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 よし、と軽く意気込んで立ち上がれば、その瞬間、開けない視界の中で鼻先に落ちてくる冷たい感触があった。
「って、雨かよ……」
 明るい決意をした矢先の不穏な気配に苦笑する。家から着の身着のまま飛び出してきただけに、傘を持っているはずも無く、唯一持っている装備品といえば携帯電話くらいのものだったからだ。
 うっすらと見える隣街の街灯からして羽生や宗像の家の方が近いだろうけれども、下着までもが全て取り揃えてある場所を考えれば快適に過ごせる家の順位付けは明らかだった。
 だからこそ、ぐいっと再び目元を擦ってからは、鈴虫と蛙が乱れる鳴畦道から逃げるように、遠回りだと自覚しながらも武人の家に向けて脚を早めた。



 自宅同様鍵すら掛かっていない扉をがらりと開けば、聞きなれた足音が階段を降りてくる音がした。
「すんませーん。泊めてもらっていっすかー」
 欠伸を噛み殺しながら降りてきた茶髪にへらりと笑えば、返ってきたのはまるで想定外の怪訝な表情だった。予期せぬ表情は睡眠を邪魔されたからなのかとも思ったが、幾度目かも分からないやり取りで怒られる筈もない。まさか利佳から連絡が入っていたのだろうか、と蓮の頬が硬化するも、次に聞こえた声は武人からではなく、姿の見えない居間からだった。
「だれー。れんちゃーん?」
 障子を越えて聞こえる慣れた声、武人の母親の声に安心し武人を再度見やると、小さな溜息を吐いた後に髪を掻きながら答えていた。
「……そー。」
「おっじゃましゃーす」
「はいはーい」
 見えないながらも首を伸ばして言えば、返って来るのはあっさりとした肯定の返事。そうだ、これが当たり前なんだから。
 垣間見えたいつもの光景に安心したように、蓮が靴を脱ぐ。咄嗟に履いてきてしまったビーチサンダルを玄関先に投げ出し、武人の横を通り過ぎようとした、その瞬間。
「待った。なに泣いてんのよ」
「は、」
 掴まれた腕は健悟とは全く別の温度を持っていて、温く強い感触が手首に走った。
 困ったような、呆れたような視線を投げられるとは想像もしていなかっただけに、咄嗟に、ぴくりと口角が引き攣ってしまったという事実は否めない。
「……ばっか高校生にもなって泣くかよ、雨ですー。ほら、濡れてんだろ」
 おら、とティーシャツの腹部を引っ張って見せるも、本格的に降られたわけでは無い故に申し訳程度に変わった色の境目だけが残っている。さすがに無理があったか、と赤い目を自覚すらしていない蓮が唇を尖らせると、再び襲ってきたのは数センチ上からの呆れたような溜息だった。
 しかし、それから髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回されたかと思えば、優しく頭をぽんぽんと撫でられる。何を意図しているかの判断はつかないものの、幼馴染の経験上、頑張っただとか、我慢するなだとか、労いの類いの言葉が隠されている気がして、ふいに目頭が熱くなってしまった。
「…………雨ですー」
「なんも言ってないじゃん」
 鼻の奥がツンと震えた感覚に、やばい、と俯いて言い訳をすれば、ふっと笑った声が聞こえた。その声は馬鹿にするでもなく、まるで宥めているような優しさがあって、ゆっくりと梳かれている髪の毛は至極心地が良かった。
「あー……」
「風呂入ってきたら? 蓮ちゃん風邪ひいちゃうよ、そんな濡れてちゃ。下着後で持ってってあげるから」
「……あざーす」
 なにその優しさ、いつもは勝手に取って来いって言う癖に。
 たいして濡れてもいない自分に掛けられた言葉は厭味なのか本音なのかの区別は付かなかった。けれども聞き直すことすら面倒臭いと、蓮はその言葉に甘えて慣れたように歩みを進めていく。
「…………」
 蓮から漂う香水の香りに武人が眉を顰めたことになど気付くことはなく、蓮は武人の視線の先で、慣れた手付きで風呂場の扉を開いていた。



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あきゅろす。
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