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「……じゃあ、」
 ごくり、健悟の喉が揺れた後に発されたのは酷く掠れた声、これが撮影ならば珍しくもカットをされてやり直しになっていたかもしれない。それほどまでに、縋り付くような興奮を隠し切ることができなかった。
「……これ。本当だって言うなら置いてって下さい」
「、え?」
 不意打ちに声をあげたのは、突然健悟に指をさされた人物、睦の手首を持った健悟が指し示しているものなどひとつしかなく、左手に淡く輝く、少しだけ傷が入った指輪を見ながら動きを止めたようだった。
「……は? てっめえ……!」
 さっきから聞いてれば、と眉を潜めて怒気を顕わにしたのは蓮の兄らしき人物、睦の腕をとる健悟が気に入らないとでもいうように舌打ちと共にその手を払おうとした。
 ―――しかし。
「……りゅーうじ」
「…………」
 それが実行されなかったのは、睦が穏やかにその名前を呼んだからだ。待て、をするように龍二の髪を撫でた睦は、納得の行かなそうな顔をしながらも士気を下げる龍二に微笑んでから、健悟に向き直った。
 まるで健悟の言葉を待つように、蓮と同じ色、蓮を産んだ真っ黒な双眸がじっと健悟の瞳を射抜いてくる。
 並大抵の俳優よりも余程意志を持つ強い瞳、蓮によく似たそれを見据えながら、健悟はゆっくりと口を開いた。
「……俺が大人になったら逢いに行く。……絶対、返しに行くから」
 黙って此方を窺う瞳、だからこそ、健悟も負けじと視線を逸らさずに言い切った。
 健悟が、ぎゅ、と握り締めた手首の先にあるシルバーリングは所詮結婚指輪というものなのだろう。舞台の稽古で、なによりも大切な物だと教わった。
 生涯にただひとつだけ、一生を共にする相手から貰う一番の贈り物。だからこそ、頼み込む価値があると思った。その言葉に、嘘がないのなら。
「…………」
「――――」
 唇を噛み締めるほどに強い瞳を携えながら、無言で訴える健悟の沈黙が続いたのは数秒間、短考の後、優しく了承を示すような溜息を睦が吐いた瞬間、一方で利佳の瞳が大きく見開かれた。
「…………おかあさん?」
「―――……こっちなら。」
 そして、利佳の言葉を振り切るように続けた睦は、薄く微笑みながら自分の項に手を掛ける。若干首を擡げて両腕を後ろに廻す姿はネックレスを外す姿と酷似していて、健悟は首を傾げながらその姿を見守った。
 その姿を見てわなわなと震えるのは利佳のみで、健悟を除く男性二人はまさかとも言いたげな表情で睦の動向を見守っているようだった。
「はい。」
 にっこりと笑んだ睦が首から外したチェーン、その先にはサイズの大きな指輪がぶらんと吊されていて、指に光る結婚指輪よりも大分傷がついている、一目見て年代物だと分かれども、その輝きを失わぬ姿には思わずごくりと喉が震えたほどだった。
「……これは?」
 差し出される指輪を健悟が受け取ると、睦は、婚約指輪よ、と柔らかな声音で付け加えた。
 指に光るは結婚指輪、そしていま健悟に渡したものは婚約指輪。聞けば、父親の先祖代々から伝わる由緒正しい大切な指輪なのだと言う。形見と言っては忠孝の父親に、そして忠孝に、睦に、……次は利佳に渡るはずだった。
 三兄弟の中で一番、綺麗な輝きへと興味を示していた利佳、指輪を磨く睦の幸福そうな顔を、一番間近で見てきたのも利佳だった。このシルバーリングとて、いずれ来るだろう利佳の婚約者へと、誓いを表すかのように行き渡るはずだった。
 けれどもいまそれを手にするのは微塵も関係のない健悟、先程から痛々しい視線が突き刺さるのはそのせいかと、ちらりと利佳を見て思った。
「……これ、大切ですか?」
 ぎゅ、と手中にあるそれを健悟が握った瞬間、再び利佳の形相が憎々しげに崩れた。それは睦の言葉を待つよりもはやく答えが健悟に伝わるようで、健悟は離すまいと銀のそれを握り締める。
「……とてもね」
 そして、溜息と共に、本当に愛しそうに、儚げに睦は微笑んだ。
「コレと、……この子たちの次に、大事」
 左手の細い薬指に沿う指輪と、傍に居た利佳と龍二の頭を撫でてから、睦は再び健悟に向き直った。
「………………」
 本当に愛しそうに、尚且つ名残惜しそうに健悟の手中を見つめる瞳に健悟が思わず息を飲むと、睦は、健悟は悪くないと、そう言いたげに歩み寄る。
「ちょっと緩いね、」
 指輪を握り締める健悟の掌を睦は両手でゆっくりと開かせた。そして、ネックレスのチェーンがついたまま、健悟の左小指に指輪を嵌めてあげる。
「でも元々は男の人用に造られたものだから。きっと指に沿う日が来るよ。……これがピッタリ嵌まるようになって、それでもまだ気持ちが変わらなかったら、ね。」
 ね、と言いながら優しく同意を誘った睦は、蓮を護ってくれた御礼なのか健悟に対する感謝なのか、大切な指輪を取られたというのに億尾も恨めしそうにする素振りも無く、まるで遠い場所にひとり、息子が増えたかのような感覚に陥りながら健悟に語り掛ける。
「―――そしたら、ウチにおいで?」
「…………はい。」
 こくん、素直に頷いた健悟の様子が余りにも齢相応なものだったから、睦はそれを褒めるように微笑んだ。睦に嵌めてもらった指輪、左手の小指に纏わる指輪言葉を健悟が知る由もないのだろう。願望達成やお守り、いつか会えるようにと願いを込められたそれに健悟が気付くのはいつのことだろうか。約束、という言葉が込められたそれは余りにも指との隙間が空きすぎていて、サイズが合う日なんて来ないのではないかという疑念に駆られてしまったほどだ。
「………………」
 そう思った健悟は、左手で一番太い指である中指に傷付いた銀を付け替えた。御蔭で少しだけ狭くなった隙間だけれど、ぶかぶかに緩む事実には変わりない。けれども、これで意志は固まった。
 今はまだぶかぶかのこの指輪がこの指に馴染むまで、それが暫定期間だ。指に馴染んだその日には、ある意味この人質を、必ず睦の許へと返す。自分でも例えようの無いこの感情が、ひと時の感情で終わらぬようにと。
 一番大切な指は、いつか来るペアリングのためにとっておく。
 健悟がそう固く決心し、とりあえずはと指輪を首に下げようとした、―――瞬間。
「……〜〜〜いやッ!!」
「、」
 白い待合室が、叫び声によって過剰に揺れた。
 驚いた健悟が中指から顔を上げると、真っ赤な瞳と頬を引き連れた利佳の、激昂した姿がある。
「……おかあさんっ! 大人になったらあたしにくれるって言ったじゃんッ!!!」
 我慢ならないとばかりに睦に詰め寄る利佳は詰るように睦の腕を引っ張っていて、なんで、と納得いかなそうに顔を歪めていた。
「…………」
「ッ、……返してよ、あたしのなのっ!」
 しかし、宥めるように曖昧に笑んだ睦から何かを悟ったのか、利佳はその表情を目にした途端に向かっていく方向を変えて、ずい、と健悟に向き直った。
 心底厭そうな顔も隠さぬまま手を差し出せば、今ならば許してあげると、そう言いたげに下唇を噛んでいる。
「……じゃあ、俺がかえす」
 けれどもそう簡単に引き下がれないとばかりに、繋がりを決して消しはしないとそう言うように、健悟は利佳の目の前で指輪をより一層ぎゅうと握り締めた。
「俺がおまえに返すよ、大人になったら」
「うそっ! 信じられるわけないじゃない…!」
 利佳が憎々しげに眉を顰めながら言えば、涙を浮かべる利佳を見た健悟は、その不安をも取り除きそうなほど自信満々に、これ以上ないとばかりに断言する。
「―――嘘じゃねぇよ」
 たった一言、誰でも言える一言だというのに、背負った気迫のせいだろうか、利佳は数秒の短考の後、涙混じりの声でか細く、うそ、と繰り返した。
「誓うよ。……俺は、約束は守る男なんだよ」
 自信満々に言い切れども、探るような、不満に身を置くような涙目は変わりはしない。
 それは、単に指輪を横取りされたから、それだけではない。
「……うそっ!!」
「嘘じゃねえし、もう外さねぇ」
 決めた、と真っ直ぐ揺らがぬ瞳で言い切った健悟。利佳にとっても健悟にとっても、遠い将来指輪を返すということは、返しに来るということは、同時に弟を貰いに来ると、そういうことだ。
「ッ……お母さんが……毎日それ大事そうに眺めてるの知らないくせにっ! お料理するときだって、お風呂入るときだって、外して大事に置いとく場所だってあるんだよ! ……やめてよ、なにも知らないくせに!」
 一息で言い切った直後、ぐすりと鼻を鳴らした瞬間に龍二の温かな手が髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回すものだから、それを強がりで振り払いながらまた小さく口を開いていく。
「、……あたしにくれるって、毎日言ってくれてるもん……お母さんと一緒にあたしもきれいにお掃除してる! ……なんで?、なんで、あんたなんかにあげなきゃなんないの!?」
 返せ、と、ふざけんな、と、健悟に詰め寄れども、固い決心を宿した瞳が邪魔をする。
「貰うんじゃない。借りてるだけだ。返しに行くって言ってる」
 ぜったい、と強い言葉を落として健悟は口を閉ざした。
 今は渡さないと、そう言わんばかりに。
「……そーよ。利佳が大人になったとき、また返して貰いなさい。利佳のお婿さんになる人にちゃんと渡してあげるのよ」
「っ、お母さん!!」
 ぶわ、と涙に埋もれた利佳の言葉も聞かず、睦は健悟に向けて謝った。
 その姿は利佳にとって己だけが悪者の様に映ってしまったのか、良いんです、と首を振り苦笑する健悟だけが憎々しげに視界に映った。
「………………ふっざけんな……あんたなんてだいっっキライ!!」
 いま渡したのは大事な大事な指輪ひとつ、けれどもそれが戻ってくるときには、小さくて馬鹿なあの弟も奪うつもりでいるんだ、……こいつは。
「……やだ、ぜったい渡さない…………」

 指輪も、―――あの馬鹿も。

 そう声には出さずに飲み込むと、しゃがれた声の上、呆れたように再び髪の毛をぐしゃぐしゃと崩す音がする。
「……ったく、聞き分けろよ、アレはおめぇのじゃねぇんだよ。かーちゃんが貸したっつってんだから、おめぇがどーこー言う権利はねぇの」
 あの馬鹿の命が指輪で買えんだ、ちょー安いじゃん、と、笑った龍二を見て睦が少しだけ表情を崩したけれど、それでも利佳だけは、己の感情を騙すことなくふるふると首を振っていた。
 指輪には戻ってきて欲しいけれど、目の前の男には、二度と逢いに来て欲しくない。すっかり矛盾してしまったらしい事実に利佳が納得も出来るはずもなく、あてつけの様に龍二に向けて涙を零している。
「、…………」
 それを見た健悟がふうと溜息を吐いたけれど、その場から指先一本動かすことはしなかった。
だって、仕方が無い、……今この瞬間、返すつもりなどは微塵もないのだから。
 高々情に負けて蓮との繋がりが消えるなんて、絶対に許せない。
「絶対、返しに行くから」
 それでも、もう一度誓いを確立させるかのように利佳に言う。やはり変わらず、寧ろ悪い方面に流れては下唇を噛み締めながら睨まれてしまったけれど。
「…………っ、」
 まるで苦虫を噛み潰したかのような、口を開けば詰る言葉しか出そうにない表情をしていた。
 自分でもその自覚があったのだろう、最後になるのだろう言葉も表情も決して良いものとは言えないけれど、これ以上この場に居たくないとばかりに利佳はその場からぱたぱたと歩き去っていってしまった。



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