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* * *





「――……以上、俺の昔話。」
「…………」
 ぱちん、という乾いた音が深閑とした空気を裂いた。それは健悟が両掌を合わせた音で、まるで何かを決意したかのような一本締めに、蓮は呆然と口を開くことしかできなかった。
 一気に頭の中に侵入してきた話が勝手に狭い空間を走り回って全く収拾が付かない。事態が把握できない。八重歯すら隠さず呆ける蓮の様子は当然健悟にも伝わっていて、ただただ驚嘆しているその表情に健悟は小さく溜息を吐いた。
「……あーあ、言っちゃった」
 がり、と今更項を掻いたところで昔話の撤回はできない。十年間隠していた事実だけではなく気持ちまでも言ってしまったからこそ、何も言わない蓮の反応が予想通りすぎて恐かった。
「んなヒかねぇでよ、……ごめんね。」
 分かってはいたけれども、行き場のない感情は健悟の胸中にぐるぐると渦巻き己の陣地を拡げ続けていた。一生言うことのないと思った引き出しの中身を全て曝け出した結果として、それでも記憶を思い出す素振りも見えず、それどころか正負の感情も分からない蓮の態度が何よりも辛かった。
「……駐車場で逢ったときから蓮が忘れてるの気付いてたし、東京に帰るときだってさ、……本当はもう言うつもりなかったんだよ」
 拗ねたように口にする健悟は殆ど開き直っていると言っても過言ではなく、隠すところの何もない状態がいっそ清々しいとばかりに言葉を落としていく。
「…………や、」
 それを見た蓮は喉にへばり付いている言葉を一生懸命紡ごうとするけれど、どうしても喉から離れてくれそうにない。
 ヒくとかヒかないとか、そういう問題ですらない。全く整理のできない現状に、期待を通り越し一気に把握できない状況に、頭が回転することを止めてしまったかのように信号停止だけを合図していた。
 白眼が広くなり唇に隙間を作った蓮の表情を真正面から捉えるのは勿論健悟で、その顔が想定内だとでもいうように、ポケットから黒い携帯電話を取り出す。
「……でも、利佳があんな写真送ってくるからもう駄目だったの」
 溜息混じりに、ぱちん、と開いた画面には今とは程遠い蓮の醜態が晒してあるものの、その携帯電話を閉じようと手を伸ばすことすらできなかった。
「俺が何かしたんじゃないかって思ったから、俺から離れたら蓮が元気になるって思ったのにね。……なーんでこんなのつくってんの、おまえ」
 健悟の細長い指が伸びた先は、蓮の眼下にある鈍色の隈だった。健悟の右掌が蓮の頬に伸び、親指で蓮の眼下の皮膚を往復しても蓮の顔は未だ戸惑いしか映さず、拒否の意も肯定の意も示さない。
 最後に直接肌を触られたのは、健悟に触れられて後ずさりしてしまった夏休み、健悟の体温が伝わることがあまりにも久しぶりすぎて、本当に目の前に居るのだと分かって、その輪郭すらぼやけてきてしまう。
「、…………っていうのも言い訳で、逢いたかっただけなんだけどね、ほんとは」
 じわじわと健悟の体温が頬に沁みていくと同時に素直な言葉も降って来て、ようやく蓮の唇がわなわなと震え出した。

「逢いたかったの。俺が、勝手に。」

 紡がれていく健悟の言葉は、まるで自分の感情を汲み取られているかのように一言違わず同じものだった。
 俺だって、逢いたくて、逢いたくて、いま、逢いに行こうとしてたのに。
「……でもほんとに最後にするよ、もう言っちゃったしね」
 間近で見る健悟の顔は上映会が終わった後だからか薄く化粧が施されていたけれど、それでも隠しきれない隈が見えてしまっていた。プロのヘアメイクでも隠しきれなかった隈は、化粧を落とせばどれだけ深いものなのだろうと思うだけで切なくなったけれど、それ以上に、自分と同じくらいに眠れて居なかったのかと、何故か嬉しさの方がじわじわと込み上げてきた。
「ごめんね?」
 なんで謝るのだと、喉に張り付いて出て来ない言葉の変わりに、ぼろっと視界が大きく揺れた。
「、ぁ、」
 蓮の口から出たのは小さな驚嘆だけで、声になることのない叫びは目元から次々に溢れてくる。
 ぼろぼろと落ちる涙の線は健悟の親指を容易に濡らして、小さく震えていただけの唇は今では強く噛み締められていた。健悟から聞いた話と、今までの健悟の行動を合わせて、聞きたいことは山ほどある。それなのに、言葉が巧く紡げない。
「……あー、ごめ、」
 透明な道が頬にできる様子をどう受け取ったのか健悟は瞬時に蓮から手を引いて、罰の悪そうな顔をした。
「、……ちげぇっ」
 けれども、健悟の熱が頬から少しだけ離れて初めて、健悟との距離が遠くなってしまうと感じて初めて、蓮は恐怖から声をあげた。つい先日までは存在すらしなかった筈の体温なのに、いまは遠退くそれが恐くて、瞬時に手を伸ばす。
 掠れた蓮の声が二の句を告げることはなかったけれど、離れて行こうとしていた健悟の手をぎゅっと握り締め、離さないと言わんばかりに引っ張っていた。
「、蓮?」
「……ちげぇ、……ちげーって」
 ぎゅうっと痛い位に蓮が握れば、縋るようなその態度に首を傾げた健悟が、小さく呟く。
「……きもち、わるくねーの?」
「…………」
 聞かれた問いだけは絶対に無いとでも言いたいかのように、蓮は大きく首を振った。以前聞かれた問いに合わせて答えるかのように、絶対に無いと、ありえないと、金髪の毛先が目に入ってしまうのではないかと言う位に、大きく横に首を振っていた。
「……ありがと」
 さも安心したかのようなトーンで頭を撫でられることが余りにも久しぶりすぎて、頭上から落ちてくる甘さを含んだ優しい声が久しぶりすぎて、頭と手から伝わる体温を受け入れれば更に視界が滲んできた。
「、」
 たくさん言わなくてはいけないこともあるのに、自分でも何故こんなに泣いているのか分からないほどに嗚咽しか出なかった。
 一本に綺麗に交わらない多々の誤解も、聞かなくてはならないことも沢山あるはずなのに、嬉しいという感情すら、言葉としては出てこなかった。



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あきゅろす。
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