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「…………おまえさぁ、本当に蓮に手紙届けてる?」
「……はぁ? 届けてるっつーの、疑ってんじゃねーよ」
健悟が蓮に手紙を出し始めて三年後、ついに我慢しきれないとばかりに利佳に尋ねたことがある。
「漢字読めねーし書けねーからあたしが代わりに書いてやってんだっつーの」
しかしそれに返ってくるのはまるで最初から決められていたかのような慣れた返答で、利佳の後ろから聞こえてくる少しだけ成長した声を聴いては、生殺しだと、代われと、利佳の底意地の悪さを味わっては靄々とした日々を過ごしていた。
五十嵐家に手紙を届けるようになって、一か月、三か月、半年、一年、二年、三年―――……。
月日が容赦なく流れども、定期的に五十嵐家に手紙を届ける習慣だけは変わらなかった。
季節の分かれ目や何か大きなイベントがあったからではない、そんな行事を挟んでいるわけでもなんでもない、ただ本当に、あてもない近況報告と繋がりを欠かすまいという根性から届けているといっても過言ではなかった。
「……あーもう、いい加減行きてぇわ……」
利佳との電話もすっかり慣れてきた五年目、弱音を吐くようにそう言うと、まだに決まってんでしょ、という少し憤慨したような声の次に、その後ろから、「ねーちゃんー!ごはん〜!」という明るい声が届いた。
健悟が反射的に声を出すと、利佳は煩いとでも言いたげに健悟を咎めて、別れの挨拶もなしに電話を切る。チッと舌打ちをした健悟が急いで電話を掛け直せばすぐに聞こえる留守音、幾度も掛ければいつかは蓮に繋がるかもしれないと想えども、自分が想像していた何百倍も高い利佳の防御壁にはダメージ云々を通り過ぎてはいっそ呆れてしまうほどだった。
悪戯に写真を入れてくる利佳が、自分の悔しがる顔見たさで送付してきていることは知っている。それに忠実に反応すれば、こんな写真もないことはないと、更なる提供をするものだから、言い値で買ってしまったことも一度や二度では到底ないほどだ。
それが積み重なったせいなのか、いつの間にか自分の家にも、五十嵐家にも負けないようなアルバムが数冊存在していて、利佳にしか知られぬそれだけれども、話を聞けば聞くほど、成長を見守れば見守るほど、……まるで遠くに居る弟のような、そんな感覚にすらなっていることも事実だった。
三年、五年、八年―――……十年。
十年なんて月日は、振り返ってみればとても淡く短く、簡単に過ぎ去るものだった。
もしかしたら利佳の攻防により、逢える日なんて来ないのではないかと正直疑ってしまっていたほどだ。もう待てないと自分から映画のロケにその地を組み込んだ時、あの家に恨み言一つ言われず温かく受け入れられたとき、…………あの駐車場で、蓮にあったとき、そのすべてが、本当にこれが現実なのだろうかと、頭の片隅では夢の続きなのではないかと、迫り来る一瞬一瞬にそう思っていたほどだ。
再会した君は、小さな約束も、自分の台詞も、俺の存在さえも、ぜんぶぜんぶ綺麗に忘れていたけれど。
それでも俺は、一日たりとも忘れたことは無かった。
必ず行くと言った些細な口約束も、必ず返すと言った堅く大きな約束も、どちらもあのころの自分には同じくらい大切なことだと思えたからだ。
再会を果たしたあの日、送り続けた感情が微塵も届いていなかったことを知った。
走り続けた十年間の言葉も手紙も仕事も、なにひとつ、その地に届くことはなかったと、思い知った。
成長した君は、いつの間にか随分と変わってしまっていた。小さい頃に自慢げに田舎を語っていた姿が消えてしまったことに一人腹を立ててしまったのは、自分が見てきた蓮と違いすぎたから、そんなエゴの塊だった。
―――それでも故郷すら分からない自分には、そんな感傷すら羨ましかったのだけれど。
ココが違う、ココも違う、ここはこうだった。そう考えることは簡単だ。
けれども、まるで十年の歳月なんて無かったかのように、もう一度香水を褒めてくれたことも、不意に頭を撫でた瞬間に、相も変わらず擽ったそうにすることも、そしてその気持ちよさそうなとろんとした表情が変わらないことに、鳥肌が立ちそうになるほど嬉しかったことなんて、きっと知る由もないんだろう。
そんなに寒くもない空の下で温もりを抱き締めたときは、じわじわと腹の底から震えてはこの瞬間が二度と終わらなければ良いと安っぽいドラマのようなことすら思ってしまったほどだ。
すっかり変わってしまった髪の色も、思ったほどには成長しなかった背丈も、憎たらしい言葉の端々も、強がる台詞も、実は誰よりも礼儀正しく変わらぬ純粋さを持ち続けていた心の中身さえ、ぜんぶぜんぶ重なっては、本当に好きだと、心から愛していると、自信を持ってそう思った。
離れている間、この十年間、利佳とコンタクトを取り、返信が来るたびに、寄せられた写真の中には多くの人に囲まれて笑っている蓮が居た。それは親戚だったり、近所の人だったり、友人だったり。誰一人として自分の知る人物ではなかったけれど、一枚の写真の中から溢れんばかりの笑顔が垣間見られて、自分の職業感覚を見直すにも値すべき柔らかな写真ばかりだった。
皆が心から笑い合える空間があることも、そんな人物が傍に居ることも、写真を見ただけで伝わる様な倖せが羨ましかった。
―――自分にとっての、笑顔ってなんだろう。
カメラの前で表情をつくることは当たり前、笑えと言われればいくらでも笑うことができる。心の伴わない虚しいそれと比較する様に、蓮の写真を見る度に考える。
同じ場所に生きているはずなのに、自分とはまるで別の世界に生きているようで、輝かしくて、眩しくて、―――羨ましい、と。
十年という長い月日を越えて出逢った蓮は俺のことが羨ましいと、追いつきたいと幾度か言葉にしていた。その度に俺が苦笑いしか返せなかったのは致し方のないことだ、だって、本当は、……全部こっちの台詞でしかない。
蓮のことが大好きな皆に囲まれて笑っている蓮が、大事な友達に支えられている蓮が、信頼できる家族に愛されている君が、―――……羨ましかった。
友達になりたい。
親友になりたい。
恋人になりたい。
兄弟になりたい。
家族になりたい。
蓮を満たすすべての部分に成り代わって、四方八方に散らばり行く関心をすべて俺だけに集めて、俺だけを見てほしい。
そんな風に想ってしまうようになったのは、いつからだろうか。
ベクトルが違いすぎることは、最初から承知していた。小さな子どものたった一週間あまりの出来事なんて、俺にとってのそれとは重さも形も、記憶に残るスペースも、すべてがちがっていたのだろう。
こんなにこんなにこっちが覚えていても、たかが一方通行の想いは理解してもらえることはないに違いない。
あのとき俺が、どれだけ君に救われたか。どれだけ君に、逢いたかったか。たかが生きるための術、命じられるがままに仕事をして、そんな自分を見てくれている人が居たことが、どれだけ嬉しかったことか。
そんなヒトカケラさえ伝わることなく、ぜんぶぜんぶ、忘れてしまったのだろうけれど。
蓮に教えてもらった“ありがとう”の言葉は、いつの間にか俺の方が口にすることが巧くなっていた。
それは口にするたびにあの日の事を想い出していたから、それだけ蓮のことを考えていたって、そういうことだ。
長かった十年間という月日は、自分にとっての財産でもあり、修業期間でもあり、猶予期間だった。
認められる程度の地位を築けた今ならば蓮を迎えに行ける、ぶかぶかの指輪が中指にぴたりと沿った今ならばきっと蓮にもう一度逢う資格もできたのだろうと、そう確信をもっていた。
……けれども、いくら周りを固めたとしても肝心な部分は本人の気持ち次第、それが一番難しくて、繊細で、自分のペースに落とし込むことさえできなかった。
蓮に甘い言葉を囁いて、優しく丁寧にリードして、大人の余裕をたっぷり見せて惚れさせよう、恰好良いと思ってもらおう、理想ばかりが積み重なる中、そんな風にできたら至極簡単だったと本気で思う。
現実なんて―――……全くといっていいほど、思い通りにはいかなかったからだ。
十年なんて、あっという間だった。
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