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 ――走り終えたのは、突然聞こえた妨害音にびくりと身体を揺らし、つい脚を止めてしまったからだった。
 どこまで来たのか畑の真ん中で、この地にそぐわぬ機械音と今一番聞きたくない声が鳴り響く。電話の主は予想通り健悟で、表示される絵文字と流れてくる声音には身体の底から何かが込み上げてくるようだった。ぶわぶわと湧いてくる感情が怒りなのか後悔なのか分からぬまま、今度こそぶちっと音が聞こえるほどに電話を切って、マナーモードを登録した。
 いっそ電話帳から削除してやろうかとすら思ったが、どうやら、そんな場合ではないらしい。
「……あー、やべぇ」
 次から次にぼろぼろぼろぼろ涙が出てきて、携帯を握り締めたまま目元を擦ることで忙しい。
「……やっべ、……ははっ、止まんねぇー……」
 大嫌いな広すぎる山の真ん中にぽつんと立って、自分がどれだけちっぽけな存在なのかを再確認する。畑の畦道にしゃがみ込むと、周りに家の明かりも殆ど無く、本当に暗いだけの空間だった。かろうじて月明かりで道が見えるものの、夜なのに灰色の雲が広がっていて今にも雨が降って来そうな天気だった。
 今までならば明かりも無い道なんて恐くて走って逃げていたのに、今は逃げる気にもなれない。しゃがみ込んで蹲ってしまえば、自分だけの広い空間があり、此処ならば誰にも見付からずに泣けるとすら思ってしまった。
 後から後から出てくる涙は不思議と嗚咽交じりではなく、ただ頬を伝うのみだった。人間ってこんな綺麗に泣けるんだ、と見当違いな考えが浮かぶことが少しだけ可笑しくて口元が緩んでしまった。
 なんだ、結構冷静じゃん。
 ははっと自嘲してから、溜息をひとつ。
 蛙の大合唱と鈴虫の音色を聞きながら、ずっと、思っていたことをゆっくりと考えてみる。

 ――もしも。

 ――もしも、俺が、女だったら?

「…………」
 十七年間生きてきて、初めて本気で頭に浮かんだ問いだった。
 考えてどうなる問題でもないし、考えたからといって何かが変わるわけでもない。
 でも。
 それでも、考えてしまう。
 だって、俺がもしも女だったらチャンスなんていっぱいあったかもしれないのに。
 キスしたとき、抱きついたとき、一緒に旅館に行ったとき。デートのとき、展望台のとき、手を繋いで寝た夜。健悟と居た場面なんて、数え切れないほどに沢山あったのに。その中のどこかひとつ、どこかの一場面で、もし俺が女で、もし俺が告白なんてしていたら、万が一、何億分かの一の確率でもオッケーしてくれた可能性って、なかったのかな。
 同情だとしても、付き合えなかったのかな。
「…………はぁー」
 って、考える自分が一番いやになる。
 ……無理だよなぁ、無理なんだろ。所詮、俺なんかじゃ現地妻にもなれやしねぇっつの。
 でも、利佳のかわりでもなんでもよかったのに。

 そんくらい好きになれたひとなんて、はじめてだったのに。

「もう、会う機会なんてねーもんなぁ……」
 健悟ん中で綺麗なまんま終わって、東京行ってたまにでも思い出してくれればそれがベストだったのに。
 生きてりゃ二度と逢えないわけじゃねえのに、電話でもメールでも、たまに構ってくれれば、それだけで嬉しいって思えるのに。
 なのに、なに必死になってんの?
 叶いもしないって分かってたのに、なに必死になってんだよ、おれ。
 バッカだなー、マジで。
「あああー、だっせー……ははっ」
 ぽとって落ちた涙が、また地面に吸収されていく。こんなに泣いたのなんていつ以来だろうと思っても記憶に無くて、もしかして、こんなに泣いてるのなんて初めてなんじゃないか、と思った。
 たかが恋愛なんかで泣くなんて、そんなの嘘だと思ってたのに。
 なにハマっちゃってんの、って馬鹿にして、他人事だと思ってたのに。
 なんだよ、こんなに苦しいのかよ。

 知らねえよ、ふざけんなよ、馬鹿健悟。




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あきゅろす。
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