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「っ、」
 羽生家の上映会から帰ったときに垣間見た、真嶋健悟が放つ憤怒の色。遭遇するのは二回目だ。
 怒ってる。怒るに決まってる、碌な説明も弁明もせずに勝手に逃げていたのだから。
 一歩後ずさりをすると先程手を掛けていた窓枠に腰を打ってしまい、これ以上戻れないことを知る。ずんずんと勇ましく歩んできた健悟からは細められた視線を送られ、そして、ゆっくりと赤い唇が動いた。
「――どこ行ってたの?」
「…………」
 灰色の双眸に自分の顔が映っているのに、相手が本当に自分を見ているのかは分からない。焦点が定っていないような視線を向けられ、数秒間何も答えることが出来なかった。
 それでも此方の返答を待ち続けるかのような無言が痛くて、突き刺すような視線を浴びながら、ゆっくりと口を開く。
「……友達んとこだよ。……べつに、夏休みだし」
「じゃあ、なんで電話出ないの」
「忘れてたんだよ、遊んでたらほっといちゃってたの、」
 語尾が震えた。
 責められる謂れはあっても、こんなに追求してくる健悟は初めてだ。
 間髪入れずの質問も、睨むような視線も、なにもかもが居心地悪い。ふざけあっていた今までが懐かしすぎて、なんだか無性に泣きたくなってしまった。
 だって、たしかに健悟に嫌われれば楽になると思ったし、離れればきっと感情そのものがなくなると思った。
 だけど、でも。
「……なんで、泣いてんの」
「泣いて、ねぇよ」
 たかが少し怒っただけ、距離がうっすら離れただけ、探るように疑われているというただそれだけで、堪えきれず視界がぐにゃりと歪んでしまう。
 意志の弱さが嫌になる。そう思いながらぼやける視界を誤魔化すようにぐいっと拭った途端、突然、聞き慣れた音がした。唇を噛み締め眉間に皺を寄せている間にも淡々と流れる一節。震える携帯電話に己の肩も揺れ、部屋一体が例の曲に包まれていた。
 こんなときにだれだ、と歪む視界の中で慌てて携帯を覗き込む。けれど、表示されていたのは他でもない、たった一つの絵文字だった。
 意図が分からず顔を上げれば、すっと眼を細めた健悟が一直線に揺れる携帯電話を見据えている。
「――ねぇ。答えてよ」
 一瞬目が伏せられてから、鋭い眼光に襲われた。
「……だったらなんで律儀にマナーなんか解除して、んな顔してんの?」
 バチッ。絡んだ視線に閃光が走ったと錯覚するほどに、強い意志が見える。
 揺れる携帯電話を健悟が取り上げ、ブチッと声が止めば、再び部屋は静寂に支配された。すうっと健悟が息を吸った音すら届き、蓮の手中に再び携帯電話を握り締めさせると、途端、荒げた口調が飛んでくる。

「ケータイ握り締めて泣きそうな顔して、あんた何やってんのって、訊いてるんだよ」

 びくりと大袈裟に腹筋が揺れたのは、二十センチも上から訝しむ視線を送られたからなのか、怒りで震える口調に身の危険を感じたからなのかの判断はできない。
「…………」
 ただ、理由を述べることができずに黙に徹していると、また数秒の沈黙が空間を支配する。
 下の階からは場違いな利佳の笑い声が聞こえて、蓮は舌打ちしてやりたい衝動を必死に抑え付けていた。
 そして外から蝉の音が三回、ミンミンミンとゆっくりと木霊した後、目の前からは、腹の底から吐き出したような溜息が部屋に響く。
「……んだよ。……誰に何されたか、とか……、もう、言えないわけ?」
「…………」
 あのときは、と続けそうになる言葉を健悟はぐっと嚥下した。
 あのとき、いまのように蓮が泣いていたのは、紛れも無い自分の誕生日の前日。自分のためだけに濡れた枕が愛しくて、その涙を目玉ごと舐め取りたいほどの欲望を必死に堪えていたことは記憶に新しい。
 それがいまは、揺れる黒目の真意すら分からない。
 訳も分からぬままに避けられて、姿を見ることすら憚れる。
 半ば無理矢理に問い質しても明確な答えすら返って来ない今は、どう話を進めれば良いのか分からず、ぐっと口端を結ぶことしかできなかった。七つも年下の一挙手一投足に翻弄され、言い包めるだけの巧い台詞が出て来ない自分に嫌気が差す。
 余裕が、無さすぎる。
 そして一方では赤心を届けることはできない蓮が、遣る瀬無い気持ちでその健悟の表情を捉えていた。まるで、展望台の時のようだと思いながら。正反対だけれど、あのときと同じことだ。泣きそうなまでにくしゃりと顔を崩して笑う健悟、あれと同じ。きっとこの疑心と哀心を併せ持つ表情は、どんな作品にも見せることのない、ファンには届くことのない、心からの表情なんだろう。
 
 ……誰に何されたとか、そんなん、言えねぇよ。言えるはずないだろ。おまえのことだろ。
 ――いちばん隠さなきゃなんない相手に、んなこと、言えっかよ。

「……つか、なに勘違いしてんのかわかんねぇけど、べつに、誰にも……俺は誰にもなんにもされてねぇし、泣いてもねぇっつの」 
 いまにもあげそうな奇声をぐっと飲み込んで、蓮は健悟を見据えた。
 しかし、次の瞬間、健悟の長い指が己に近付いてくるのが見えて、反射的に軽く背を仰け反らせてしまった。もう後ろに下がるスペースなどは存在しないと分かっているのに、それでも感情のままに踵が反応した。
 目上にある灰色の双眸にはいつもの余裕の色が消え、どこか据わったように見える熱情がある。それでも、憤慨しているかのような表情をこうして冷静に直視できているのは、自分が自分ではないような、どこか第三者のように映っているからなのかもしれない。
 後のないスペースを逆手に健悟が蓮の腕を掴めば、二の次を告げずに振り払われる。
「……んだよ、さわんな」
「なにじゃない」
「、うわっ」
 けれども、振り払われたことに屈さず健悟が再度腕を引っ張れば、蓮の身体のバランスが崩れて少しだけ前に傾いてきた。

「俺の質問に一つも答えてない。どこ行って、なんで無視して、なんで泣いてるか、本当のこと何もきいてない」

 健悟が目線を下げて蓮の顔を覗き込めば、口を真一文字に結んだ蓮からは不自然に視線を左に逸らされてしまった。
 まるで嘆願にも似た問いかけにすら答えることなく、部屋に落ちるのは再びの無言のみ。
「……誤魔化さないでよ」
 右手の人差し指を一本、蓮の頬に当て、自分の元へとその顔を戻す。ぷにっと柔らかい感触に思考が移ったのは一瞬、思った以上に至近距離で、気まずそうな視線が送られてきた。
 寄せられた眉はまるで今の距離そのものを物語っているかのようで、蓮のみでなく、今度は健悟の表情までもが歪みを見せる。心の奥底が、じわりと抉られていく感触があったからだ。拒否という選択肢が頭に浮かび、脳内で大きな警報音がする。
「……、……なんで、おまえが泣きそうなんだよ」
 だからこそ異常を悟り、白目を大きくした蓮が健悟に問うたのだが、今度はゆらり、灰色の双眸が震える番だった。
「んなの、おまえの、」
 ――……おまえの答えが恐いからだなんて、言えるかよ。
「…………っ、」

 ――彼女が出来た。

 利佳から教えられた微かな情報、たかがそんな一言で、蓮の中から居場所を失うのが、恐い。
 関係ないの一言で、突き放されるのが恐い。
 嫌いの一言で、道を閉ざされるのが恐い。

 おまえが恐いから、どうしようもできねぇんだろ。

 本当は。無理にでも詰め寄って本音吐かせて、おまえの本心を聞きたいよ。
 どろっどろに甘やかして、誤魔化して、自分のものにしてしまいたい。
 でも、当たって砕けて、おまえとの関係が無くなるなんて、んなこと、できるわけねえじゃん。
 嫌われるの覚悟なんて、んなの、やってられっかよ。

 言いたいけど、全部ぶちまけたいけど、でもそれ以上に、おまえのたった一言が、恐くて仕方ねえんだよ。





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あきゅろす。
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