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「――……っっ!!」
 鈍い音が空気を震わせた瞬間、息遣いすらも届いていた距離は突如にして離れていった。
 健悟に押さえつけられていなかった右脚を使って、内臓に容赦ない膝蹴りを食らわせてやったからだ。眉を顰めながらも一瞬だけ隙を見せたその瞬間に、今度は脚を振り上げて、踵を腰に落とす。白い歯を食いしばって痛そうに歪む健悟の表情は確かに俺の良心を抉ったけれど、こっちにだって、それ以上に抉られたものがある。
「……力無くたって、喧嘩はできんだよ!」
 痛がっている健悟の下から急いで脱出して、ベッドから逃げようと梯子に手を掛ける。しかし、その瞬間、精一杯とでもいうように震える手が手首を弱々しく掴んできた。
「っ、」
「さわんな!!」
 先程頬を荒々しく掴んでいた手と本当に同じ手なのかと疑うほどに、弱々しい素振りだった。
 腰への攻撃は余程ダメージが大きかったらしい、顔を歪めながらも苦しそうな表情をする健悟に、余計に罪悪感が募る結果となってしまった。
 だから、なんでだよ。
 そんな顔で、俺を見るなよ。
「……ざっけんじゃねぇよ……ふざけんなっ!!」
 泣きそうな健悟の表情を見て、自分の感情のコントロールが一切効かなくなりそうだった。腹の底から湧いてくる感情が怒りなのか悲しみなのか、その区別すらつかないほどに激昂していた。だって、なんで、なんでこんなことするんだよ。
 恐いとか逃げたいとか、そうじゃない、こうして触れてもらえばそれだけで嬉しい。健悟なら、なんでもうれしいに決まってる。
 だけど、ただの口封じとか同情だとか、これ以上騙しとおすとか、もう分かんない。考えすぎてわかんねえよ。健悟の感情が伴わない行為が、何よりも惨めで仕方が無い。

 相手の感情が見えないってだけで、こんなにも不安で泣けて来る。

「さいあく……マジ、最悪……」
 無理矢理塞がれた唇を帳消しににするように手の甲で擦れば、健悟はあたかも傷ついたとでもいうような表情を浮かべて目を逸らした。
 なんだよ、それ。
 健悟にだって、言いたいことは沢山あるはずなのに。俺にいうべきことだって、沢山あるはずなのに。なのに、なにも教えてくれないじゃん、何の言葉もくれないじゃん。
 話し合おうって言ったのはおまえなのに。肝心なこと、何も教えてくれない。
 友達との喧嘩って、こんなにめんどくさかったっけ。こんなに気まずかったっけ。

 こんな関係、おかしいだろ。

「……おれはっ、」
 今まで護っていたギリギリの気持ちを踏み躙られた気がして、頭で考えるよりも先に唇が開いた。少し震える声に首を振って、背骨を震わせながら無理矢理に搾り出す。
「お、おれは……ずっと、ずっと……おまえんなかに、ちょっとでもおれが居れば良いって、そう思ってたのに、」
「……え?」
 口を開けばいくらでも弱音が出てきそうな気がして、ぼそぼそと呟くだけの声になってしまった。
 口元を手の甲で押さえながら言ったのに、押さえる場所は目元だったらしい、どんどんと視界が歪んでくる。薄い膜が張って来て、熱くなる目頭を抑える術は知らなかった。
 俺の小さな声に反応した健悟が顔を上げるけれど、この情けない顔を見られないよう、その視線から逃げるように背を向ける。
「……けど、もう良い」
「っ、」
「もう良い、知らねぇ、知るか」
 枕元に置きっぱなしだった携帯電話をポケットに入れると、その仕草に行動を悟った健悟が再び腕を捕らえてきた。
「ごめ、ん、蓮、ごめんっ……、」
「さわんじゃねえっ」
 健悟から伸びた手には今度こそとでも云うようにぎゅっと力が込められていたけれど、変わらずに振り払う。少しでも顔を見れば情けなくも泣いてしまいそうで、健悟に背を向けたまま必死に低い声をつくった。
 梯子を握りながら自分の部屋を見下ろすと、また机の上にある香水に目がいってしまった。たまたま視界に入っただけなのに、それは潤んだ視界に負けて既に歪みを帯びている。

 あのとき、一緒に遊びに行ったときは、こんな邪魔な感情なんてなかったのに。
 健悟の誕生日なのに当ても無く買い物して、ゲームして、メシ食って。高い指輪なんかもあっさり買ってくれたりなんかして、こんなにすごい奴が友達なんだって、すごく誇らしかった。
 なにも考えないで、すごく楽しかったのに。
 このままずっと友達で居れるんだって、確証も無い信頼があったのに。

 あのままでいたかった、あのままが良かった。
 やっぱり、気付かないままで居るんだった。

 こんなの、分かんないほうが良かった。

「でも、蓮、お願いだから、ちゃんと一から説明――」
 ベッドがギシリと音を立てる。動いたのは俺じゃない。腰も腹も痛いはずなのに、健悟はそれを責めることもなく再び起き上がってきた。
「……なんで、」
「え?」
 くるりと振り向けば視界に健悟が入ってきて、やっぱり目頭の奥がじんじんと痛む。
「なんで、謝る癖に、こういうこと……、んな、冷静にできんだよ……、……ふざけんなっ!!」
 枕を引っ張って健悟に投げ付けると、避ける素振りすら見せなかった健悟に直撃して、ごめん、と一言だけ投下された。
 ごめんって、なんだよ。
「……俺が、こういうの嫌いだって、おまえ知ってるよな」
「……っ、」
 自嘲気味に笑えば、ぽとり、と涙が落ちて、今度こそバレてしまった。
 だって、前に喧嘩した時だって、おまえがいきなりこんなことしてきたからだったじゃん。罰ゲームにキスとかしてきて、おれは、そういうのが嫌だって、前にも言ってたじゃん。
 こんな、感情の篭もってないキスなんかされても、虚しいだけだろ。
「最悪だよ。俺が、どんな思いで……何も、知らねぇくせに……」
 頬を落ちるくすぐったい感触をぐいっと拭えば、弱音を吐き続ける自分が更に嫌になる。
 勝手に好きになったのはおれなのに、理不尽な怒りばかりが湧いてきて、感情のコントロールが上手くできそうになかった。
 
 だって、健悟なんて。
 何も知らないくせに。
 おまえの一挙手一投足に躍らされてる俺のことなんて、何も分かってないくせに。

 ……こんなにおまえのことがすきだって、なんも、しらないくせに。

 それなのに、こんなことするなんて――卑怯だ。

「…………おまえの家は、此処じゃないんだろ」
「、え?」
 あの日聞いた事実をぽつりと呟けば、恍けているのか本気なのか区別のつかない声が返ってきた。
 下唇を噛み締めて思い出すのは、忘れもしないあのときのことだ。
 だって、あのとき――……。

『――それで。どうするの、蓮は』
『それなら大丈夫だよ。言ってたし、蓮。前ほど東京行きたくなくなったって』
『そう、良かった』
『やっぱり健悟に任せて正解だったんじゃん? これから受験だっつーのに、また東京になんて家出されたらたまったもんじゃないっての。あんたは? 撮影終わったらもうあっち戻んの?』
『そりゃそうだろ。俺の家東京なんだから。』
『蓮はいいの?』
『良いも何も質問の意味がわかんねぇよ』

「っ、」
 盗み聞いた光景を思い出して、また胸が痛んだ。ツキリなんて生易しいものじゃない、ズキンって、今まで感じたことの無い痛みが通る。

 ――俺のことを聞かれて、どうでもいいみたいに言った。質問の意味がわかんないって、そう言ってた。
 
 思い出せば思い出すだけ胃がむかむかして仕方が無い。
 一緒に展望台に登った後だったのに。あの時おれが言った言葉なんか、結局は健悟に届いてなかったんだ。
 おまえの家は此処だって、そう言ったくせに。
 おまえの隣は空いてるって、おれのものだって、そう言ったくせに。
 なのに、健悟の隣は利佳のもの、健悟の家はここじゃない、特別だって、きっと――俺じゃない。
「……もうおまえ、わけわかんねぇよ」
 意識をせずとも、勝手に口から零れて行くことが止められない。

 どうでも良い会話ばっかり、なんでもかんでも憶えてるくせに。
 なのに、肝心なことなんてなんにも憶えてないんだろ。
 所詮田舎のガキとの口約束なんて、その場限りだとでも思ってたのかよ。

 そう思った瞬間に今までの健悟とのやり取りがまるで意味の無いことのようにすら思えてきた。
 ずっと一緒だなんて厚かましいことは思ってなかった、けど、どこに居てもそのうちまた逢えるって、逢いたいって、そう思える位には信頼してたのに。

 信じてたのに。

「……東京でもなんでも、勝手に帰れば良いだろっ!!」

 おまえの家は此処じゃない。
 おまえの隣も俺じゃない。
 じゃあ俺は、おまえの何を信じて、おまえの何を見ればいいんだ。
 何を好きになったんだ、なんでこんな好きになってんだ。

 頭が真っ白になって何も分からなくなった瞬間に、健悟から伸びてきた手も払って、ベッドから飛び降りていた。
 後ろからは至極久しぶりに自分の名前が呼ばれる声を聞いた気がしたけれど、甘く優しい声なんて程遠い、まるでテレビから聞こえているかのように他人行儀な叫び声に似ていた。
 利佳からの静止の声も聞こえず、扉を閉める余裕すら無く家を飛び出した。
 田舎の夜に街灯なんて存在しない。外に出て闇雲に走ってしまえば、追って来れる者も居ない。だからこそただ無闇に、頬に冷たい感触が落ちることにも見ない振りをして、ただただ走り続けた。



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あきゅろす。
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