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「……ほんとは今日逢いに来る予定じゃなかったのに、仕事もあったしさぁ……」
「おま、仕事って……!」
「……初めて仕事ブッチしたっての……」
 はああ、と耳元で吐き出された溜息は嘗て無いほどに深く、ころされるかも、と加えられた物騒な一言は健悟の事務所の人間からについてだろうか。
「れんがいけないんだよー……こーんなクマつくって泣きそうにしてるからー」
「…………」
 さらりとなぞられたのは目の下、親指で鈍色を撫でられればその下の赤はどんどんと濃くなっていくことが自分でも分かった。
 一直線に落ちてくる視線は柔らかく、目が合えば一瞬にしてふっと緩んだ表情に心臓が一跳ねする。
「……でも、あとで怒られるって分かってても来て良かったなー、今日」
 口元をむずむずと騒がせながら、堪え切れないとばかりに零された笑顔、ぎゅうっと強く抱きしめられればそれだけで頭がふわりと沸いてしまいそうで、健悟に負けじと背中にぎゅっと腕を廻した。
 高価そうな服に皺が寄ることも気にせずにしがみ付けば、それを見た健悟からはふっと笑った声が落ちてきた。
「れーん、愛してるよー」
 映画で見せた真面目さとは正反対、ふにゃっと笑った頬が余りにも幸せそうなものだから、此方の心臓をも破壊しそうな威力を持っている事実は否めない。
 まるで全身全霊で好きだと云うオーラを纏っているようで、柔らかな雰囲気に中てられて、信じても良いのかと、本当なのかと、沸々と隠していたはずの感情が湧き出てくる。
「、……重い」
「ええぇえー」
 チッと舌打ちをしながら健悟の感情を否定すれば、なんでー、と身体を揺さぶられながら笑われた。
けれど。
「……嘘だよ、馬鹿」
 ぼそりと小さく呟けばさすがにこの至近距離ではきちんと健悟に届いていたのか、耳元でくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「えー……、じゃ、だいすきです」
「……なんで敬語っスか」
「や、ちょっと照れてきた」
「おまえさー、そういうこと言うとだからこっちまで――……」
 はあ、と溜息を吐いた蓮の顔は既に火照っていて、己の手で頬を隠しながら、目の前の真っ赤な顔と対峙した。
 きも、と蓮が呟けばそれすらも健悟は笑い飛ばすものだから、何が楽しいのかは全く分からないけれど、くくっと両者共に笑いが噛み殺せなくなってしまった。
 数十分前には想像すらできなかった、緑林の中の笑い声、別に面白いことなんて何もしていないのに勝手に緩む頬が、感情を言葉にせずとも勝手に物語っているようだった。
 健悟が言っていたこと。問題なんて、何所にいるかじゃなくて、誰といるかだってこと。その意味が、やっと分かった気がする。
 時間ばかりが沢山掛かったし、健悟には迷惑かけたと思う。それでも、健悟が居るなら、健悟が居るだけで、……この家で過ごした時間も嫌いじゃなかったって、胸を張れる気がした。
「…………あ」
「ん?」
 ぱっと思いついた健悟の言葉、すっかり柔らかくなってしまった今の雰囲気が恥ずかしくて、とりあえずというように口にしてみる。
「……そういや、おまえ今日が最後のつもりで来たんだろ、……それさぁ、なんかすげぇムカつくんだけど」
 こっちがこんなに想ってたのに、目の前の相手は今日を最後に簡単に諦めるつもりだったらしい、そう思い至れば自分の方が想っている気持ちが強い気がして、蓮は健悟の腕に軽くパンチをしながら問い掛けた。
「あー、あれ、うそ」
「!?」
 けれども、健悟から返って来た答えはほんの一言。まさかぁ、とからからと笑われればこの会話の中にすら嘘があったことを知り、無意識に表情を歪めることしかできなかった。
「だって今日来たら、俺が東京帰っても蓮もそう簡単に忘れないかなーって。反応薄かったらもう言っちゃって、そっから攻めた方が良いのかな、って……東京戻っても何しても、戦略変えようと思っただけで、諦めるつもりはなかったよ」
「、」
 当たり前じゃん、とえらそうに高言されては、指先で鼻を掴んでからぐりぐりと回された。一々ちょっかいを出してくるそれを振り払おうとすると、構われて嬉しいのか調子に乗ったらしい健悟がぐいぐいと距離を縮めてきた。
「てっめえ! 卑怯者にも程が―――」
 そして、拒むことなく健悟を軽く叩いてやろうとした……―――そのとき。
「話は纏まった?」
「!?」
 音も無く、呆れた声が降ってきた。
「利佳!!」
 階段を上って来ただろうに息切れもしていない利佳でもさすがに「暑い」と手で顔を覆っていたけれど、蓮と利佳が目を合わせた瞬間、その言葉は「暑苦しい」という憎々しいそれに変化しては、大股で二人の許へと近付いてきた。
「っ、」
「わ!」
「…………」
 利佳が女子学生の平均よりも些か強い握力で押し出したのは健悟の肩、蓮を咎めず健悟に攻撃を仕掛けた利佳は明らかに冷たい目をしていて、言葉にせずとも、くっつくな、と視線が物語っていた。
「…………」
 顎を使って、健悟に退けろと命じた利佳に逆らえるはずもなく、健悟はひとり椅子から立ち上がり、その場を利佳へと譲った。
 冷たすぎる視線に撃ち殺されそうになりながら付近の柱に背を預けるけれど、その姿を宿敵のように見つめる利佳からの第二声は、これまでに聞いたこともないような深すぎる溜息だった。
「ないわぁ……」
 はぁ……と重い溜息を吐く利佳を見た蓮が、申し訳なさそうな顔をしていることが分かったからこそ、利佳は、性別の問題じゃなくて、と続ける。




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