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「…………」
「なんだよその目は。あ?」
 利佳に対して信じられないと言えば容赦なく殴られるという結果が目に見えているが故に、蓮は訝しむような目線のみで訴える。
 だからこそ、次に聞こえた不躾な言葉は、目の前の愚弟からではない。
「……それは無理があるヨネー」
 今まで我関せずだった武人がぽそっと呟けば、無言だった部屋には想像以上に大きく響いていた。呟かれた一言を聞いた利佳は、あれほど強く掴んでいた蓮の肩からさっさと手を離して足早に武人に近寄って行く。
「今なんつった? んん?」
「いたい! いたいいたいいたい! ごめんって、ごめんなさい!」
 荷物を用意する武人の肩に踵を宛がい、ぐりぐりと押しながら両耳を引っ張るという行為は見ていて気持ちの良いものではなく、蓮は己の耳を咄嗟に塞いでいた。
 結局は武人からウソデスとゴメンナサイの言葉を聞くまで行為を止めなかった利佳に、本当に血の繋がりがあるのだろうかと思ってしまうことも仕方のないことだ。
 利佳から解放され、痛そうに肩を擦る武人に同情の視線を送っていると、今度は此方だと言わんばかりに歩いて来る姿、その手が蓮の耳を引っ張ろうとしているようでびくりと蓮の肩が震えた事実は否めない。
「…………」
「って!」
 それでも利佳が臆することなく蓮の耳を引いたのは、紡ぎたい名前があったから、聞かれてはいけない名前を、耳元で、蓮に告げようとしたからだった。

「――健悟。あと少しで帰るんだからね。」
「、」

 利佳の口から、利佳の声で紡がれた呼び捨ての名に、蓮の心臓が揺れた。
 そして頭の中で利佳の言葉を反芻して初めて、健悟が帰ると、分かっていた筈の事実を改めて突きつけられていた。

 健悟が帰る。
 健悟が、居なくなる。

 人から言われてより鮮明化する事実に、頭の奥が少しずつズキズキと痛み始めた。
「……知ってるし」
「じゃあちゃんとしろっつの、色々と」
「……色々って、なんだよ」
「イロイロよ、イロイロ」
 ぺしん、と付け足すように頭を叩かれて、その餓鬼を扱うような行為に一瞬蓮の身体中に鳥肌が駆け巡った。
「…………いてーよ、離せっつの」
 何もかも見透かしたような余裕、自分には関係ないと言えるような余裕、揺ぎ無い確信、信頼、いま自分が欲しいものを、全部持っている、利佳。
 おまえにだけは言われたくなかったと、一瞬だけまた胸のざわつきが広がっていった。ざわつきに名を付ければ情けない漢字二文字に辿り着き、所詮は嫉妬でしかないそれを認めたくはなかった。
「ほら、帰るかんね」
「…………」
 それでも、ぎゅっと手首を握られたのはいつ以来か、振り払おうと本気で思えば力はあるはずなのに、いつかのように利佳を傷つける気がして一瞬躊躇われた。
 ぐいっと手首を引っ張られれば突然のことに足が縺れ、思わず姉の名を呼ぶ。しかし振り向いた利佳は狼狽するでも心配するでもなく、何も荷物を持たない弟の状況に「そういえば」と眉を顰めるのみだった。そして、未だ荷物整理をしている幼馴染の周りをきょろきょろと見渡し、再び訝しげな表情を浮かべている。
「んだよ、」
「蓮。あんた荷物は?」
「は? ねえよ。ケータイは持ってる」
 ん、とポケットから唯一の荷物である携帯電話を取り出した瞬間、利佳は呆れたように溜息を吐き出す。
「……だから悪いのか」
「…………」
 あまりにも気軽に来れてしまう武人の家だからこそ被害が拡大するのだと、利佳は今後のあり方について頭の中で見直しているようだった。もちろん、手を離すことだけはせずに。
「……やっぱオメーはうらぎりものだ」
 その間に、ぼそり。武人に向けて呟いた蓮の言葉に、彼はふっと小さく笑っただけだった。
「やっぱって何よ、やっぱって。心外だなー」
「よく言うわ、てめえこの前もオレをシバセンに売っただろうがよ」
「えー?」
「てっめぇ……」
 やっぱ殴んなきゃ気が済まねぇ、と蓮が歯軋りすれば、後ろ手を振られてしまい、まるで利佳に連れ去られていくこの状況も全てお見通しと言っているようだった。
「ほら、行くよ」
「ちょっ!」
 ガタガタと利佳が乱暴に階段を下りる間も姉弟の手が離れることはない。
 夏のせいかじんわりとした蓮の手は、あくまでも気温のせいであり、これから起こる事態への不安からだなんて、思いたくはなかった。
「ったくさー、あんたはいっつもいっつも――」
 呆れながらも着実に進んで行く利佳の細い背。蓮はその小言を無視するようにさらさらな髪が風に靡く姿を眺めてから、握り続けている手へと視線を落とした。
「…………」
 さっさと走って、逃げちゃえば良かったのに。
 でもそれをしなかったのは俺だ。甘えたのは、俺だ。
「…………」
 いつからこんなに怯懦になったんだろう。利佳の手を離さなかったのは利佳を傷つけたくないからだなんて、本当は、そんな可愛いものじゃない。このまま無理矢理帰ってきたって思って欲しいからだ。自分からじゃない、仕方なくだって、そんなちっちゃいプライドが邪魔をしたからだ。
 結局は、帰りたいからなんだろ。
「っ、」

 ――……だって、限界なんだ。

 嫌われたいけど、嫌わなきゃなんないって分かってるけど、駄目なんだって。
 そんなん、そこに居るって分かっただけで、隣の家に居るって分かるだけで、逢いたくて、もう限界なんだって。毎日毎日、隣の家の電気を覗くたびに、表示される着信履歴を見るたびに、溜息ばっかり吐くのがもう嫌なんだって。
 理性やらなんやらで閉じ込め切れない位、今にも走り出しそうなのが、自分でも分かるんだってば。
 どうしたら良いのかなんて答えも出てないくせに、逢いたいってそれだけが膨らんでいって、もう自分でも訳がわかんない。何日経ったって、結局は変わんなかった。逢いたいって思って、それだけだった。
 好きになるのは簡単なのに、嫌いになるのはこんなにも難しい。
 たかが何日で消えてしまう感情なんかじゃ、絶対にないことだけは分かった。
 小さな家出の成果なんて、それだけだ。
「健悟。居るからね」
「…………」
 ぴたり、玄関で脚を止めた利佳から迷いのない視線が届き、反射的にごくりと唾を飲んでいた。



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あきゅろす。
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