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 真っ白な部屋、ツンと鼻を襲う独特の刺激臭、病院に搬送されてから、真嶋健悟だとバレるまでに時間はかからなかった。
 院長らしき医者に、もしかしたら跡が残るかもしれないと、消したければ通院するべきだけれどもその時間はあるのかと、気遣いと質問を幾つも投げ掛けられたけれど、問題ないです、の一点張りで診察を終えた。
 見た目通り深い傷は見れば痛みを伴ったけれど、気を失った子供が脳裏に過ぎればその都度不思議と痛みは消え去るようだった。
 確かに痛い、すごく痛い、けれども自分の手中に居たあの小さな子どもの安否ばかりが気になっては苛々ばかりが募った。じわじわと蝕むように痛む肩を携えながら、蓮は大丈夫なのかと、短い治療の中で幾度も問えば「大丈夫だ」と、君の方が重傷なのだからと繰り返し宥められる。
 包帯にぐるぐる巻きにされた身体はじわじわと痛覚を刺激するけれど、そんなことはどうでもいい、痛み止めを飲み終えた後に軽い御礼をして、急いで診察室を出ると真っ赤に瞼を腫らした利佳がいた。
 漸く病院までやってきた両親に相当怒られたらしいことが見て取れたけれども健悟がそこに触れることもなく、第一声で「蓮は?」と尋ねれば、隣に立つ母親から大丈夫だと頭を下げられた。
「、」
 状況を知らない医者に何度も掛けられたそれとは言葉の重みが違う、一度は起きてまた寝たと、本当に安心したように言い切るものだから、それを聞いて漸く深い溜息を吐き出すことができた。
「…………、……よ、……かったぁー……」
 へたり、と足の力すらも抜けてしまいそうな安堵感、こんなにも感情を顕わにしている自分に驚いたけれどそれは向こうも同じだったらしい、少しだけ息を飲んでこちらの動向を見守っているようだった。
 じんじんと痛む肩も関係ない、あの小さな塊を、あの笑顔を護ったのが自分だということが言いようもなく誇らしく、これ以上ないまでに嬉しいと、率直な感情が段々と胸を襲い始める。
 いつか見た光景にいつか見たよりも深い感謝と謝罪の言葉、いまはもう寝ているだけだと、きみのおかげだと、そう続けられて漸く肩の力が抜けた気がした。
「…………おれの、おかげ……」
 そう繰り返せば、視界の端で利佳が嫌そうな顔をしたことがわかった。けれども、どくん、じんわりと痛む肩の先で心臓が跳ねたことは隠しようもなく、再びあの笑顔が頭に蘇る。
 蓮が起きたら説教だわ、と安堵したような顔で告げられて、幾分か落ち着いた気持ちで母親の顔を見つめれば、此方も泣いたに違いない、目の回りがじんわりと赤みを帯びながらも心から安心しているようだった。
 こんな時になんだけどこういうことは早い方がいいから、と前置きをされて、親と事務所の番号を尋ねられた。治療費諸々を払って、警察の人に話をして―――……と一転して現実味ある話が延々と続きそうだった、そのとき。
「―――あの。」
 若干の重さを孕んでいた空気を断ち切ったのは健悟、睦の話を一言で遮った瞬間、閑静な廊下は色に負けず静まった。
 そして、ごくりとも息を呑まずに普通のトーン、あたかも別分変わりは無いと言わんばかりの声音で、健悟は瞳に光りを宿しながら声を出す。
「御礼なんていいんで、―――あの子、貰っちゃダメですか?」
「――――」
「――――」
「…………、」
 真嶋健悟からは想像もできないような、珍しくも純粋な瞳で射ぬかれて、ぴたり、空気が止まった。
「、…………いやだわあ、」
 ゆっくり数えて約五秒間の沈黙のあと、睦の口角がひくりと動いたのは焦燥からか、苦笑からかの判別はつかない。
 笑って流そうとした話題だったのに、冗談かと頬を綻ばせたのは三人だけ、父母兄、利佳と健悟以外の人物が微笑めども、健悟だけは至って真面目な顔を崩さなかった。
「、…………」
 けれども睦が戸惑うように忠敬を見た次の瞬間、思わぬ人物が行動に出た。
「―――……いやっ!」
 白く無機質な廊下に、子供特有の高い声が反響する。
 声を発した人物を見れば唇を噛み締めながら今にも泣き出しそうにしていて、真っ赤に腫れた目許のくせに好戦的な表情は微塵も衰えを見せなかった。
「やだやだやだっ、……ふざけんなっ!」
 いつもならば「馬鹿じゃないの?」と冷静に嘲るだろう子供がこの有様、事故を目の当たりにしたこと、そしてその時、蓮だけを見つめる健悟の言葉を傍で聞いていたこと、それが災いしたのか、本当に弟が連れていかれそうな気がして、利佳は気付けば体裁も気にせず怒鳴り付けていた。
 利佳がいなければ今頃誘拐犯だろう健悟に向けて、確固たる意志を示しながらただの一度も視線を逸らさぬ瞳に罵詈を与える。それは、己の恐怖心に負けないためでもあったのかもしれない。蓮を助けて貰ったのは有難いけれど、そもそもを辿ればあんたのせいだと、常識的に考えて渡せるはずがないと、ひとりの待合室で反芻していた言葉を健悟にぶつけていく。
 それでも健悟がその言葉に疵付く素振りはない、自分の掌を見つめながら、我武者羅に道路に飛び出したあの瞬間を反芻しては、間に合わなかったら、と想像しては恐怖に震えるだけだった。
「……俺が、護ったんだよ」
 ぽつりと呟けば、消えそうなトーンと罰することもできない正論に、利佳がぐっと息を飲む気配がした。
「俺がこの手で、護んなかったら、……蓮は、ここに居なかったんだよ?」
 視界を定めることなく掌の一点を見つめると、余計に自分のした行いが奇跡に思えては、自分がこんな怪我をしたくらいで良かったと本気で思う。
「今頃は、―――居なかった。」
 都度繰り返せば、利佳は何も言えないとばかりに一度唇を噛み締めて、それでも反抗的な態度は崩さずに拳を握った。
「っ、……でもッ!」
「―――利佳」
「、」
 けれどもそれを遮ったのは利佳の後ろに立っていた忠孝だった。
「健悟君が護らなかったら、か……」
 うーん、と小さく唸りながら苦笑いを浮かべては、好戦的だった利佳をさり気なく健悟から引き離すように忠孝は健悟に近づいた。
「……まぁ、たらればを挙げればキリがないものだけど……、それを言うのならば、私たちが居なけ“れば”、育てなけ“れば”、それこそ蓮は此処に居なかった。東京に来なけ“れば”、君に逢いに行かなけ“れば”―――……こうはならなかった。……そうとも言えないかい?」
 いくら言っても意味のないことだと、無駄な議論だとでも言うように忠孝は言い放った。
「健悟君を責めてるわけじゃない、可能性の話をいくらしても仕方のないことだからね」
 困ったように緩く笑んだ忠孝を見て健悟はグッと息を飲んだけれど、今何も言わなければ此処ですべてが終わってしまうかのような気がして、一言一言を噛み締めながら口にしていく。
「、……でも、多分俺には今、どうしてもわかんないこと、っていうのが沢山あって。……それが、今までずっと靄がかってたそれなのに、蓮の御蔭で晴れてきた気がしてるんです。……すっごい自分事、なんですけど」
 具体的なものなんて分からない、けれども自分に足りなかった部分があって、あの小さな存在が居たからこそ埋まった場所がある、身体の中で足りていなかったピースが満たされた感覚は例えようも無く、健悟は眉を顰めながら話を続ける。
「……、自分でもわかんないけど…………こんなにも誰かが欲しいと思ったのは、初めてなんです」
 率直な言葉を忠孝にぶつければどういう意味で、とでも聞きたそうにしていたけれど、そんなことは此方が聞きたい、ただ彼にもう一度逢ってまだまだ話したいことがある、猫可愛がりして頭を撫でて、緩んだ頬を曝して欲しい。
 こんな感情、他の子役には、他の人間には、抱いたことなんてなかったのに。
「―――……お願いします。」
 ピンと伸ばした指を身体の横に沿わせて、健悟は深々と一礼をした。九十度近い角度を保ったそれは美しく、まるで映画のワンシーンのように無機質な病室に華を持たせていた。
 しかしゆっくり三秒後に頭をあげた健悟の瞳は恐悚している素振りもなく、真っ直ぐに強い光を宿したままだった。言葉とは裏腹な強い態度、お願いという言葉とは掛け離れるかのような視線を送られて、子供相手に鳥肌が立ったのは後にも先にもこのときだけだろうと感じてしまうほどだった。
 忠孝は、ぶるりと小さく身を竦めてから、それを覚られぬようにとこっそりと息を吐き出した。
「―――……健悟くん」
「はい」
 精悍な顔付きに似合った良い返事、曲線を描かぬ背に触発されたのか忠孝も咳ばらいをひとつ落としてから話し始める。
「…………頭ごなしに駄目だと言っても、引き下がりはしないんだろうね」
 目の前にいる健悟だけではない、テレビの中の印象―――頑なで揺らがぬ意思を通しているのだろう姿も思い出しながら、忠孝は続けていく。
 忠孝の言葉に強く頷いた健悟に流されることなく、次に続いたものといえば「でもだめだ、」という否定の言葉と拒否の意を示す首の振り方だ。
「、」
 それに健悟は顔を歪めたけれど、意外にも分かりやすい反応を返すのだな、と忠孝は安心したかのように口を開く。
「……けれども、もしも君が大人になったとき、ね。その気持ちがずーっと変わらず、ひとひとり支えることが出来るくらいの男になれて、そして、蓮が承諾したら……―――喜んで、蓮をあげる」
「―――……」
「あげるって言うのは語弊があるかな、蓮が君を選んでも、―――止めない。……こうかな?見た処随分と聡い子のようだから。簡単にまかり通る筈がないということは、分かっているんだろう?」
「…………」
「いいよ、ひとつの宣言として受け取ろう。蓮が幸せになれる道に君が居るなら、我々は喜んで差し出すって決めてるからね」
 相手が誰であろうとも、と言わずとも見つめ合った睦と忠孝を見て、その約束はこの場に限ったことではない、随分昔から決めていたかのような安定した感情がかいま見れた。
「…………けどね、」
 突如降ってきたワントーン下がって聞こえた声は、溜息というよりも寧ろ長考の末に吐き出された吐息に近い。
「……申し訳ないけれど、いまはありがとうしか言えない」
 眉をすっかり下げた表情でごめんねと小さく告げられながら、くしゃりと頭を撫でられて、年相応の子供扱いをされたことに違和感を覚えた。周りの大人たちは自分を同等の様に扱うものなのに。目の前の人物からはそれが微塵も感じられないからだ。自分がどんなに背伸びをしてもこの人たちにとっての自分はただの子供でしかない。そんな子供に蓮を預けることはできないと、遠回しにそう言われた気がした。
「そう簡単にはあげられないよ、君が想う以上に、私達も蓮のことが大切だからね」
 申し訳なさそうにしながらもしっかりと忠孝の口角は上げられた。
 大切、と当たり前のように肯定し、言葉にされた。
「……利佳だって、本当はそう言いたかったんだろう?」
「………………」
 忠孝が利佳の顔を覗き込めば、当の本人は悔しそうな顔を隠さず健悟を睨みつけていた。
 突拍子もない健悟の発言に向けて答えられた真摯な言葉、ふざけるでもなく返された言葉に納得はすれども、落胆、という文字は一瞬たりとも浮かばなかった。
「……そっか、残念です」
 健悟がわざと軽い口調で空に落とした二言、けれども、言葉通り残念だなんて微塵も思ってはいなかった。
 ―――……むしろ、朗報だ。
「………………」
 気を抜けば緩んでしまいそうな頬を携えながら健悟は表情をつくった。今まで与えられなかった愛情が、演技ですら疑っていたそれが目に見える形で確立している予感にゾクゾクと背が震える。目に見えそうなほどの愛情と、目には見えない絆が有る、それを与えることができる大人が居る、約束を守ってくれる大人が居る。
 それはどれも自分が見てきた世界には当て嵌まらないもの、瞬間的に初めて自分の中に入り込んできた出来事だった。触れてみたいと思いながらも出逢うことができなかったそれ、初めて触れた感覚に―――……世界が変わる瞬間に立ち会えた気がして、ゾクゾクした。



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