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 どこを見ているのか分からないぼうっとした表情から変化したのは一瞬、何かが壊れたかのようにふっと笑みを浮かべてから、健悟が動きを見せる。
「…………」
「っ、!」
 蓮の肩と腕を押さえつけたままに健悟が頭を下げれば、一直線に蓮の鎖骨に辿り付いた。
 そしてそのまま、何を思ったか、浮き出た鎖骨にがぶりと犬歯を当てられる。
「ってえ!!」
 ――なにしてんだ、こいつ……!
 わざと強調するように覗かせた白い歯は、加減もせずに鎖骨にガリガリと噛み付いてきた。子供の頃に犬に噛まれた時以上の痛みが左の鎖骨に走り、一瞬にしてパニックに陥りそうになってしまった。
「ったい、いたい! やめろよっ、これ以上やったら声――」
 ――声出して、利佳呼ぶぞ!
 そう言いたかったのに、顔の下半分を大きな掌で押さえつけられて、全てを口にすることは出来なかった。
 健悟に押さえつけられていた左腕の拘束が解けたと思ったら、今度は顔を枕に沈まされた。辛うじて鼻から呼吸はできるものの、熱い掌に覆われてくらりと酔ってしまいそうな状況に陥ってしまう。御蔭で自由になった左手で満身の力を込めて健悟の背中を殴るけれど、反応すら見せず、痛くないとでも言うように呟かれた。
「やだ。もういい。なんも言わないで」
 けれど、健悟から紡がれた言葉はただの我侭でしかない。
 さっきまではあんなに恐かったのに、今はまるで子供のような瞳で上から見下ろしてくる。
 此方の言葉は聞きたくも無いというように手で押さえつけて、再び首筋に攻撃を仕掛けてきた健悟に、今度は手を拳に変えて健悟の背中に振り落とした。
「……いったー……」
 顔を歪めて、一瞬だけ力を失った健悟に隙が生まれる。その間に顔にあった健悟の手を外して、今にも浮かんできそうな涙を無視しながら、口を開いた。
「っ、さっき! 何でも言えっつったの、おめぇだろ!」
 さっきは、なんでも言えって言ったくせに。
 今は何も言うななんて、全く正反対のことを言われた。矛盾してる。力如きで押さえつけて、何がしたいんだよ。
 さっきから押さえつけられるし、息出来ないし、噛まれるし、俺の方が痛いに決まってる。
「てめぇっマジふざけ――」

 ――ふざけんな!!
 そう、叫ぼうと思っただけなのに。

「――!!」

 右肩をギリギリと押さえつけてくる手はそのままに、再び左手を拘束された。いっそ利佳を呼んで、ぜんぶぜんぶ終わらせてやろうかと、一瞬そう思っていた。
 それなのに。

「……っ、……!!」
 喋れない。
 息が出来ない。
 苦しい、苦しい、苦しいって!
「…………ちょ、……!」
 まるで空気を奪うように、乱暴に口を塞がれた。
 唇を合わせたのは奇しくもこれで五回目だ。それなのに、キスなんて呼ぶには相応しくない、ただ口止めに押さえつけられているような、痛みしか伴わないキスだった。
「っ、……んんっ!」
 首を振って避けようとすれば、健悟は両腕の拘束を解いて、今度は両頬を掴んできた。俺の身体全体に圧し掛かられて、自分よりもでかい身体に両腕で攻撃を仕掛ける。痛いはずなのに、ボカボカ殴って、絶対痛いはずなのに、健悟はその攻撃をすべて無視するように、口唇だけを襲ってきた。
 何秒も、何十秒もキスをされて、慣れないからこそ息継ぎの仕方が分からない。段々と頭がぼうっとしてきて、振り払いたいのに力が入らなくなってきた。
 いたい。
 だって、くちが、ひりひりする、じんじんする。
「ぅあっ、」
 そう思ったら今度はぬるりとした感触が走ってきた。これは何だと頭の隅で考えたのはたったの二秒、すぐに健悟の舌が入ってきたんだと分かって、顔を振って拒否を示す。
「……っ、あ、…っ、…だ、って……!」
 やだって、やめろって、言ってるのに、言いたいのに、言葉にならない。紡げない。視界が潤んで来るばかりで、なにも、状況が何も変化しない。
 拒否の意を示す為に口を開いたはずなのに、その合間を縫って初めて聞く濡れた音が耳に届いた。
 いままでなんかとは、断然違う。
 一瞬触れた戯れのキスなんかとは、全然違う。
 目の前にずっとずっと健悟の顔があって、ぎゅっと目を瞑っても健悟の感触があって、匂いがして、熱さがあって、口の中がぬるぬるする。
 頬の肉が削げるのではないかと疑うほど強く両頬を掴まれて、目の前の息遣いを聞きながら死にそうになるくらい心臓が痛んだ。
 顎に垂れた涎すら厚い舌でべろりと掬われて、歯から咥内の頬肉から、ぜんぶ、ぜんぶぜんぶ、喉の奥まで舐められそうになって噎せ込んだ。息をしたいのに、できないのに、噎せ込んでるのに、それでもやめてくれない。
「……っ、げほっ、ぅっ、……んんっ!」
 なにこれ、こんなの、知らないって、やだって、いやだ!
 しぬ、マジで、死ぬ!
 やだ、やだっ!
 なんでこんなことすんだよ、当て付けか? ただの口封じで、これ? それとも、おれの気持ち知って、それで、……これ?

 ――……ふざけんなっ!!!





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