26


 そして、翌日。
 夕食後のお茶を啜っていた時刻、図ったようにガラガラと動きを見せた扉に口角を上げた人物は、利佳一人のみだった。
 返信の無いメールから帰宅する意思は届かなかったものの、こんなことならもう少し早くメールを送っていれば良かったとも思う。もっとも、蓮の好きな睦お手製のハンバーグを無理言って作らせ、それを作る工程を細かく写メールで送っていた結果と言われれば、その確率はきっと百パーセントに近いのだろうけれども。
「おかえり駄目息子。なにしてたのよ武人ん家で」
 利佳が言えば、羽織っていたパーカーを脱ぎながら目も合わさずに蓮が返答する。
「……別に。ゲームとか。モンハンしてた」
「モンハンて」
「っせーな、ミラバルカンがやべーんだよ」
「ミラバルカンて。ハッ、暇人」
「……おめーだって高校ん時遊んでばっかだったろ」
「あたしはちゃんと家に帰ってきてた」
「あーあーあー」
「……」
 聞きたくないとでも言うように両手で両耳を叩いた弟に苛立ち、手近にあった雑誌を投げ付ける。
「イデッ、」
 蓮の腹に当たって落下した雑誌はダメージを与えるには値しないものの、その雑誌を蓮が拾おうとした瞬間に漸くその効力を生じさせることができた。
 わざと健悟が表紙のものを投げたのはただの確認でしかなく、瞬時に目を逸らした蓮を見て生まれていた疑念を確信へと変えていた。
 それでも、見慣れないティーシャツを着ている弟があまりにも決まり悪そうに目を逸らすものだから、利佳は溜息を吐きながら、自分の隣をポンポンと、片手で叩いてみせる。
「ほら。来な」
「……んだよ」
 同じく溜息を吐きながら胡坐を掻く弟へと身体を向け、きっと彼にとっては一番大事であろう嘘を早速吐いてみる。
「今日健悟帰んないって。夜からの撮影だってさっき出てったから」
「……誰も訊いてねー」
「訊きたそうな顔してたからさー」
「してねぇ」
 ぷい、と顔を背けた様子はあまりにも不自然で、健悟ではなくとも何かあったのだろう事は分かりきっていた。なんていう分かり易さ。社会に出てやっていけるのか、こいつは。
 撮影も大詰めだろう健悟が朝方に出ていったことはこの家に居る誰もが知っているけれども、それをあえて蓮に伝えないのは、きっと健悟の目下にある陰翳の所為に他ならない。
 数時間後に騒ぐだろう二人を想像し、利佳が「そう」と恍けながら呟いたところで、写メールに忠実に映っていた物体がテーブルへと運ばれてくる。
「まぁまぁ。ほら、食べな」
「……あざす。いただきます」
 他の誰よりも遅い夕食を睦が勧めてから、蓮の前に座ってコポコポとお茶を注ぎ始める。
「まぁ、確かに最近健悟は忙しいわよねぇ。なんだか疲れてるみたいだし」
 うんうんと頷きながら睦は蓮へと話し掛けたが、その肩が一瞬だけ反応を見せた事は、利佳だけが見ていた事実だった。
「……それが普通じゃねぇの。なんで家に居たのかもわかんねぇよ」
「うっわー蓮くんつーめたーい」
「……」
 ――『肩震わしといて何言ってんの?』
 そう告げれば、今にもハンバーグにサヨナラを放ち隣の家に戻ってしまうだろう彼には告げる事無く、冷やかすだけに留めておく。
 その際、勿論無言で鋭い視線を送られたけれど、それすら気にしないようにお茶を啜れば、相手もやり切れなさそうに箸を進めることに徹していた。
 そしてそんな中、二人のやり取りを見ていた睦が、「あ」と小さく声をあげると、蓮は大きい口を開いてご飯をかき込みながら目を向ける。
「そうだ。明日健悟にもお弁当作ろうかと思うんだけど」
「へぇ、いいんじゃね」
「蓮、あんた持ってってくれる?」
「はぁ? やだよ。朝渡せば?」
「それがねー、朝、あのひと私よりも数段早いから間に合わないのよねー」
「……は? 今日さっき出てったんだろ?」
 訝しむような視線で睦を見る蓮は、先程の会話との些細な矛盾を感じて余計に睨みを強くする。
 そして即座に箸を止めるものだから、どうしてそういうことには鋭いのに、自分の事になると途端に疎くなるのだと、利佳は震えそうな右拳をゆっくりと押さえつけていた。
 ――バカじゃねぇの、バカじゃねぇの、バッカじゃねーの。他に気付くトコ死ぬほどあんだろ、オメェはよ。
「……あぁー……どうしよう、いますっごい殴りたいあんたのこと……」
「んなんいつもだろおめーは」
「いつも以上にだっつのボケ」
「知るか」
 ふん、と憎たらしさしか募らない仕草を目にした利佳の中に、此処数日抑えていた苛立ちが余計に留まる事無く溢れてくる。
「……めぇんどくせえ」
「って、イテェ! 殴ってんだろテメェっ」
 利佳が舌打ち交じりに弟の膝を蹴れば、八つ当たりと勘違いした彼が慣れたように遠退いて行くものだから、利佳は更に近付き直して、面倒臭いと提言した通り直球に聞いてしまおうと顔を寄せる。
「なに、チケェぞ」
 やらねぇし、とハンバーグを利佳から遠ざければ、「もう食べたわよ、」と呆れ顔を放つことしか出来ない。
 なんでそんなに暢気なんだ、こいつは。健悟が帰ってこなければそれで良いのかおまえは、逃げるだけか、格好悪いな、我が弟ながら。
 なんでそんなに自信がないの。
 もっと自意識過剰になれば良いのに、不確かでも「もし」という仮定をもって健悟に接すれば、それだけで解決する話がいくらでもある筈なのに。
「あーもーー。……あー、もういっか、いーわ。うざいわあんたら」
「はぁ?」
 あんた『ら』という発言に漸く顔を歪めた蓮に、やはり心当たりがあったことを知る。
「あんたさー」
「……なんだよ」
 言葉を続ければ、余計に睨みを強くするものだから、怒りたいのはこっちだと目元が痙攣しそうになることも仕方の無いことだ。
 おまえらの八つ当たりでどれだけこっちが気まずいことか。同じ家に住んでいるというだけで、険悪なムードがひとつあるだけで、それは充分に日常に支障を来たす。
 だからこそ。

「はやく仲直りすれば?」

 そう、直球で投げ捨てた。
 しかし。
「……喧嘩もしてねーよ」
 ばん、と聞こえたのは箸をテーブルに叩き付けた音で、蓮はパーカーを拾ってからすくっと立ち上がってしまった。
「ごちそうさまっ」
 睦に対して至極偉そうに言い放った背中を見て、利佳は呆れながら残りのハンバーグに目を配る。
「……普通『誰と』って聞くよねぇー、ココ」
 しっかり心当たりのあるくせに一向に行動に移さない。その性格は一体誰に似たんだろうと、三分の一は残っている茶色い塊を蓮の箸で割り、自身の口に含む。
 ふんわりと甘いソースは完全に弟好みの味付けで、それが残る彼の皿をこの食卓で利佳は初めて見た。
 直球だからこそ余程的を射ていたらしい質問に、今頃あのベッドでうだうだと答えの出ないらしい悩みを抱えていることだろう。むしろ、数日間抱えてまだ悩むことがあるのだろうか。
 あいつと蓮がドコまで進んでいるかなんて想像もしたくないし、実際このまま健悟が東京に帰ればとすら思った事もある。どうでもいいといえば語弊があるが、どうすべきかは本人達次第でしかない。
 それでも、どうしたものか、とハンバーグをまた摘めば、ズズッとお茶を啜った後に聞こえる声。
「太るわよ」
「だいじょーぶ。ていうかあいつマージ思春期。超迷惑」
「あんたねー、引っ掻き回したいだけ? ちゃんと仲裁するなら責任持ちな」
「ちっがう、蓮に帰って来いって言ってあげたじゃん。引っ掻き回すって何よ、むしろ健悟に感謝されるべきっしょ」
「はー、あんなに蓮の機嫌悪くさせておいて」
「ちーがーう、しーらなーい」
「あっそ、そんなに蓮取られるの嫌なの。いい娘育てたもんだわーあたしも」
「……だからチガウってば」
 睦からの最後の一言に反応を見せれば、全く信じていない様子でハイハイと流されてしまった。
 そんなはずは無い、あんな愚弟、熨斗を付けて返してやると歴代の彼女に笑顔で思ったことは両手では足りない。
 ただ、十年間あいつを見てきたこっちとしては、あいつが来てからの楽しそうな様子を見てしまったこっちとしては。
「喧嘩してないのもウザイけど、してんのはもっとウザイの」
「めんどくさい子」
「あんたの子だよ」
 ごちそーさん、と綺麗に塊を食べれば、当然のようにお粗末さまでしたと返る声。上で泣いてたら笑ってやろう、と思いながらカチャカチャと弟の食器を片付ければ、ふいに時計が目に入った。
 田舎には似つかわしく無いスーツ姿の男が帰って来るまであと数分、数十分。
 四日ぶりに電気がついているあの部屋に、彼は居間よりも先に駆け寄ることだろう。
 もう、変に慰める必要も、変に怒る必要も無いのかもしれない。二人の間でどこまで進んでいるのかも、何が起きているのかも知らないが、たかが数日で壊れるものならば、きっとそれはそれだけの価値しかないということだ。その時は可愛い年上女子でも紹介してやるか、と、珍しく悩んでいる愚弟を思いながら、今起きた事項全ての責任を、仕事帰りの彼に請け負わせることにした。
「あーあ、ヘッタクソなケンカ」
 喧嘩もしていないということは、衝突する勇気すら無いということ。お互いがお互いを気にしてばっかりの癖に、行動する勇気がまったく見えない、どっちも。
 障害なんて、これから先絶えず生まれていくものなのに。こんなとこで折れる位なら、一生何もできやしない。
 今の内に離れたほうが、お互いの為に決まってる。
 少しでも嫌悪を覚えたら、不審を抱いたら、相手に伝えなくては何の意味も無いのに。自分だけが考え込んで、溜め込んで、ぶつからないなんて、何も解決するはずもない。
 解決したいなら、話し合うしか無いだろうに。
 塞ぎ込んで時間が解決してくれるんなら、物事なんて世界単位で変わってるね。
 男が戻ってきた際には、やっぱあんたら合わないよ、と、開口一番に言ってやろうと、そうやんわりと決心する。
 同時に、恋愛ってこんな面倒臭いものだったっけ、と、青臭い悩みのむず痒さに首を傾げていた。
 好きだと告げて、キスして、セックスをする。
 その工程を恐れる事無く突き進んできただけに、複雑に絡まる双者には苛立ちしか募らない。
 ――どこに躓くところがあるの。男同士でも、歳でも、立場でもなんでも、本当に好きなら関係ないんじゃないの、普通は。
「…………、?」
 心中に落ちたその言葉が、なんだかあまりにも子供染みている気がして、僅かな疑問が利佳の胸中を駆けた。
 好きなら、と全て正当化してしまう行為が、当事者じゃないからと、軽く言える綺麗言に聞こえてしまったからだ。
 愚弟と健悟。あんなに分かり易い二人は居ない。
 どちらかが口を滑らせれば、留まることを知らずに溢れ、万事解決するだろう。
 ……そう思うのは、間違っているんだろうか。
 端から見れば分かり易過ぎる二人でも、当人からすれば見えていないことばかりなのだろうか。好きすら伝えられない複雑な問題は、傍観者には見えていないだけなんだろうか。
 ……なんか。……なにそれ。そんなの、知らない。
「、」
 今、此の瞬間まで、自分のしてきた恋愛に間違いなんて見付からなかったのに。
 それでも何故か、何かが愚弟に負けている気がして、母親からの言葉も強ち外れてはいない気がして、利佳は時計を睨み付ける力を更に強くした。



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