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* * *


「――泣き止んだ?」
「……ん、」
 健悟からぽんぽんと叩かれたのは顎の先で、猫でもあやすかのような仕草を咎めることなく蓮は頷いた。
「そっか」
 目元がじんわりと赤らんでいる蓮に健悟も頷いて、顎を撫でていた手を頬に伸ばす。
「えい」
「いへぇっ!」
 そして健悟が蓮の両頬を抓ると、頬に感じた痛みのままに蓮は眼をぎゅっと閉じたもののそこから涙は落ちてはいなかった。
「うん」
「、んだよ」
 そのことに一人納得する健悟は頬を緩めて頷いたものの、すっと体温が離れて行き話を断ち切るかのような様子に蓮は眉を顰めて睨み付けた。
 ぱっと手を離した健悟は手持ち無沙汰に自分の髪を掻いてから、ふうと小さく深呼吸をする。
「あー、じゃ、おれ、行くわ」
「え、」
「……言いたかっただけだしさ、蓮笑ってるし、いーや」
 健悟が眼を細めれば一瞬で蓮の顔が引き攣ったことが分かったけれど、それを追求すれば余計な気を遣わせてしまいそうで、あえて無視を決め込んで話を進めて行く。
「あーもうほらー、このクマ。ちゃんと寝なきゃだめじゃん。ちゃんと食って、ちゃんと勉強して、ちゃんと遊んで、……んで、元気でね?」
「っ、」
 最後とでもいうように健悟が向日葵色の頭をぐしゃぐしゃと掻き回せば、その衝動に任せ俯いた蓮の肩は再び小さく震え始めてしまった。
「だからなんで泣くのー」
 笑って言えば余計に目の前の肩が揺れるものだから、髪の毛を掻き雑ぜていた手は滑らかな後頭部をなぞっては頭を撫でることしかできない。
 実際蓮の頬を濡らす原因となっているのは健悟の言葉端だけではなくその行動だということにも気付かず、蓮の言葉を待っていた。
「……な、んで、……だよっ」
「ええ?」
「……来たばっかの癖に、さ、……最後とか……言ってんじゃねぇよ」
「、」
 えぐ、と子供のように嘔吐いてしまいそうになりながらも必死に声を紡げば、一瞬だけ頭を撫でていた掌が停止した。
「なんでって……だって、蓮には蓮の生活があるし、これ以上俺居ない方が良いでしょ? ……もう壊さないし、安心してよ、」
 ぽんぽんと宥めるように触られたことが嫌で、蓮はグッと下唇を噛み締めながら顔を上げる。
「…………ばかけんご」
「え?」
 涙目で鼻水を啜るという到底綺麗とは言えない顔で蓮が言うと、当の本人は眉を上げて驚嘆の表情をつくった。
「……おまえはばかだ、いくら顔が良くても演技がうまくても、すっげえいっぱい人気あっても、そんでもやっぱおまえはバカだ、ばかばかばか、すげーばか」
「……えー、褒めてんの、貶してんのそれ」
 ははっと健悟が笑ったのは一瞬のことで、次の瞬間、蓮から伸びてきた腕によってその余裕は取り払われてしまった。
「っ」
「え、」
 蓮が腕を伸ばした先は健悟の掌で、頭を撫でていない健悟の左手にぎゅうっと力を込めて握り締める。
「…………う、うれしい」
「……は?」
「だからっ、……うれしいっつってんの!」
 半分怒りながら言った台詞は殆ど自棄を起こしていて、健悟の顔から目を逸らしたまま赤い顔で言葉を紡いでいく。
「……んな、ガキんころの話なんて覚えてねぇけど……んな約束果たしに来たおめーはすげぇと思うよ、だってふつーバックれるじゃんそんなん、質屋に換金しねぇだけスゲェって」
 蓮が一息で言い切れば若干の静寂が走ったけれど、その後に健悟が驚きながら苦笑するまでには長く時間は掛からなかった。
「、はは、なんで、そんな優しいの、普通キモイってドン引きすっとこだよここ、」
「……ばかおまえ、オレは元々優しいんだよ」
「……それは、知ってるけど」
 蓮が小さかった頃を思い出しながら健悟が頷けば、決して強いとは言えない蓮の左手が健悟の脇腹を襲った。
「……肯定してんじゃねぇよ」
「いてっ」
 弱々しいそれすらも嬉しくて健悟がつい笑みを零すと、それを見た蓮は何かを決意したかのように唇をぐっと噛み締める。
「……おまえ、は、」
「うん?」
 漸く絞り出した掠れ声、それが震えていると焦ったのは蓮のみで、胸に詰まったままだった靄をどうにかして上昇させた末に最後まで喉を通させた。
「俺のこと、きらいになったのかよ?」
「…………、……ええぇっ?」
 今の流れでなぜそうなる、と健悟が声を裏返しながら声を紡げば、蓮は自信がなさそうにぐっと唇を噛み締めてから再び空気を震わせる。
「昔話はわかったよ、そんでいま、結局おまえは、どーなんだよ」
 そして、恐くて恐くて聞けなかったことを、ようやく音に乗せた。さらりと勢いで発したように装ったけれど、言葉尻が震えている上に健悟の手を握る力に余計に負荷が掛かってしまって、自分の緊張なんてバレバレなのかもしれない、とふと思った。
「いま、って……」
「……離れてくっつーことはそういうことなんだろ?」
 離れる、という言葉を口にした途端、意図せずともまた涙目になってしまいそうな自分に気付いて、蓮は気まずさから俯いた。昔話で想われていることは充分に伝わった、けれども、それならば、今の今まで健悟が横に居なかった現実とは矛盾してしまう。なんで、どうして、いまもこのまえも、俺から逃げたりするんだよ。
 心中の疑念とは反対にそれを打ち消す言葉をひたすら蓮が待っていると、ぐっと握った手が細かく震えていることに気付いた。ビビりすぎだろ、と自分を蔑むと同時に、こんなに誰かが怖いと思ったことが、こんなにこの先が怖いと思ったことは、今までに一度もなかったと思った。
「……何を勘違いしたらそうなんのよ、さっきの話聞いて」
「…………」
 けれども、はあ、と呆れたような溜息は、蓮の前髪が揺れてしまうほどの位置で行われた。
 蓮の言葉をあっさりと否定するかのような動作に期待を込めて上を見れば、至極苦々しそうな表情がそこにはある。
「あのねぇ……最初は、おまえの写真貰ってずっと成長見てきて、どっか遠いところに弟ができたみたいで、すごく嬉しかったのね」
 観念したようにぽつりぽつりと吐き出される言葉はどこか怒っているようにも見えたけれど、不貞腐れる、という表現がぴったりと頭に嵌った気がして、蓮は灰色の双眸に向けて深く頷いた。
 するとその覗き込むように不安を示す双眸が小さいころの蓮とより酷似して見えたのか、健悟は片手で額を押さえて、再び溜息を吐いてからゆっくりと言葉を紡いでいく。
「……もうバレてるだろうから言うけど、……ずっと、勝手に弟とか可愛いとか思ってる蓮に初めて彼女ができて、……あ、中一のあの子ね、あおいちゃん?」
「、!」
 蓮の目を見て言えば、その黒目が一瞬にして大きくなりなぜ知っていると訴えるものだから、東京の自宅にある蓮専用のスペースの存在だけは決してバレてはいけないものなのだろうと覚った。
「……だからさぁ、蓮がドン引きするくらいには知ってんだって、本当に」
 言えるギリギリのラインを探して、はっと自嘲交じりに笑った健悟は、ここまで言えばといっそふっきれたのか、「で、」とたった一言で再び空気を変えては話を続ける。
「蓮とその子ね、あおいちゃんが、……二人して笑ってる写真とか見てたらなんか知らないけど、マジで苛々してる自分がいて。……なんかもう、おまえが他の人見てるのが嫌で嫌で嫌で、すっげえ嫌で、なんで俺だけ見てくれないのって独りよがりにめちゃくちゃ考えてさ。……そんでもう、これは“そう”なんだなって、思って、いつの間にか」
 ちら、と健悟が蓮に顔をやれば想像以上の事実だったのか焦りながらも顔だけを赤くして口を真一文字に閉じた蓮の顔、照れている、未だそれしか読み取れない感情に内心些細な恐怖を感じながらも、それでも湧き出る欲求を無視できずに健悟は長年隠し飼い慣らしていたそれを暴走させる。
「……で、認めたらもう最後でいろんな感情沸いて来て。そんで、今回やっと、仕事に便乗してココ来たの。めちゃくちゃ俺の我が儘で」
 言えば言うほど自分が最低だとは思ったけれど、大勢の人を巻き込んででも欲しいものがあったと、言わずとも理解してほしくて健悟は気まずそうに銀の髪を掻いた。
「だから、蓮はどうか知らないけど、俺はずうーっと見てたの、おまえのこと。……俺の仕事って見られることのはずなのにさ、蓮に関しては完全に逆だったんだよ」
 利佳のせいで見られることはなかったらしいという事実は、一か月前に初めて知ったものだったけれど。それでも自分がずっと見てきたという事実は変わらない、友達、親友、兄弟、家族、既にある蓮のポジションのどの部分にでも良い、彼の視界に入って、彼と話して、彼に触れたかった。
 彼の笑顔を見て、それを独り占めしたいと、ずっとずっと、心から想っていた。



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あきゅろす。
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