだねぇ、もっと早く言ってくれりゃー背中押してあげたのに」
「だって、きめぇし、きもちわりぃじゃねぇかよ、こんなんっ」
「はー?」
 顔を背けて突き放せばようやく武人の表情が変わって、分かりやすく眉を上げてむっとした表情が作られた。
 次に来るのは怒った自分を宥める言葉かと思えば、打って変わってやって来たのは力づくの鉄拳制裁。ゴンッと頭蓋骨に響く音がしたのは紛れもなく自分の頭の中の出来事で、三半規管がぐわんぐわんと揺れているのを感じた。怒りよりも痛みが先に来て、頭を押さえられることになって漸く怒りが表情へと現れる。
「……いっ、てえぇっ……! てめえっ……本気で殴ったろいまっ!」
 胸倉でも掴んでやろうと片膝を立てるも、此方がいくら迫ろうとも武人に動く気配は無く、じっと枕元から蓮を見ているだけだった。
「悪くねーよ」
「…………」
 拗ねるように武人の口から出た言葉は、今現在怒っている蓮とは比にならないほど、今ある感情の事実を否定した蓮に対しての怒りが篭もっていた。
「悪くない」
 冷静な眼で訴えられながら、自信に満ちた声で再び繰り返されて、蓮が言おうとした言葉はぐっと身体の中に飲み込まれて行った。
 肯定されている気がしたのは気のせいではない、肯定してくれていたのだ、武人は。
 こんな、自分を。
「…………、」
 勇み足で立てていた膝を抱えるようにして、蓮はゆっくりとそこに額を落とした。尖った唇は最早怒りよりも決まりの悪そうな色を映していて、与えられた言葉に戸惑っているようだった。けれども、十七年間無条件で信じてきた彼のことだから、心から思っていることだと分かり、余計に顔が赤くなってしまう気がした。
「……ばっかじゃねーの、おまえ……普通気持ち悪がるもんなんだよ、こんなん……んな、真面目に言ってくれてんじゃねーよ……」
「じゃあ俺は普通じゃないんだ、おまえら兄弟に付き合わされて普通の感覚歪んでんのかもね」
「っだよ、それ……」
 ははっと簡単に笑った武人に、なんでそんなに冷静でいられるのだろうと心から思う。他人事だからではなく、本当に問題を感じていないように笑うものだから、腹の底から湧きあがって来る感情が嬉しさだと言うことに気付くまでに少しの時間が掛かった。
「…………」
 ――おれは、誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。
 ――誰かに、肯定して欲しかったのかもしれない。
 たった数分前とは確実に違う感情、大きく安心してしまっている心のスペースを見つけた気がして、心中にじわじわと温かさが拡がっていく。
 何も問題は解決していないのに、誰にも言えず抱えていた問題に、ひとりだけ、分かってくれる人が出来た。それだけで、飼い慣らしていた苛々が少しずつ拡散されていくことがわかった。
「っていうか、蓮ちゃんは引け目に感じてるっぽいけどさ、俺としては逆に賛成っつーか」
「……は?」
 ごろんと寝返りを打って此方を向いた武人に、蓮はぽかんと口を開けながらつい聞き返す。
「だってあんた彼女居ても居なくても一緒っつーか、なんかいっつも必死さがないっつーか……変だと思ってたんだよね、ぶっちゃけ」
「え、」
 心当たりのない事を言われて眉を顰めるけれど、武人は気にする様子もなく話を続けていく。
「俺とかは彼女できれば普通に喜ばせたいと思うし、一緒に居たいと思うし、なんかしてあげたいって思うわけじゃん。でも蓮ちゃんの場合、いっつも言われるの待ってるっつーかさ。自分から電話するとかちっちゃいことだけど、なんかそういうの? ないなーって思ってて。あ、こいつまたマジで好きなわけじゃねえんだ、ってずっと思ってたし」
「…………」
 自分でも少しだけ思っていた事をずばり言い当てられて、直したいと考えながらも直ることのなかったそれに蓮は唇を尖らせた。
 そして、今では充分に心当たりの出来てしまった人物を思い出しては、またちくりと胸が痛む。喜ばせたい、一緒にいたい、何かしてあげたい。そう思う人物が、今ではすっかり心に棲み着いているからだ。
 けれども彼に対して自分から電話をしたりメールをしたり、そういうことはあまりなかった気がする。好き嫌いの問題ではなく、して良いのかが分からなかった。自分なんかが、健悟に連絡を取って良いのかが分からなかった。迷惑にならないだろうかとそんなことを考えていた。今では、そのこと自体を後悔するほどに。
 心当たりのありそうな顔をする蓮を見て武人が苦笑しながら、再び話を進めて行く。
「ぶっちゃけそういう話結構あいつらともしててさ、無知なあんたが変な奴に引っかかんないようにって、俺ら結構過保護になってた部分もあったろうし。まあ、変な話だけど」
「……知らんかった」
 あいつら、と言われて思い描くのは悪友の二人で、真面目な話など皆無で常にふざけているだけに、自分が議題になっているとは思ってすらいなかった。
「…………」
 照れる。自分がいないところで自分の心配をしてくれたなんて、そんなん、照れずにどうしたらいいのかわからない。
 いらん世話だと突っ撥ねてやりたかったけれど、今まで彼らに紹介されていた子は確かに可愛いだけではなく純粋な子が多かった。それが自分の好みという訳ではなかったけれど、武人や羽生の彼女だった子たちのようにいかにも遊んでいそうな女の子を紹介されたことは一度もなかった。
 たしかに、健悟が居なくなってからふらふらと遊びに行っていた羽生家の集まりには以前紹介してもらったような柔らかな子は居らず、明らかに派手な見た目の人が多かった。いきなりそんな場所に出入りをするようになった自分を、三人がどういう目で見ていたんだろうと思ったら、ただただ消えたくなってしまった。
「恥ずかしい?」
「…………消えたい……」
「ざまぁー。俺らを心配させた罰だわ、それ」
 今にも消えそうな声で尻すぼみに言うも、からからとした笑い声が返ってくるだけで話は終わってしまった。
 これだけ恋愛経験値の違う相手に判断されれば気付かぬ内とは雖もそんなところまで世話になっていた気がして、自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくすらなってしまう。
「ていうか知らなかったってどっちが? 俺らの話? 自分の話?」
「……両方……」
「あははっ。そりゃ考える努力もしてなかったからでしょ。楽なもんだよねー、適当にのらりくらりしてりゃ次があるんだもん、別に良いって感じだろうね。ま、それがサイテーっていうんだけど」
「…………」
 じとっとした眼で武人を見れば、漸く言えたとでも言いたかったかのようなすっきりした表情でこちらを窺っていた。
 きっとずっと思っていたことがあって、ようやく言えたことなのかもしれない。健悟のこと、恋愛のこと。秘密というほどでもないけれど隠し事は確かにあった。けれども疚しい意味ではなく寧ろ自分のためにしてくれたことだからこそ、どうやって反応して良いのかが分からない。有難うと喜ぶのも可笑しいし、余計なお世話だと突っ撥ねるほど怒っているわけでもない。
 とりあえず恥ずかしいという感情が前面に押し出されていることだけは充分に分かるので、気迫がないと分かりながらも、赤い顔で軽そうな茶髪を全力で睨んでやった。
「うそうそ。ごめんって。俺らだって良いと思ってんだって、んなホイホイ軽い奴よかよっぽど芯通って格好良いと思うし。あんたのこと心配してただけじゃん。誤解されやすいんだよ、そんなマッキンキンのくせして純粋培養だから」
 俺らが居なきゃ襲われて童貞終わってたよ、とあっけらかんと笑われたけれど、確かに第一印象ではよく軽いと言われるだけに笑えない。
 ぞわっと背筋を襲った鳥肌に少しの感謝を込めて、悪友三人に今度ジュースでもこっそり奢ってやろうと心に誓っておいた。
 そんなふうに、怒るべきか褒めるべきか、うー、と葛藤する蓮を見ては、武人は小さく笑いを噛み殺していた。



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