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「……、……え?」
 数秒遅れてから、小さな声が頭上を通り過ぎる。
 蓮の声が小さすぎて聞き取れなかったという意味の疑問なのか、意味を量った上での疑問なのかの判断はつかない。けれども、俳優にあるまじき小さな声は何を言っているのか分からないと伝えているようで、段々と、一人で空回りしている自分が空しく、情けなくなってきたことは確かだった。
「…………」
「…………」
 数十秒もの間、空気が凍った。待てども落ちるのは重い沈黙のみで、健悟から次の言葉が落とされる事は無かったからだ。
 顔も上げられなかった。
 こんなの、訝しむような視線を感じるのが恐くて、ただ、逃げていているだけだ。
 だから、掻き消すように、一言。
「……うそだよ、ばぁか」
 無理矢理にでも口を開け、少しでも口角を上げれば、さっきの台詞も消えて、冗談だって済ませてくれるに違いない。
 俺が健悟から離れたらどうする、なんて。馬鹿だ。馬鹿すぎた。考えてみれば、俺からしたら重大事項だけれど、健悟にとっても同じように扱われているものではないのに。
「どうもしねぇよな、健悟から俺が消えたくらいじゃあ」
 利佳がいる。仕事もある。見たことないくらい沢山の、健悟を応援してくれる人がいる。
 無数に関わる人の中で、たかが俺一人、少し消えたくらいで健悟にとっては何のダメージもないだろうに。
 自分の状況だけを考えて、未だに着信の残るハートマークを思い出して、少し調子に乗ってしまったことに対する後悔が後から後から湧いて来る。
「あー、はっずかしー。今のウソね、忘れて」
 だから、自虐的に笑みを浮かべながら、誤魔化すようにうなじを拭った。
 冗談にして終わらせて、明日になったらまた武人の家に行こうと、そう思った。
「……なに、言ってんの?」
 ぽそりと紡がれた一言にも無視を決めて、先ほど健悟が放り投げたタオルケットを取り戻す。
「あー、つかおまえ明日も仕事っしょ、寝ろって」
 毎日使っていたものとは違う絵柄に落ち着かないながらも、それを握り締めて、健悟に出て行くように促した。

 ――しかし。

「……ねえって。何言ってるか分かってんの?」

 予想外に色を変えた瞳に見つめられて、びくりと、体が揺れてしまった事実は否めない。
 目を合わせれば、静かな焔を灯す灰色の瞳がある。下に行けと促しても微塵も動かない健悟の身体は、話はまだ終わってないと言っているようだった。
 普通ならば怒っている姿を見て、恐いと、そう思うはずなのに。恐いと思う以上に、俺なんかの言葉に動揺する姿が珍しくて、愛しくて、少しだけ笑みが漏れてしまうことは、可笑しいのだろうか。
「わかんねぇ筈ねぇじゃん、おれが言ってんだから。……おまえこそ何動揺してんだよ」
 口角を上げて答えれば、自分が思っている以上に余裕のある笑みになっているような気がした。
「冗談だっつってんだろ」
 はっと鼻で笑ってから、タオルケットを腹に掛けて横になる。健悟に背を向け壁に呟くように吐き捨てれば、もう健悟の情報は一切入って来なくなった。これ以上抉られる前に、自分から逃げただけの話だけれど。
 健悟が話は終わっていないと思っても、こっちが聞かなければ終了する他ない。これ以上話して、余計な事は言いたくないからだ。

「じゃ、おやす――」

 だから、そう、言ったのに。

「、わっ、!」
 なのに、おやすみ、というたった四文字すら紡ぐことはできなかった。
 先程同様、健悟に腕を引かれ、無理矢理に方向を変えられたからだ。
 タオルケットを取られて、方向を変えられる。
 そこまでは一緒だ、数分前と。
「ってぇ……!」
 けれど、何かが違う。
 先程はタオルケットを引かれ、驚いたというそれだけのことだった。

 けれど、今は。

「おまっ、ちょ、いってえって……!」
「…………」
 本気の力で右肩を掴まれて、振り払おうとした左腕を押さえつけられている。
 太腿の真横に健悟の膝が当たっている感触がするのは気のせいではなくて、電気が点いている筈なのに視界が暗い。
 肩に掛かる腕からは容赦無く重みを与えられていて、今までにない、冗談で振り払える限度を越えていた。ギリギリと押さえつけられるような痛みに顔を顰めるけれど、真上にある顔が変化しないことには、鳥肌を立たせることしかできなかった。

「――何言ってんの? おまえだれ? 本当に、レン?」

「っ、」
 彫刻のような顔に見下ろされ、抑揚の無い声で凄まれる。
 お前こそ誰だと聞きたくなるような冷めた瞳に睨まれ、徐々に健悟の腕に力が込められていく。肩に手跡が付いていそうなほどに、痛い。
 完全にマウントポジションを取られたのは油断と信頼があったからだけれど、これは、この痛さは、冗談の限度を越えている。
「、……けんご、なぁっ――」

 ――離せ。

 そう言おうとした言葉すら阻まれ、聞きたくないというように言葉を上乗せされていく。

「関係ない、泣いてない、こっち来んな。……今日おまえの口から聞いたの、そればっかりなんだけど」

 温度の無い目は焦点が合っているのかも分からない、不利な位置に居る自分を見下ろしてきて、つい怯えの言葉をあげてしまいそうになった。
 だって、こわい。ちがう。こんなの、健悟じゃない。
 こんなの、あのときと同じ――いや、あのとき以上に、恐い。
 ごめんと謝れば、引いてくれるのだろうか。

 冗談だって、言ったのに。

「――その上離れるって何。蓮が? 俺から?」

 焦点の合わない眼は、一瞬たりとも隙を与えず逃がす余裕を与えてくれない。
 ギリギリとしめ付けられた腕が、千切れそうなまでに痛かった。




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