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「っ、」
 腕の中の塊を心臓の位置から逃がすと、きょとんと首を傾げられたものの自分の感情までは悟られていなかったらしいと知る。
 十三年間抑えていた感情が一瞬でも漏れそうになった胸中に蓋をして、はやく送り届けてやろうと再び健悟は立ち上がる。膝についた土をぱんぱんと掃っていると寒さのせいか真っ赤になっている頬の主が視界に入り、そういえばと、ふと思ったことがあった。
「……ていうか交番より前に、おまえくらいヤツなら何か持ってねぇのかよ?」
「?」
「なーふーだ、わかる? 住所とか書いてあるやつ」
「?、? ……なふだ? ……家にある!」
 一瞬何かを考えたのち、ぱあっと明るくなった表情に、それは小学校の何年何組とか書いてあるやつだろ、と突っ込んでも分からないだろうことを理解して、もう一度同じ目線までしゃがみ込む。
「……あー、ちょっと貸してみ」
「?」
「後ろ向いて」
「んっ」
 ジジジ、と、蓮の背負う黄色の鞄を開く。健悟からすればガラクタという名でしかないフィギュアやぬいぐるみを押しのけていくと、やっぱりとでも言うように鞄の内側にぶら下がっている名刺ケースのようなものが存在した。
「……あんじゃん」
 なんだよ、と言いながら健悟はケースを取り外し、名前と住所、携帯番号がしっかりと書いてあることに感謝する。住所が此処から随分遠い場所だということは、家族で旅行に来て逸れたりしたのだろうか。
 名刺に残る達筆はどう考えても大人の女性のもので、それこそが偏に蓮が大切に育てられていることの証のようだった。健悟は蓮の鞄を持ち、その反対の手で蓮の手を繋ぎながら先ほどのベンチまで戻っていく。
「ちょっと待ってな、いま呼んでやっから」
「!」
 ベンチに並んで座り携帯電話をポケットから取り出すと、蓮は離れていた健悟との距離を詰め、健悟の太腿に掌を置いた。そして、出逢ってから一番ともいえる明るい表情を見せてくる。
「りか来る??」
「来るよ、すぐに」
「ほんと?」
「ああ」
「……ほんとにほんと?」
「来るって」
 しつこいとでも云うように健悟が少しだけ双眸を細めると、その瞬間、蓮はぐしゃりと顔を崩した。
「、」
一瞬で泣きそうに歪んだ表情は自分に怯えたからかと健悟が表情を強張らせるも、そうではなかったらしい、蓮はようやく来る迎えに安心したのかまたもや唇を真一文字にきつく結んでいたようだった。三度目の泣き顔、躊躇なく繰り出される感情の渦に若干戸惑いながらも、健悟は安心しろとでも言うようにその柔らかい黒髪をくしゃくしゃに混ぜる。
「……んな歳で強がってんじゃねえっつの」
 揺れる黒髪を梳いた途端、数年前に自分自身が事務所の社長に言われた言葉だと思い出したけれど、それを無視するように小さい頭を撫でてやる。
 ぐずぐずと泣きながら白い息を吐く蓮を見て思ったことは、マフラーを持ってきて貸してやれば良かったというその一点。寒そうな首筋を見ては、そういえば自分から他人のことを気にしたのは初めてかもしれないと、珍しい感情に身を委ねた。
 複雑な感情を抱えながら子どもの連絡先に電話を掛けると、コールが鳴ったのはたったの一回半、焦ったように電話口から聞こえる声に、もしかしなくとも蓮を探している最中ではないかと思った。
「もしもしっ!!」
「、……あ、すみません、リカさんですか? いまお宅のお子さん、いがらし……れんくん? 迷子になってるみたいで預かってるんですけど、迎え来れますか?」
 リカと言えば噛み合わないような疑問の声が聞こえたけれど、無視して話を進めれば、そんなことは忘れるかのように「今何処に居ますか」と焦燥に駆られるような声が届いた。
「―――よかったな、すぐ来るってよ」
 携帯を閉じてから、宥めるように一言。狭い額にデコピンすれば安心する顔になると思いきや、視界に入ってくるのは、どこかとろんとした顔で、口を開けて顔を覗き込んでくる表情だった。
「?」
 健悟が眉を顰めるのも一瞬、蓮はそれすら無視するように健悟の太腿に置いていた手を肩へと伸ばしてきた。肩に置いた手に重力をかけて背筋を伸ばすと、まるで健悟の身体によじ登るかのような体勢となる。
「よじ登んなよ」
 なんだよ、と健悟が困った顔で振り解こうとしたそのとき、ぽつり、小さなつぶやきが聞こえてきた。
「いいにおい……」
「、?」
 そして何をするかと思えば、くんくんと動く鼻は子供特有の毛穴ひとつない綺麗さを誇っていて、近寄る体温は冬のせいかとても温かく思えた。くんくんと鼻先を寄せられたのは首筋、自分の手首を匂えば未だ香りは残っていて、子供が惹かれたであろう事項は安易に予想することができた。
「……ああ、これか」
 とりあえず泣かないならば何でもいいと、気を引くことができれば楽だと健悟は自らの鞄に手を伸ばす。
 自分のバッグに手を入れて取り出したのはひとつの透明な瓶、子供のころから変わることの無いそれはそろそろ中身が少なくなってきていて、また新しいものを注文しなければ、とふと思った。
「手出してみ」
「?」
 きょとんとしている蓮の左手首に香水をかけてから、小さな両手首を握り込んで擦り合わせてやる。嗅いでみ、と仕草で促せば、蓮は躊躇うことなくくんくんと自分の手首に鼻を近づけた。毒を盛られても簡単に飲んでしまいそうな警戒心の薄さは危ういと感じるには十分で、同時にそれほどまでに平和な環境に居るのだろうかと溜息を吐く。
「……好きか?」
「すきっ」
「……そ。」
 目線をそらす事無く両方の手首をくんくんと嗅ぐ仕草はまるで小動物そのもので、光を放つ双眸からは本当に喜んでいるのだと伝わっては心がむず痒くもなった。たかがこれだけで、こんな香水ごときで、ここまで喜ぶ奴がいるとは思わなかった。単純。そういってしまえばそれだけの所作に、健悟は気まぐれにも似た呟きを残す。
「―――……これ、俺の親父と同じ匂いなんだって」
 くしゃりと黒髪を潰せば毛先までもが冷たくなっていることを悟り、真っ赤になっている両方の頬っぺたを片手でぶにぶにと押しながら喋りかけた。
「分かる? オトーサン」
「……とーちゃん?」
 お父さん、と言った途端に怪訝な表情をした蓮は、もう一度両方の手首の匂いを確かめた後、うえー、と驚きとも疑問ともつかないような声をあげる。
「俺のとーちゃん、いっつもちょうクッセエよ!」
「は、」
「はたけいってっから、ここもここも、つちいっぱいなんだっけ」
「……んー、そうなんだ?」
 膝と肘を交互に指差す様子に、寒いのによく動くなあと赤い頬を見つめる。訛りの混ざった言葉は先程名札で確認した通り此処から随分遠い場所の言葉なのだろう、自分の父親を思い出してか興奮気味に喋った蓮は、頷いた健悟に満足したのか、ぱっと表情を変えた。
「でもでもっ、とーちゃんのつくるやさいおいしーよ、こーんなにいっぱいあって、みんなに分けてあげんのっ」
「……へー」
 白い息を吐きながらも小さな両腕を目一杯伸ばすその姿、必死に何かを伝えようとしているらしい蓮の様子に少しだけ情景が浮かんで来て、健悟は緑いっぱいのそれを頭に思い浮かべながら蓮の話に耳を傾ける。
「くっせえけどね、でも、いっぱいいっぱいはたらいてるから、あったけーの、いっぱいおひさまといっしょに居て……んと、たいよーのにおいがすんの」
「、……太陽の匂い……?」
「ぽかぽかして、あったけぇのっ」
「…………」
 にひひっと笑っては蓮の目が細まって、一瞬、全力の笑顔が眩しすぎた故に言葉を発することすらできなくなってしまった。普段見ている子役とは全くちがう、素直な心からの笑顔。
 言葉の代わりに、此方の香水の香りに負けないようにと父親の自慢をしてきた蓮の頭を撫でれば、蓮は褒められたと思ったらしい、寒いながらも誇らしげににこにこと口元を緩めていた。
「……そ。お父さんだいすきなんだなー、おまえ」
「んっ」
 まだ見ぬ彼の父親を思い出しながら言えば、目の前の塊の首が大きく二回、上下に動いた。
 初めて聴いたタイヨウのカオリという表現、聴き慣れぬそれを持つらしい父親は、これから迎えに来るのだろうか。少しだけ期待しながら公園の入り口に視線をやると、次の瞬間、小さな手によって、くいっと袖口を引っ張られた。
「おまえは?」
「え?」
「おまえのとーちゃんは??」
 純粋な瞳は一直線に健悟を見上げていて、さも当然と言うように、邪気なく訊いてくる。
「俺? ……あー、おれは……」
 残念ながら彼に告げられる父親自慢などひとつもないことは誰よりも自分が知っているからこそ健悟は言葉を詰まらせたが、苦笑する表情を見て何かを覚ったらしい、蓮は最も根本的とも言える質問をさらりと口にした。
「? すき?」
「え、」
 白い息を吐き出しながら、ひとこと。
 こてんと傾げられた首は白く、随分冷たそうな印象を与えてくれる。それとは正反対の温度で包まれた余りにも直接的な言葉は、誰にも聞かれることのなかった疑問、健悟にとっては自分ですら抱いたことのなかった疑問だった。
「……?」
「―――……」
 初対面の子供の邪気なく言った一言に揺さぶられることは自分でも想定外で、もう一度自分の手首から香るそれに鼻を近づけてから、じんわりと心の奥に広がる温かさに身を委ねた。
「おまえのとーちゃんいいにおいだから、おれもすきっ」
 そして、何とも纏まりのつかない感情を探っていると、聞こえた声。ひひっと邪気なく笑った蓮は再度自分の手に鼻を近づけては、ふわりと微笑んだ。
「……あー……、そうなん、……かなぁ?」
 自分から、蓮から、嗅ぎ慣れた匂いに包まれる。
 ろくに話したことのない父親の、唯一覚えているこのかおり。憎んでいるとか嫌いだとかそんな感情が生まれることすらなかった自分がおかしいということは重々承知しているけれど、すき、という選択肢は想像したことすら無かった。
 俺が、あのひとをすきかどうかなんて、そんなこと。
「なにそれぇー」
「…………」
 うひひと口角を上げる蓮を見ても、うまく表情がつくれない。
 温かい家族に包まれて、幸せそうな安寧に身を委ねているだろう子供、その子供を見ては、自分の人生の中で初めて心中を鋭く通過した感情が存在したからだ。

 ―――……そんな言葉、今この時まで、思うことなんてなかったのに。

 健悟がぎゅっと掌を握れば冬だというのに少しだけ湿り気があって、じわじわと勝手に緊張していたらしい己の身体を知る。カメラの前ですら自分とは程遠い緊張の二文字に、なぜいま、と思うことも仕方のないことだった。
 だって、この匂いのもとである人物に該当する感情は、……「わからない」。
 親の居る環境に遭遇したことはなかったけれど、周りに人が居なかったわけではない。会長も社長もマネージャーも、ずっと誰かの手で育てられていたからこそ自分が不幸だと思ったことは一度も無かった。やるべきことがあって、やるべき環境があって、ひとりだなんて、思う暇はなかった。
 暗い部屋でひとり過ごした幼い誕生日も、一度だけ経験した参観日も、ロケ先で出会う家族も、現場に親が付き添う子役すら、冷めた目で見ていたのは他でもない自分だったというのに。

 ―――……こんな、……“寂しい”なんて、思ったことはなかったのに。

「………………」
 鋭く裂かれた胸の奥、ふと、遠い記憶のなかで、あの広い家でひとり香水を転がして遊んでいた幼い自分を思い出す。
 寂しいなんて、思ったことはなかった。けれども、此処に居ればいつか帰ってくる日が来るのではないだろうかと少しだけ待っていた時期は、確かに在った。身体に馴染む香水の匂い、それを数年間ずっと付け続けているということは、影もかたちも温度すら、いまはなにもないあの家を、父親の幻影を、今もなお求めているのかもしれないと、そういうことなのだろうか。
「、…………おまえに言う話でもないのに。なぁに言ってんだか……」
 それを認めかけた瞬間、自分の身体の中の一番薄く敏感なところを触れられた気がして、健悟は滅多に見せない動揺を隠すように大きく溜息を吐いた。



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