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 ――蓮から離れる。
 それはその日に限ることはなく、数日後には文字通り距離すらも離れる結果となった。

 毎日ひたすら繰り返された撮影は滞ることなく順調に進み、辺境の地で撮る予定だったカットは全て無事に終了したからだ。
 実際に学校に通う生徒や先生をエキストラとして出演させた回は一度ではなく、その度に各家庭に連絡網がまわっていた。けれども蓮はその電話を取ることも、夏休み中不用意に学校に近付くことも徹底してしなかった。まるで最初から決めていたことかのように、正しい一線を護るかのように、必要以上に健悟と接する事を意識的に避けていた。
 そして、撮影が終盤に近づけば近付くほど健悟の帰りは遅くなり、健悟の帰る時間を待つ自分が嫌だとでも言うように蓮は家に寄り付かなくなっていた。夏休みの宿題を安易な理由にして、正しい距離を正しいままで護ろうと、何気なさを装い必死に繕っていたからだ。意識的に行われるそれに最早利佳が口を出すことはなく、寧ろ家出をせずに田舎に留まるだけ良いと、逃走地である武人に挨拶すら済ませていた。

 健悟を含めた俳優陣女優陣が正式に撮影を終えたのは夏休みが終了する二日前のことで、急ぎ足ながらに見送りの挨拶式も行われた。しかし勿論それに蓮が顔を出すこともなく、無理矢理に羽生と宗像を誘って、折角だからと挨拶式に参加した武人を盛大に罵りながら、空き地で翔けていた。
 型式ばった式は軽い学校行事のように村中を揺らす程度の威力は持っていて、小学校の運動会ですら集まらない人数が校庭を埋め尽くしていたという事実を、その夜、武人から聞いた。
 健悟ひとりだけが、五十嵐家に別れの挨拶にやってきたのは、その翌日。蓮の心にじっとりと粘りつく気持ちとは裏腹に、別れは水のようにさらりと流れ、数分でその背は消えていった。蓮が部屋に戻った頃には部屋から健悟のスーツも消え、私服も消え、暇潰しにと置いていた雑誌すら全て消えていたからだ。
 蓮と利佳以外の家族からは充分過ぎるほどの労いと微笑みを一身に受けた健悟は、今までの数週間が何事も無かったかのように立ち去って行ったのだ。印象に残るような大きな言葉を交わすことも、最後だからと過度なスキンシップで揶揄されることもなく、まるで今日が最後とは思えないようなあっけなさだった。仕事に行ってからまた此処に帰ってくるかのような、ただ滞在している旅館に一時だけ戻るだけのような、平然とした姿がそこにはあった。
 だからこそ蓮の中にはいつまで経っても実感は湧かず、真嶋健悟が本当に東京へ帰ったことを、この田舎にはもう健悟が居ないという事実を、蓮は新学期、クラスの女子の噂話で知り耳を疑った。駅で偶然見かけたのだと黄色い声を上げた彼女は、きっと最後の最後に健悟に話しかけたことだろう。
 自分が悪いと分かってはいるのに、いざ健悟が居なくなったという現実を突きつけられた途端、一歩たりとも足を動かすことは出来なかった。
 寸での処で涙を堪えることができたのは、学校中の、否地域中の噂を全て攫ってしまった健悟が余りにも遠い存在だったと、今更ながらに突きつけられたからなのかもしれない。
 所詮自分には見合わぬ相手だったと諦めようとすることで、必死に平常心を保っていた。
「見送り、とか……間に合うわけねぇっつーの」
 未だに一ミリたりとも消えない感情に、苦笑しながら呟く。健悟が来る前よりも格段に開いてしまった、心の穴。
 何に対してもやる気が起きず、適当に過ごせれば良いと思っていた夏休み前。それはたった一ヶ月で変わってしまった。今は、どうしても欲しい物がある。願っても願っても手に入れられず、それでも欲しいものがあった。
 たったひとつだけ、何よりも欲しいものができたことで、自分は意外と欲深かったことを知った。
 思うよりも先に言葉が出て、感情が溢れてくることがあるのだと知った。
 感情の薄かった自分が欲に駆られて動いたり、触れたいと、隣に居たいと、誰にも近付いて欲しくないと、言葉では言い表せない感情がたくさんあるのだと、初めて知った。

 好きで、好きで、でもただ好きなだけでは駄目だと、思い知った。

 想いが深い二段ベッドの下段には、一生横になることはないのかもしれない。
 きっと誰かに展望台に呼び出されても、二度と行くことはないだろう。
 深夜に帰宅すれば足元に彼の残像を捜して、曇天を見る度に彼の髪と瞳を思い出す。
 曇天の掛からない真っ青に晴れた日ですら、きっと屋上の鍵を捨ててしまいたくなる。
 夕焼けを見れば彼の整った横顔を思い出して、闇に包まれれば、隣に居て良いと、嘘を吐いた彼を思い出す。
 
 けれどもきっとその時には、滲んだ視界のせいで流れ星を探すことは出来ないのかもしれない。
 
 確実に彼に侵食されている自分を受け入れて、当分は胸に宿る想い出だけでこれからの日々を過ごしていかなければならないのかと思った。
 二度と触れられない手の熱さも、奇跡的に触れた幾度ものキスも、画面越しでしか聞けなくなった甘い声も、全部全部受け入れて、いつかは思い出に変われば良いと思った。

 心中に眠る穴は、前よりもずっしりと深く質量が変わってしまった気がする。
 塞ぐ方法も見つからないままだったが、忘れていた平穏は戻り、穏やかな時間の流れは確実に田舎街を包み込んでいく。
 何もなかったかのように、たった一夏の幻だったかのように、誰しもの心に過ぎた思い出として刻まれていく。
 ただ一人、新学期の教室で、小指を見つめる蓮を除いては。





「…………ばぁーか」

 小さく呟いた言葉は教室の騒音に掻き消され、その蕩けそうな甘さに触れられるものは誰一人として居なかった。



つづく。





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あきゅろす。
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