49
「行って来ます、……かぁ」
 健悟は静かに扉を閉めて、そのまま背を預けた。
「いってらっしゃーい?」
「……おまえじゃねぇよ、言って欲しいの」
 いつから居たのか目の前には楽しそうな利佳の顔があって、その小悪そうな顔は如何にも盗み聞きをしていたとでも言いたげに笑っている。
「じゃ戻って言ってくれば?」
「……いや、良いよ」
「…………」
 利佳の言葉を溜息で避けて、テンポ悪く階段を下りていく。スローペースになってしまうのは脳内で考えてしまう余計な事があるからで、大人しく後ろを付いてくる利佳を無視してぼそりと呟いた。
「やっべ、……今のですっげー恐くなっちゃった」
「ドーテーかっつの」
「ちっげぇよバカ……なんか、やべぇんだって、」
 ぐしゃりと髪を潰せば、未だセットしていないそれは簡単に動きを見せる。セットもメイクも安心してプロに任せようと思えば、いくらでも苦々しい顔を作ることができた。
 誰にも会話が盗まれることのない階段の下、唯一の弱みを見せている相手に向けて存分に顔を顰める。
「つか、拒否られるって、拒否っつー選択肢って……こんなに恐かったんだな」
 殆ど独白のように言葉を紡げば、利佳は返事をすることもなく視線で先を促している。
「やっぱなんだかんだ甘えてたわ。手ぇ出しても、ちょっとなら大丈夫って、笑って誤魔化せば大丈夫って思ってたんだな、おれ」
「……今まで好き勝手やってきた報いでしょー」
「ほんとソレ」
 呆れるように笑ったのは自分自身で、こんな状態で今更何ができるのかと自問自答をしてしまう。
「あんたさぁ、このまんまだとなーんも変わんないよ?」
「……そうなんだけど」
 それは分かっているけれど、久しぶりに見た蓮の顔が離れない。どこかほっとしたような表情も、照れたような表情も、自分が居なければずっと笑っている蓮を想像してはまた手酷くしてしまいそうな衝動を必死に堪えていた。
 蓮からの反応や対応があまりにも突然変化しすぎていて、戸惑いを隠せない。もしもこの邪な気持ちに途中から気付いていたとして、それでもずっと笑ってくれてたのは蓮の優しさだったのかとすら思ってしまう。
「スゲ、嫌われたくねぇとか……なんか、中坊みてぇじゃね?」
「中学生の方が潔い恋愛するでしょ、若気の至りで。あんた見てると恋愛初心者っての頷けるわ」
「……うっせーよ」
「今日にでもあんたの出てた雑誌集めて見せてあげようか、自分がどんだけ矛盾してるのか分かると思うよ」
「レベルがちげえよ、レベルが」
 いくらでも取り繕うことが出来る仕事と現実はシンクロすることはない。自分でさえこんなにも弱く情けない己を知らなかったのだから、世間の理想とする虚像から百八十度掛け離れていることなど言われずとも分かりきっていた。
「あんた、そのまま逃げてるだけだったら残りの何日かなんてすぐなんだかんね」
「知ってる」
「他人事?」
「ちげぇよ。なんか……蓮のためには、それも良いのかなぁ、とか、思わなくもないっつーか」
「……誰かのためとか、そんなのあんたじゃなくてあいつが決めることだと思うけど」
「そうだけど、それが分かんないんだから判断するのは自分しかいないだろ」
 自分で言った言葉があたかも正しいことのように己の中で反芻してから、ゆっくりと口を開く。
「良いんだよ、これで」
 既に決意をしたことのように言えば、目の前の眼光は更に鋭さを見せた。
「だっさいの。こんなんが続くんだったらあたしもあんた無視してやる」
「別に無視されてねーよ」
「どうだか」
 ふんと鼻を鳴らした利佳は痛い言葉だけを残して、足早に台所へと消えて行った。
 細い背が扉に吸い込まれたことを確認してから、ひとり、最近まだ増えてきた溜息を吐く。
「……ダセェとか、そういう問題じゃねーだろ。こちとら一生の問題抱えてんだよ」
 彼の道を外させて良いものなのか、果たして、外せるのことができるのか。
 此処に来たばかりのころは考えても仕方が無いと、彼に近付く為にとにかく動けば良いと安易に考えていた。動いて動いて動いて、結果彼の気持ちさえもが動いたと思った矢先の、この数日間。
 何処が悪かったのかと考えればキリはなく、新しい方法を考え出してもキリがない。その中で一番の良作を編み出そうと思えば、増えた選択肢に最後の最後に邪魔をされてしまう。
 逢いたい、話がしたい、傍に居たい、抱き締めたい、キスがしたい、それ以上を求める欲求が増えるたびにかけ離れている現実に苛々が増えていく。
「……仕事。仕事、しよ」
 冷たく怯えた彼の目を振り払ってから、目先の物事へと気持ちを切り替える。一つの歯車が壊れかけているというそれだけで、全ての歯車を止める事は出来ない。彼が好きだと言ってくれたから、彼が楽しみにしてくれていることだから、彼を理由にして手を抜くことは許せなかった。
「行って来ます」
 母親のような優しい眼差しからは正式な見送りの挨拶を、もうひとつの尖った唇からは小さなそれを頂戴して、家を出る。玄関を出れば、むんとした夏の風が顔を直撃すると同時に幼い声が遠くで聞こえて来て、誰にも見られないようにと変装用の眼鏡を掛け直した。
 一番欲しかった笑顔からは何も貰えずに、ただそこにあるだけの部屋を見上げてから、「行って来ます」と小さく風に乗せる。
 一瞬、窓に人影が映っていた気がしたけれど、ガラスに反射する光のせいで眼を細めてしまい確認することは出来なかった。
 遠くを見れば、山に雲すらかかっていない一面の晴れた青空がある。夢のように綺麗な光景には似つかわしくない靄を心に飼いながら、健悟は一歩ずつ、蓮から離れて行った。



49/50ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!