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 キキーーーッ!!!!



 辺りに響き渡った轟音、烈しいブレーキによって斜めに停車した車、煙さえもが立ち込めそうなその奥に、蓮を庇うようにして丸まっている男がひとり。
「―――……、っぶ、ねえっ……」
 搾り出すように空気に染み込んだのは低すぎる男の声、信号無視で突っ込んできた車を睨むよりも先に、手中にいる小さな子供だけに眼を配る。
「―――おいっっ!!!」
 舞台に立つ時よりも格段に大きな声、掠れた声を、眼を閉じている子供に焦りが募って呼び掛けるけれど、それに返って来る言葉も、動作も、ぱちりと開く目元さえ……存在しなかった。
「―――――」
 ヒュッ、と息を飲んだのは焦りから、マジかよ、と言いたい言葉すら声にはならず、急いで小さな胸元に耳を寄せる。
「っ、」
 そして、―――……トクン、トクン、トクン。
「――――……」
 小さくともしっかりと機能している心音を聞いては、情けなくも、安心するかのように腰を抜かしてしまっていた。
「、……っくりした、マジで……」
 気絶しているだけだろうか、自分が抱えて飛び込んだのだから、どこも怪我なんてしていない、打ち身一つすらないはずだけれども。蓮の身体をなるべく動かさないようにしながら全身を確認すると、所々に付着している血痕に驚いたけれど、それが自分のものだと気付いた時には酷く安心することができた。
 気を失っているように眠っている蓮を抱きしめると、体中に拡がる安堵感、蓮を護りながら肩からコンクリートに突っ込んだせいで肩は血だらけだけれども、商売道具に傷が付かなかったのはラッキーだった。
「…………はぁー……」
 溜息を吐いたのは安堵から、その証拠に、視界に映る赤が誇らしく、一生消えなければ良いとすら思ってしまった。
 だってこれは、確かに此処に、蓮が居た証拠だから。勲章のような傷痕はジンジンと痛みを訴えるけれど、精神がそれをも凌駕しているのか不思議と気にすることもなく、目の前で眼を閉じる塊が愛しくて仕方がない。そして、よかった、ともう一度呟いて蓮を抱きしめたとき、ようやく利佳が側に居たことに気が付いた。
「―――……大丈夫、こいつのじゃないよ、俺のだから」
 己の肩を指差しながら、血を見て青ざめている利佳にそう言うと、安堵するどころか逆上するように怒られてしまった。そんな利佳を無視するように唱える呪文は、蓮の血ではない、俺のもの、ただそれだけだ。
 繰り返すほどに少しずつ落ち着きが出て来る。手中にある蓮の身体をゆっくりと確認して、何度も何度も、傷ひとつついていない事実に安堵した。
 頭を打ったかどうかは分からないけれど、本当にただ気絶しているだけのようだ、小さな唇からすうすうと寝息が聞こえて来ることで些か落ち着くことができる。
 随分と気が動転している利佳を見れば逆に落ち着きを取り戻すことができてきた、気絶しているらしい蓮に異常がないかを調べることが先決、とにかく親と救急車、警察をよべと指示すると、その瞬間、バタン、蓮を轢きかけたらしい人物は逃げもせずにおろおろと車から出て来た。
 その外見をパチリ、すぐに写メったのは去年出たドラマの浅知恵だった。こんなときはどうしたら、と回らない頭で必死に考えることしかできなかったからだ。
「……保険証と免許証、出して。……ここに名前と住所と電話番号、車のナンバー書けよ」
 鞄から取り出したメモ帳の最後の一ページ、乱暴にペンを投げた瞬間は肩が痛んだけれど、気にしない演技なら慣れている、……大丈夫だ、痛くなんてない。
「、なんでそんな冷静なの……」
「……冷静じゃねえよ、全然」
 脅えているような利佳をそう突き放しながら、手中にある頬に触れると、赤みがさすような温かさが浮いていてひどく安心した、大丈夫だ、大丈夫。そうほっとした瞬間、腕の中のそれが酷く脆いものに思えて、焦燥と恐怖からぎゅうと抱きしめる。
「―――ッ、」
 ……冷静なわけがない、冷静になれるはずがない、あと一歩間違えば、あと一瞬でも踏み出すタイミングが遅ければ、その瞬間を想像するだけで肝が冷えては背が震えた。過ぎてしまったたった一瞬の出来事、たかがそれだけで、誰かの人生を変えてしまうことになるなんて。
 とくん、とくん、揺れる心臓の音は自分のものか、蓮のものか、激昂している頭では考えることすらできず、判断が鈍っている自覚はある。

 ―――だからかもしれない、こんなことを、思ってしまうのは。

「…………蓮、いま、俺がいなきゃ死んでたよな」
 
 ぽつり、利佳にすら聞こえるかどうか定かではないような小さな声を漏らすと、すっかり気が弱くなっているらしい少女からは同意と感謝、そして謝罪の三種類の言葉が繰り返された。
 ―――あたりまえじゃん!
 ―――ありがとう。
 ―――……ごめんなさい。
 まるで懺悔するかのようなか細い声が今では静かになった道路に落ちていく、手中の蓮だけを見つめていたからこそ、ぽろぽろと利佳の頬に涙の道が創られていく瞬間を健悟が捉えることはできなかったけれど、小さな嗚咽と、夜道でも猶色濃くなるコンクリートは確認できた。
 安堵するように咽び泣く声、嗚咽が一度、また一度、聞こえる度に、恐怖が伝染するかのように蓮を抱きしめた。

 いま、俺が居なかったら……、蓮は―――。

「…………じゃあ、くれない?」
 
 そう思った瞬間、心中で思うよりも先に、つい、口に出してしまっていた。
「、…………は?」
 ぽろり、利佳の頬に涙が流れたのを横目で確認できたけれど、利佳は聞こえなかったとでも言いたげに眼を見開いている。

「蓮。」
 
 だからこそ、はっきりと。

「―――……俺が、護ったんだよ」

 ぐにゃりと顔が歪んでしまうのは演技なんかでは決してない、強く強く、力の儘に抱きしめて真っ黒な髪の毛に顔を埋めれば、子供特有の優しい香りがした。
 すうすうとゆっくり聞こえる吐息を耳元で感じながら繰り返せば、利佳はその場から動けないとでもいうように、硬直したまま一指たりとも動かすことは無かった。

「……ちょうだい?」

 そして、もう一度、小さすぎる塊をぎゅうっと抱きしめる。折れそうに細い肩、消えるかもしれないと本気で思った体温、血生臭い臭いはこの子に相応しくない、利佳が居なければこのまま持ち帰って、自分が様子を見たかったと本気で思う。
 交通事故よりも質の悪いだろう誘拐犯の予備軍になっている自覚は十分にあって、あるからこそ、利佳は何も言わなかったのだと思う。ただただ唖然として、言葉すらも発さなかった。
 なにを言っている、なにが起きている、そうして現実を疑いつつも、突然脳内に入ってきた情報が多過ぎて処理しきれていないようだった。
 離さない、そう言わんばかりの健悟の行動、救急車が来て搬送されるまで、搬送されてもなお、端から見れば重傷患者が怪我も無い子供に付き添う様はどう映っていたのだろうか。そんなことをふと気にしたのは利佳だけで、真っ赤な肩の持ち主は、一言も言葉を発さず、ただ蓮の手をぎゅうと握り締めていた。
 大丈夫ですよ、と救急隊員が目許を綻ばせる、それだけで利佳の背中は深く沈み、幾分か安心することができた。
 ……ただ、健悟だけは、その言葉すらも信じないとでもいうように、ずっと小さな塊を見つめ続けていたけれど。
「…………ねえ」
「…………」
 その証拠に、利佳が話しかけたところで返答もない。
「……ちょっと!」
「……、……ああ、なに?」
 チッと舌打ちをしながら利佳が腕を掴めば、怪我をした方の肩でもないというのに邪険にするような瞳で射抜かれた。
 ぐ、と息を飲んでしまったのは一瞬、先程よりは幾分か冷静な瞳をしていた上に、万が一の可能性を危惧して、警告しなければならないという使命感があったからだ。
「なにって……、あんた、髪……」
「? …………ああ、」
 忘れてた、と溜息ひとつ、たったそれだけの後で、ぶっきらぼうに鞄から鬘を取り出しては見目も気にすることなく頭に被せた。
 周囲を警戒しなければならないだろう芸能人のはずなのに、まるでそんなことはどうでもいいような、それよりも蓮を優先するような、蓮が大事だと言わんばかりの態度に驚くことしかできない。後ろ髪から銀のそれが見えているのに、そんな場合ではないとでも言うように、黙に徹してはずっと蓮を見つめ続けていた。
「…………」
 ただの二度程逢っただけ、二人の関係なんてそれだけだ。
 たかがそれだけでこんなにも命を張る理由なんて、ないはずなのに。
「……いみ、わかんない……」
 なんでよ、と、ぽつり、サイレンの中に紛れた利佳の小さな声は、健悟に届くことはなかった。
 まるでそこには二人しかいないかのように、蓮しか視界に入らないように、痛みも忘れて見つめている表情が余りにも現実と掛け離れていて、ただの一言も声を発することはできなくなってしまったからだ。
 病院に着いてからでさえ、どう見ても重傷な健悟が搬送されるのではなく、蓮に付き添っている姿は可笑しいとしか言いようもなく、健悟を蓮と離れて治療させることすら苦労した。
 目に見える執着に声を発することすら忘れた利佳は、ただその姿を見つめては、どこか弟が遠いところにいってしまうかのような、一人取り残されたような、深い感傷の渦の中にいた。
「……ッ、」
 ……ちょうだい、なんて。
 傍から見れば信じられない言葉を発した健悟だったけれど、決して冗談を言っていたわけではないとは分かっていた。真剣な瞳に囚われて、言い返すどころか瞳を逸らすことすらできなかった。鳥肌ばかりが身体を焼いて、ぴくりとも動けなかった。その瞳から逃げることができたのは自分の意志ではない、健悟の興味が、蓮へと、蓮だけへと移って行ったからだ。
「……、…くっそ……ムカつく………」
 その眼力に負けた自分が悔しくて、大切な弟を渡せるはずがないと言い切れなかった自分が情けなくて、真っ白な待合室でひとり涙を流した出来事は、きっと誰にも知られることはないのだろう。



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