29



* * *


 健悟が驚きに目を見開いたのはその翌日、朝からずっと台本の覚えなおしをしていた夕方、真っ赤に染まった台本を投げ捨てて気分転換に近くのコンビニまでと足を進めたときだった。
 健悟が辿るは昨日通ったばかりの道、つい二十時間ほど前に、真っ直ぐな瞳を従えた迷子の子どもに出逢った道だ。変なやつだったな、と本人を思い出し、良い家族だったな、と迎えに来た二人を思い出す。そして、そのまま公園を通り過ぎようとしたそのときだった。
「――――……」
 昨日と同じ背格好、昨日と同じリュックサック、昨日と同じ、――真っ黒な、髪の毛。
 きょろきょろと周りを見渡しながらゆっくり歩いている様子は付近に何かを探しているようだった、焦った様子もないそれは到底迷子には見えなかったけれど、明らかに、昨日と同じ子供だということだけは分かった。
 ―――……懲りねえな。
 最初に頭に浮かんだことはそんなこと、遠く離れた田舎とは違う危険が此処にはあることに、この小さな子どもは、あの迎えに来たふたりは知っているのだろうか。この辺のホテルなのか? 親とはぐれた? 親は何してんだよ目ぇ離して、マトモな人っぽかったのに。
 ……いや。親が悪いんじゃないだろうな、こいつが勝手に抜け出してきた気がする。
「……おい」
「―――」
 呆れながらも健悟が声を掛ければ、目の前の小さな肩がびくりと揺れて背筋を伸ばした。
 恐る恐る振り向いた顔といえばやはり昨日と同じ顔で、すべすべの肌に大きな黒目は田舎に住ませるのが勿体ないくらい、子役にさせないのが勿体ないくらいに可愛いらしい子ども。
「おっまえ、やっぱ昨日の……一人でなにしてんだよ」
 こら、とわざと怒ったように言うと、目の前の大きな黒目がまだ大きくなるのかというほどにつり上がり、勢いよく此方を指差してきた。
「あああっ!!」
「、!」
 突然人に指を差される経験は職業柄良くあるものの、普段され慣れた静かなそれではなく、堂々と指をさした蓮は足取り軽く健悟の方へと走ってくる。
 ぱあっと明るくなった表情は決して見間違いではなく、昨日あれだけ泣いていた目はすぐに冷やして貰ったのだろうか、腫れることなく透明感を残して健悟を見ていた。
「けぇごっ!」
 子どもらしい明るい表情で太腿付近に抱き着いて来たのは紛れもない昨日の子供、偶然なのかそうではないのか定かではない現実に、健悟は膝を折り同じ目線に立ち言葉を紡いでいく。
「だぁからケーゴじゃなくて、ケンゴだっつてんのに。言ってみ? け、ん、ご」
「けんごっ」
「よし」
 くしゃくしゃと目の前の黒髪を掻き混ぜれば楽しそうにくしゃっと顔を崩して、覚えたての名前を紡いでくる。
「けんご!」
「なによ」
 しゃがんで首を傾げた健悟の視線は蓮の少し下、何かを言いたげに少しだけ緊張しているらしい蓮の表情は険しく、それでも真っ直ぐとした視線を一身に健悟へと向けていた。
「あ、」
「あ?」
 言葉を出して、一回息を吸う。そんな不自然な動作を見た健悟は眉を顰めて蓮を見たけれど、蓮は吸った息をそのままに、大きな口を開けてはっきりと声にする。
「ありがとうございました!」
「……は?」
 こてん、健悟が横にした首に目聡く反応した蓮は、淀みない瞳を健悟へと向ける。
 ぷるぷると震えてしまいそうな薄い唇はぎゅっと噛み締められていて、そののちに、小さくごめんなさいと呟かれた。
「たすけてもらったら、ありがとうって言わなきゃダメなんだって」
 ……おれ、きのう、いえなかったから。
 そう、しゅんと俯いた蓮に呆れて健悟が口角を引き攣らせるも、当の本人は大真面目なのか鋭い目つきで健悟を制する。
「ありがとうって…………は、なに、それだけ?」
「それだけじゃねぇし、おかぁさんが言ってたしっ」
「おかあさんって……」
「だからっ、――ありがとうございましたっ!」
 ぺこり、頭を下げた子ども、目の前に見えるは真っ黒なつむじだけで、九十度きっかり腰を曲げた蓮は両掌をぴったりと膝につけていた。
 そして体勢はそのまま、顔だけを少しあげてきた蓮は所詮上目遣いというもので、大きな黒目が此方の反応を探るようにおどおどと見つめてくる。
「……も、怒ってない?」
「…………」
 その探るような視線と尖った唇に負け、こくん、と自然と頷くと、その瞬間蓮は背を戻して健悟にはできないようなにっこりと素直な微笑みを披露した。
「えらい?」
 にひひっと笑ったそれは天然そのもので、邪気の無いそれに健悟は圧倒されるかのように呆然としてしまった。
「――――……」

“ありがとうございましたっ!”

 たかが子供出来るような簡単な挨拶ひとつ、自分が口にした瞬間と言えば昨日彼と別れる瞬間くらいだったように思う。他に、いつがあっただろう。演じる役以外でその言葉を口にしたことは、いつが最後だったんだろう。
 仕事も家も学校も、どこでも教えてくれなかった挨拶、考えて見れば何も当たり前のことを口にすらしていなかったことに、今この瞬間、ようやく気付かされた。

 ……こんなガキに教えられる、とか……、……情けなっ。

「……すげー、えらいよ」
 ぽつり、子供に向けて言ったそれは本心、此方が心臓を差し出すかのように紡いだ一言だったというのに彼はそんな事実も知らず受け止めて、えらいと口にした瞬間に綺麗に生えそろった子供の歯を見せつけられた。
 所詮は昨日出逢ったばかりの人間にえらいと言われたそれだけで、なんでこんなにも無邪気に笑えるんだろう。
「…………つか、もともと怒ってねぇし」
 負け惜しみよろしく健悟が言えば、目の前の顔は「うそだぁ」と子供らしく語尾を伸ばして、ずいっと小さな両手を前へと差し出してきた。
「えー、じゃあもっとにこーってしろよぉ」
「は?」
「にこーっ」
「っ、いへえ」
 ぎゅ、と抓られたのは自分の頬っぺた、自分以外の誰かが自分の肌に触れることが久しぶりすぎて人間の体温を久しぶりに思いだした気がする。忘れてしまいそうな温もりが頬に走ったのは一瞬、ぎゅっと頬を抓まれ鋭利な熱が拡散される。
 ぐいぐいと引っ張られるそれは子供ながらに容赦がなくて、子供だからこそ加減を知らず人の顔で勝手に遊んでいるようだった。
「ぶっはははは! 変な顔―っ! きめぇっ」
「なっ、」
 きもい、そんなこと冗談でも軽口でも言われたことはない、それなのに目の前の子どもは人の頬を上下左右に繰り返し抓って遊んだり、今もなお黒いコンタクトを入れている目元をぎゅうっと上につりあげては「きつねーっ」とくだらないことにきゃっきゃと笑いを飛ばしていた。
「こんのっ、てめぇっ」
「いたぁーいー!」
 お返しというようにぷにぷにの頬に手を掛ければ、自分はやられたくないのかすぐに健悟の頬を離しては首を振っていやいやと抵抗している。
 がき、と小さく呟いた健悟が緩く頬を掴んでいた手を離して、お詫びとでもいうように抓っていた箇所を優しくなでる。弾力のある滑らかな肌が気持ちよくてついついふっと微笑み撫でていると、無言で見上げてきているその顔が、とても小さく口を開いた。
「……けんご。」
「ああ?」
 くい、と引っ張られた袖口、正面を見れば恥ずかしそうに此方に話し掛けてきている姿があって、先程の元気とは一転、何か本当に伝えたいことがあるのだろうと覚った。
「……なに?」
 言えば、その顔がくいっと顔を上げて、目を輝かせながら袖口を握る右手にぎゅっと力を込めてくる。
「おれね、おれね、昨日りかと借りたんだよ」
「なにを?」
「ビデオ、けんごがむかしの人で、ぶんぶんって悪い人倒してて、ぇと、……けんご、すっげえかっこよかった!」
 むん、と鼻息荒く語りながらも首を上下に動かして、キラキラとした瞳で褒められた。
 むかしの人、とはつまり、随分前に演じた時代劇の映画のことだろうか。小学生ながらに立ち回りの稽古に二か月を費やして一流のスタントマンに指導されたあの二か月は辛かったとはいえ日常生活の中でも役立っている気がしなくもない。
 少なくとも、いまこうして、目の前の子どもに褒められているのだから。
「……へぇ、どんくれーかっこよかった?」
 慣れた羨望の眼差しだというのに、他者とはどこか違う気がするのは、自分が唯一この子供を尊敬している部分があるからなのだろうか。
 緩んだ顔を自覚しながら悪戯混じりに蓮に尋ねると、蓮は意気揚揚と、まるで言葉を用意していたかのように大きく息を吸った。
「いちばん!」
「ぷはっ」
 そして自信満々に迷いなく言い切った蓮は右手の人差し指を高々と掲げながら大きく口を開いていて、その余りの無邪気さに健悟は思わずふき出したけれど、くつくつと笑う健悟を見ても蓮の輝く瞳は変わらない。
「? ほんとだよ、けんご、わるいやつばーんってきって、おねーさんたすけてた!」
 腕を引っ張ってはぐらぐらと身体を揺らされて、過度な馴れ合いを嫌っている筈の自分が、今この瞬間、なにか胸の中に温かいものを感じている気はしていた。
「いっぱいいっぱい感謝されて、けんご、ヒーローだったよ?」
 にひっと笑った蓮は今も猶あの役を思い出しているのだろう、子供ながらに正しい道を突き進んだ役中の姿は自分とは正反対で、どちらかといえば目の前の勇敢な子供の方が似ている気がした。
「…………」
 悪い奴から誰かを救うそれをヒーローと呼ぶならば、誰かを助けるその人をヒーローと呼ぶなら、ば。
「…………おまえのがヒーローだよ」
 脳内にぱっと浮かんだ言葉に身を委ねては、咀嚼するよりも先に、ぽろりと口から出てしまった。
「……おれ?」
「ん。」
 自分を指差してはこてんと首を傾げた蓮を見て、自分は何を言っているのだろうと健悟は首筋を赤くしたけれど、蓮はその姿も見えないらしい、健悟に詰め寄ってはその真意を訊こうとまたもや健悟の身体をぐらぐらと揺らしてきた。
「おれ? なんで? なんでなんで?」
「あー……」
 健悟が誤魔化すように黒い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜれば、蓮はやめろと眼をぎゅっと瞑っては手を振り払おうとするものだから、うまく話をすり替えるように健悟は真っ直ぐに蓮の眼を見つめる。
「――んで。おかーさんは?」
「、」
 けれども、わかりやすくついっと逸らされた視線を見れば言いたいことは一目瞭然で、健悟は眉を顰めながら蓮の頬を掴んで正面を向かせた。
「……おっまえ、まさか黙ってきたのか、コラ」
「う、」
 ぶに、と蓮の小さな鼻を抓めば同時に唇が泣きそうに歪んで、褒めてもらいに来たというのに怒られることが予想外だったのだろう、蓮は眉を顰めながらしゅんと俯いてしまった。
「…………あー、」
 着信履歴から電話番号を辿れば、案の定聴こえた焦る様な声。おまえのせいだぞ、と分からせるように蓮に電話を変われば、怒られているのだろう、両手で携帯電話を持ちながらごめんなさいと泣きそうに呟いていた。
「…………」
 普段逢っているこの位の歳の子役は泣くことを我慢している子が多いというのに、素直に感情を出すのは性格なのかなんなのか、末っ子らしい甘やかされ方だな、とぼんやり眺める。それでも、携帯電話を健悟に返却する際には鼻をぐずらせながらもきちんとありがとうと言うものだから、躾って重要なんだな、とどうでもいいことを考えてしまった。
 二日連続で迎えに来た姉と母親にまた御礼を言われてはまた蓮は怒られて、姉らしき人にぺしんと頭を叩かれてはまたわんわんと泣いていた。
 昨日も見た光景に健悟が笑いを噛み殺せば、ごめんね学習しない子で、と母親に謝られてしまい、噛みきれない笑いは微笑ましさからつい空気中に出てしまった。
 一頻り泣いたらしい蓮は慣れているのか既に姉を蹴り付けていて、反撃に掛かっているものだから、元気だなあと見守ることしかできない。
 ―――これできっと、逢うのは最後になるのだろう。
 心の中の小さなスペースに入り込んできた子供に近寄っては、同じ目線までしゃがんで口角を上げた。
「―――元気でな、バカ」
「……バカじゃないしバカっていうほうがバカだし、ばーかっ」
「てめっ、さっきはヒーローだのなんだっつってただろ、このおくちはー」
「ちがうし、ばかだしっ」
 泣き顔とは一転、きゃっきゃ笑ってる蓮を見て、自然と目元が緩んでしまった。
 二度と逢わないかもしれない子ども、この先共通点すらない子ども、たった二日の三時間余りを過ごしただけだというのに、時間に比例しない感情が湧き上がる。
 蓮に聴いた田舎の情景、馬鹿みたいに無防備な環境、純粋に響く言葉たち。遠い場所に居る自分を冗談でも家へと誘ってくれたのが嬉しくて、昨日告げられた約束を肯定するかのように、健悟は唇を開いた。
「……いつか絶対、゛テレビ“でおまえん家行ってやるかんな」
 不覚にも笑みが殺せずにやりと口角を上げれば、それを聴いた蓮は嬉しそうに笑顔を見せてから、べーっと勢いよく舌を出してきた。
「来れるもんなら来てみろバーカ!」
「てめぇっ!」
 小さな頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜれば、子ども特有の高い笑い声が公園に響いた。
 髪の毛を混ぜる健悟の袖を右手で掴んだ蓮は捕まえたと言わんばかりにギュッと握ってから、狭い視界の中で、大きな声を出す。
「けんごっ!」
「、」
 そして突き出された左手は小指だけが立っていて、健悟の手とは比べようもないほどに小さなそれを直視していると、蓮から無理矢理左手を引っ張られた。
 やくそく、と無邪気な笑顔で微笑まれてから、歌もなく上下に二回、左腕が揺れた。聴いたことはあったものの初めてする行為に健悟が呆然と見入っていると、その瞬間にも蓮はぱっと指を振り払って、お返しとでも言うように健悟の髪の毛をぐちゃぐちゃにまぜてやった。
「じゃあなっ!」
「…………」
 そして昨夜同様三人で公園を去るその姿、最後にはひひっと悪戯っぽく笑った彼をみて、初めて、やらなきゃいけないことができたな、と思った。こんな小さな約束でも守ったら面白いんじゃないの、って、気まぐれにも似た直感で思ってしまった。
 たった二日間だけ一緒に居たバカな弟ともう一度会えればと、いつか迎えに行ければ良いと、迎えに行かなければと、冬の寒空の下、月と外灯に見守られながらぼんやりとした誓いを立てる。
「…………」
 ふと視線をやるは左手の小指、健悟の指よりも数段小さな指が絡まる姿はまるで大きな指輪のようで、重い何かを約束したような気にすらなってしまった。
 ……こんな小さなやりとりを、数年後、数十年後、覚えてたらあいつはびっくりすんのかな、成長したあいつに、本当に来たのかバカとか、言われんのかな。

 考えたら楽しくなってきて、生半可な仕事で行きたくなくて、どうせだったら納得の行く位置まで登り詰めて見直させてから行ってやると、そう思ってしまった。




――――そんな誓いも約束も、十年後の君は、微塵も覚えていなかったけれど。







29/60ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!