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 翌日、目を覚ました蓮の視界に真っ先に入って来た光景は夏の陽の光りではなく、暫く真っ正面から顔を合わせていない予想外の人物だった。
 カーテンから漏れる光は未だ淡く朝の訪れが近いということだけを告げていた。だからこそ陰影の濃い健悟の表情が儚く見えて、蓮は呻くことなくすんなりと目を覚ますことが出来た。
「……おは、よう」
「ハヨ」
 目覚めて真っ先に視界に入って来た人物に、心臓が遠慮なく一跳ねする。声を掛ければ朝だからかいつもよりも低い声が返ってきて、少しだけ痛んだ胸に自分は甘い声を待っているのだと気付かされた。
 こんな時間から仕事が始まるのか、健悟はしっかりとしたスーツに身を包んでいて、丁寧にクリーニングされたスーツと灰色の髪は酷くアンバランスなものだった。
「ごめん、起こしたね」
「……仕事?」
「うん」
「…………」
 その先に会話は続かなかった。
 普段は纏っていない俳優のオーラとでもいうのだろうか、酷く話し掛けづらい雰囲気に負けて言葉を発することが阻まれたからだ。慣れた手つきでネクタイを締めている姿には、ただ見惚れることしかできない。シュルシュルと滑るように奏でられるシルクの音が心地良く、この穏やかな気持ちを抱いたまま二度目の夢に飛び立ってしまいたかった。
 しかし、気になることは一つある。それは、蓮が起きた瞬間のこと、逸らすことなく捕らえてきた視線があったことだ。目を覚ました蓮が一方的に健悟を見付けたのではない、しっかりと視線が絡んだのは、ただ、一週間以上殆ど話してもいない気まずさからだったのだろうか。
「蓮。」
 そんなことを考えながら寝転んでいると、ネクタイを綺麗に締め終えた健悟と目があった。逸らすことのない灰色の瞳は先日を思い出して、知らずに背骨が震えてしまう。
「……もういっこ。ごめん」
 しかし、先日の出来事を怒るでもなく言及するでもなく、健悟の表情に浮かんでいたのは申し訳なさそうな、どこか気まずそうな表情のみだった。
「この前のこと。俺が悪いのに謝ってなかったよね」
「…………」
 まるで母親に叱られる子供のように唇を尖らせながら謝って来る。かっちりと着こなしているスーツの上に在る幼いその表情は、互いに相容れないもののようで違和感が生じてしまった。
 一瞬まだ夢を見ているのかと錯覚したが、次の瞬間、伸びてきた手によってその幻想は打ち砕かれた。
「首、痛くなかった?」
 健悟よりも高い位置に居る蓮に向けて手が伸びる。
 邪な感情はなく確認しか含まない動作だというのに、意図せずとも蓮の身体は勝手に怯んでしまった。
「、……あ、」
 小さく後ろに下がった自分に蓮が気付いた時には、目の前の顔は既に自虐的な笑みを浮かべており、諦めたかのように下ろされた手を見て冷や汗が出てしまいそうだった。
「……跡。残ってないか見たかっただけ。大丈夫そうだね、ごめん」
 目を逸らしたと同時に健悟は蓮に背を向け、さらに蓮の心音が煩くなる。
 ――ちがう。
 たった一言を口にしたいだけなのに、言葉が喉にはりついて出てこない。
「ごめんね、あとちょっとだから、居さしてよ」
 背中を向けてもなお申し訳なさそうな表情は容易に想像できて、蓮は急いで握りしめていたタオルケットを足下へと振り払った。
「やっ、」
 漸く言葉にしたのはたった一音、何も伝わらないだろうそれだったけれど、声を発したことで背中が遠ざかるのを防ぐことが出来た。
「ん?」
 何かを堪える健悟の表情には気付いたけれど、多分、自分の方が泣きそうな顔をしている。蓮は、そう、漠然と思った。
「……や、つか、……おれも、あんときは言い過ぎたっつーか……ごめん、な?」
 一度言葉にすれば謝罪はすんなりと喉を通った。何日も、何度も、繰り返し後悔していたことだったからだ。
 健悟に謝るのは、これで何度目だろうか。
「ううん」
 それでも、探るように言った言葉に首を振られてほっとした。
 深層に靄は残るものの、言葉にするだけで多少の痞えは取れた気がする。少なくとも昨日までのような気まずさで喋れない状況は無くなった気がして、安堵の息すら漏れてしまった。
 たった一言だけ口にしただけなのに、昨日よりも、数分前よりも、随分楽な気持ちで健悟を見れる気がする。そんなことを思って健悟を見ていたら、次の瞬間、つい口を開いてしまった。
 棚の上に置きっぱなしだった腕時計を手に取り、嵌めようとする健悟の姿に、またしても心臓が声を張り上げたからだ。
「……あ、」
「え?」
 予想外に出てしまった一言に蓮は急いで口を押さえた。しかし視線はしっかりと健悟の手元を追っていて、張本人がその視線に気が付くことはあまりにも容易いことだった。
「これ?」
「…………」
 疑問を顔に出しながら、健悟が指差したのは己の小指。他の指輪が綺麗さっぱり取り払われて、小指にのみ銀が残った状態に、蓮はつい驚きの声をあげてしまっていた。
 外す気になればいつでも簡単に外せるのに、未だに指に残っていたことが意外だった。もう、していないとすら思っていたからだ。
「蓮だって、してるよね」
「…………そりゃ、するよ」
「、」
 蓮が拗ねたように言ってしまったのは所詮は照れ隠しと云うもので、して悪いのか、といっそ開き直ってしまいそうな言い様だった。
「…………ありがと」
「、え?」
 後に続く健悟の言葉を待ってはいたものの、予想外の言葉が届き、蓮は顔を上げる。
 見えた表情は久しぶりに見るかのような穏やかなもので、安堵してるかのようなそれに、この指輪を友達の証だと言って買ってくれたことを思い出した。
「なんか、よかった。……や、マジで、……嫌われたのかとおもってたから」
「はあ?」
 健悟から紡がれる想定外の言葉に身を乗り出して、蓮はつい二段ベッドの柵を掴んでしまった。その勢いに健悟は驚いていたけれど、考えてみれば避け続けたのは此方なのだから、そう思われていても仕方が無いのかもしれない。
 嫌いになりたいのに、なれなかったと、もういっそ言ってしまいたいくらいだ。大好きだと寒い事を口にすれば、この穏やかな笑顔はどこに行ってしまうのだろうか。
 けれども、健悟を好きだなんて一言も言っていないのだから、確かに、伝わらなくても仕方の無いことなのかもしれない。
 隠し通したい気持ちが一向に伝わらないことは本来喜ばしいことだというのに、もどかしいそれにチッと舌打ちをしてから、蓮は口を開く。
「あのなぁ……んなんこっちの台詞だっつの。……つか、おまえ、は……どうなんだよ」
「え?」
「……おまえもしてんじゃんか」
 ちらっと目線をやれば、此方が何を確認したいのかを悟っていたようで、健悟は力が抜けたとでも言いたそうに少しだけ笑いつけた。
「あはっ」
「?」
 なぜ笑われたのか分からず蓮が顔を顰めたら、健悟は一回だけ、小さくゴメンと謝った。
 あれだけ大量の着信履歴を残しておいて、これだけ卑怯に手を出しておいて、寧ろ此方が嫌われていないかと沈んでいたというのに。蓮からのたった一言で気分さえ上昇した自分を現金だとは思いながらも、健悟は自信に溢れた表情で断言する。
「俺が蓮のこと嫌いになるわけないじゃん」
「、」
 ぽかんと呆けるその頭をぐしゃぐしゃに撫でてやりたかったけれど、手を伸ばすことは阻まれた。
 先ほど身を引いた蓮の行動を思い直して、今もう一度避けられるくらいならばこの気分のままに仕事に行きたいと、そう思ったからだ。
「そろそろ行かなきゃ」
 わざとらしく時計を見たけれど、本当はまだ時間はあった。けれども、ここに居れば余計なことまで言いそうな浮かれた自分を叱咤して、足を扉へと動かす。
 その際背中を向けた健悟を呼び止めたかったのは寧ろ蓮の方で、たくさんある言いたい言葉の中で、ひとつだけ、結局は当たり障りの無い言葉だけを選んでしまった。
「――仕事、頑張って」
「うん。ありがとう」
 扉を閉めた最後の顔は笑顔、蓮は「今日は帰ってくるのか」と問いたかったけれど、答えを想像すれば恐くて聞くことができなかった。今までは聞くことすらなかったそれが一気に不安になる。当たり前だったそれに、確信すら持てない。考えてみたら、そんなことを言える立場には居ないからだ。
 けれども、別れ際の健悟の表情を思い出せば衝動のままに枕に顔を押し付けてしまっていた。
「あーーー……」
 久しぶりに会った。久しぶりに喋った。久しぶりに、笑ってくれた。
 たかがそんなことで嬉しくなっている自分が居ることは隠しようもなかった。衝動のままに枕に顔を押し付けて、いまならば、幸せな夢が見れそうな予感があったからだ。
「…………」
 健悟との付き合いに適度な距離を見つけた気がして、寂しいと叫ぶ心中の部屋には厳重な鍵を付ける。
 ――この距離で、良い。
 多くを望むことはない、健悟が笑ってくれるだけのこの距離が一番良いと、蓮は本音を隠して眠りに就いた。



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