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「おかあさーん! れんいたーっ!!!」
 横を向いて親を大声で呼んでから此方に駆けてくる様子は紛れもなく親族の類で、健悟は「あ、」と情けなく口をあけながら蓮の身体を揺すった。
「おい、」
「?」
 蓮の顔を片手でぶにっと潰して顔をぐいっと右に動かせば、当の本人は一瞬訳の分からなそうな顔をしてから、事態を飲み込んだ瞬間にパッと輝かせ、ぐにゃりと視界を歪ませた。
(あ、)
 声も出さずにそう健悟が思ったのは一瞬、ぶかぶかのジャケットを着た小さな男の子は自分の腕の中からいともあっさりと抜け出して、遠くに見えた女の子のもとへと駆けていく。
「りかっ!!」
 離れて行く蓮の大きい声は健悟のもとまで鮮明に届き、瞬時に離れて行った温もりは今はもう「りか」と呼ばれる人物の腕の中にあった。
「…………」
 まーそうですよねー、と健悟が鬘を直して、蓮の鞄を片手にぶら提げながら蓮のもとへとゆっくり歩いていく。腹を温めていた温もりは消え去り、ジャケットからの庇護もない自分はどれほど冷たいのだろうとうっすら思いながら。
 ―――けれども、この些細な虚無感を、寂しいと呼ぶなんて、想像すらしなかった。
 蓮の許へと近寄って行けば此方が着くよりも先に母親らしき人物が駆けてきて、年下相手だというのに随分と懸命に頭を下げてくる。明らかにパジャマ姿の父親らしい人物を見かければ相当焦って探していたのだろうと知り、同時にどこから脱走してきたのだと、好奇心の塊を呆れながら見つめることしかできない。
 健悟の前に広がる光景といえば迷惑を掛けてごめんなさいと真摯に謝る母親と、蓮相手に「ばか」と繰り返し叫ぶ少女、そして罵倒されわんわんと泣き出しながらもその少女にしがみ付いている蓮だった。
 当たり前だけれど、とても不安だったのだろう。安心したように泣きじゃくる蓮は年上の少女にとても怒られていて、ごめんなさいとぐずぐず謝りながらその少女のお腹へと頭をぐりぐりと押し付けているようだった。
 先程までは手中に居たはずの温もりが離れ、元にあった場所に帰化しただけ。それなのに、すっと一瞬心が暗くなるくらいには、通りすがりの少年を可愛いと思っていたらしい。
 ぼうっとその光景を見ていれば貸したジャケットに気付いたらしい母親が蓮から剥ぎ取って、代わりに自分のコートを着せていた。
(すげ、親っぽ。超心配されてら……いや、あたりまえか、これが普通の親か)
 寒そうに白い息を吐く母親が健悟のジャケットを持ちながら健悟に駆けより、再び申し訳なさそうに謝りながらそれを返してきた。
「や、風邪引いたらまずいんで……」
「…………」
 当たり前のことだと健悟が鼻水をずっと吸いながらそれを受取ろうとすると、なぜかその母親は自分の眉をも歪めて、こら、と一言告げた。
「へ、」
 まさか自分に向けられた言葉だとは思わない健悟が疑問を口にすれば、女性は尚も言葉を紡ぎ此方を咎める。
「何言ってるの、貴方が風邪を引いたら元も子もないでしょう」
「…………」
 え、と健悟が言葉を出せぬままに立っていると女性は健悟の後ろにまわり、わざわざジャケットを背に押し当て着せてくれた。
「ほら、手出して」
「、……はい」
「風邪ひいてない?」
「や、だいじょぶ、っす」
 ずび、と鼻を一度ならせば怪訝な表情で見つめられたけれど、そのあとに再度謝罪の言葉を紡がれ、此方が驚きを隠せない。
 自分の息子を心配するだけじゃなくて、こんな、所詮は他人でしかない自分が心配され、怒られるなんて思いもしなかった。他人に怒られる、文字にすれば簡単なことのように思えたけれど、ふと、最後にされたことはいつだろうと考えれば答えに行きつくことは無かった。さっき、蓮にされたときくらいだ。蓮の親、という事実がすとんと心の中に落ちては、新鮮、という漢字二文字が健悟の脳内を擽った。
 俗に言う教師も両親も、自分の歩んできた道で交わることはなかった、演技の指導はあったとしてもこうして内面的なことで怒られることはなかったなぁ、とその光景を眺めていると、ぐずぐずと鼻を赤くして泣いている蓮の小さな手を引いた少女が此方に近づいてきた。
「お母さん、お父さんとお兄ちゃん先にホテル戻ってるって」
「はいはい」
 眼を擦りながら泣く蓮はぐずりながらもしっかりと少女の手を握っていて、それを見た母親が安心したように、御礼をしたいから住所を教えてと告げてきたけれど、立場上簡単に教えるものではないそれの答えに渋ってしまった。
「あー、……や、お気になさらず、」
 つい先日ドラマで言ったばかりの台詞は健悟の歳からすれば大人びた言葉でもあり、それに小さな違和感を覚えた母親が首を傾げて健悟を見た。
「……あら、そういえば、あなた、どこかで……?」
 けれども首を傾げながら此方を凝視する母親よりも先に、気付いたのは娘の方だった。
「あ。あれじゃない、子役だった……」
「あー、ハイ」
「――ああ。東京歩いてると芸能人にぶつかるって本当なのねー」
「……それは嘘だと思います」
 自分が想定していたよりも幾分も小さく驚いてくれた母親に苦笑しながら言えば、それに反応した小さな塊がぐいと少女の腕を引っ張りながら首を傾げた。
「こやく? けーご?」
「あー……、や、」
 話せば長いだろうそれを説明することも面倒臭く、どうせ今だけだろうと笑って済まそうとするけれど、蓮と同じ位置までしゃがんだ母親が諭すように言うものだから自分の陳腐な考えなどは一瞬で消え去ってしまっていた。
「子どもの頃からテレビに出てるひとのこと。けーごじゃなくて、けんごくん。まじまけんごくん、……よね?」
「はい」
 よく御存じで、といえば当然とでもいうような目を向けられて、それに納得できるくらいの位置にはいるつもりはあった。
 けれども蓮は名前を聴けども顔を見れども心当たりはないらしく、再び首を傾げながら小さな唇を開いてくる。
「テレビ?」
「そう、テレビー」
「いや、つってもそんな……」
 すごいでしょー、と続ける母親に謙遜気味に言うけれど、そのすべてを言い切る前に阻まれてしまった。
「……すっげええぇええ!!」
「、」
 きらっきらに瞳を輝かせた、小さな生物によって。
 今まではもごもごとしか開いていなかった口を大きく開き、蓮は少女の握っていた手を一瞬で離して駆けてきた。
 先程此方の髪色を確認してはその度に格好良いと言っていたことと同じように、今度はすごいと、大きな口を開いてその言葉だけを永遠に呟いている。
「じゃあおれっ、いつでも逢えるんだっ!」
 蓮の後ろに見えるオーラは暖色、何も疑わず信じ切った瞳で言われて、正直身体の底がきゅうっと締め付けられたことがわかった。
 少女のもとから戻ってきた温もりが興奮めいた様にばふばふと此方のお腹を叩いている、期待にも似た感情が生まれているそこに、好奇心が再び自分にだけ集まったその瞳に、少しだけぞくりと肌が粟立つ音がした。
「……おっまえさっきまでガン泣きしてたじゃねえか」
「、うーっ、う゛−っ!」
 蓮の小さな鼻を抓んで左右にぐいぐいと動かしてやれば、ぷにぷにと柔らかいそこを中心として苦しそうな表情へと姿を変えていた。
「ぷはっ」
 その姿が面白くて少しだけ口角を上げながら手を離すと、蓮は当然鼻が痛かったのかひりひりするらしいそこを両手で擦っては目に涙を溜めていた。しかし一通り痛みが去ったらしい瞬間に見えた表情と言えば怒りなのか痛みなのかの区別はつかず、唇を尖らせながら探るように此方を覗き込んでくるものだった。
「…………」
「なんだよ?」
 てい、と蓮の狭い額に軽くデコピンすれば大袈裟に仰け反ったのち、ぷっくりとした頬を膨らませながら上目遣いに覗かれた。
「……てれびで、今度うちに来てもいーぜっ」
 誘いの言葉が恥ずかしいのかぼそぼそとした言葉ではあったけれど、先程交わした約束は有効だったらしい、蓮は確かにそう告げていた。
「……このバカ。こっちがどんだけ心配したと思ってんの」
「ったあ!」
 けれどもそれが少女の目には生意気に映ったのかすぐさま子供相手には到底可愛いと言えないようなお叱りの鉄拳が届いたけれど、涙目で少女を睨む蓮を見ては、じわじわと心の底から込み上げてくる温かい感情があることに気付いた。
 誰も彼もがまるで自分のことなんて存在していないもののように扱うのに、彼だけが、蓮だけが、いま、自分にプラスの言葉をくれた。
 誰かが待っているというだけで、こんなにも頑張ってしまおうと、思えるものだったのだろうか。
「―――……」
 健悟はごくりと生唾を飲んでから、蓮の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。そして、膝の上に置いた腕の上に顔を乗せると、目の前にあるきらきらと輝く瞳を直視できないとばかりに、目を逸らしつつも途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「なにおまえ……俺が、テレビ出たら……うれしいの?」
「うれしい!」
 ゆっくりと此方が聞けば、帰って来た言葉は即答。
 迷いのない瞳は明日からとは言わずに今日帰ってから真っ先に調べそうな一途さを孕んでいて、次の言葉を考えることもなく此方の台詞を待っているようだった。
「……見てくれんの?」
「見るっ、すっげえ見る! おれね、おれいっつもゴウレンジャーばっか見るけどね、でもね、これからはけーごのテレビもちゃんと見る!」
「……まじでー」
 けーごじゃねぇよ、とも言えないままに目を逸らして健悟が呟くと、それを疑わしいと受信したのか蓮は此方の腕をゆさゆさと揺らしながら頬を膨らませている。
「ほんとだよ、ちょー見るよっ」
「あー、……そっか」
 頬を赤くして力いっぱいひとり頷く様子はとても嘘には見えない、力説する蓮に眼頭の奥が若干熱くなったことは自分の胸の内にだけ留めておいて、健悟は今にも赤くなりそうな頬を覚られないようにと右掌で覆った。
 ほかの誰でもない自分だけを見てくれる人、楽しみにしてくれる人。一見すればごろごろ居そうな世の中だけれども、こんなにもストレートに応援されたことは、考えてみれば自分の人生単位においても初めてだった気がする。同級生のように地位を利用するわけでもなく、女性のように色恋を含んだものでもない、街で指差されることはあっても事務所の方針上近寄り憎い人物を演じているようなものなのだから、直接的に話し掛けてくる人すらいなかった。
 地位だけが向上していく中で、それと反比例するように誰が見ているのかもわからない焦燥感、初めて目の前で温かい言葉を掛けられて、応援の言葉を掛けられて、嬉しくないはずがなかった。
「………………」
 きゅう、と締め付けられた胸中に残るは言いようもない嬉しさで、いつまで続くかの保障すらない芸能界だけれども、あと少しだけ、もう少しだけならばがんばってみてもいいかなって、そうおもえた。
 我ながら現金だとは思うけれど、少なくとも、今日貰った新しい台本を今すぐ読み込もうと思えるくらいには。
「……ありがとな」
 目の前の小さな黒髪をくしゃくしゃにまぜれば蓮はきゃっきゃと笑い声をあげていて、アリガトウという言葉を日常的に使われているのだろう、生意気にもドウイタシマシテと胸を張って返された。
 アリガトウの言葉を最後に発した日すら思い出せない此方とは違って、その一言を噛み締めることもせず日常と化しているらしい塊は、じゃあ帰るよ、と手を引いた少女に付いていくように身を委ねていた。
 ばいばい、と大きく手を振る蓮の横でぺこりと頭を下げる少女、その横で、綺麗に頭を下げた母親。

「―――………」

 ――あんな弟が、居たら良かったのに。

 弟が欲しいと言うよりも、あんな家族で育っていたら、あんなに温かい雰囲気の中で生きていけるとしたら、きっと人生なんて随分と変わっていたことだろう。
 暖かい家庭に触れたとき自分の心中までもが酷く穏やかになっていることに見ない振りをしながら、当初の予定でもあった自宅に帰るために足を進めた。
 香水のにおいが付着しているのだろう、少女からナマイキと罵られる声を後ろに聞いては、読む気も失せていた台本を、ちょっとでも読み進めてみようかと思えた。



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