25
 深夜十一時、ガラガラと玄関の扉が揺れる音を聞いた利佳は弄っていた携帯を机上へと戻し、襖を開ける人物を待っていた。
「ただいま」
「……おかえりー」
 しかし覗いた頭部は此処数日見ていない金色ではなく、曇天のような濁りを醸し出していて、利佳は溜息を吐きながら出迎える。
 そこから「おかえり」と口々に家族から迎えられた男は、一通りの挨拶を済ますと真っ先に利佳へと歩いて来て、厳しい表情を崩さぬまま口を開いた。
「蓮は?」
「開口一番それ?」
「いーから」
「帰って来てないよ」
「なんで」
「……夏休みなんだから。どっかで遊んでんじゃないのー」
 だれのせいよ、とは口にせぬままに利佳は惚け、健悟から目を逸らした。
 馬鹿な弟が隣の家に居候していることは長い付き合いの張本人から聴いていて、その理由を訊けば彼女と喧嘩でもしたのかね、と曖昧に笑っていたことは記憶に新しい。聡い彼のことだろうから彼女と喧嘩した位で家に居られなくなることは可笑しいと、きっと気付いていてのことだろう。
 彼女とは程遠いものの原因は言わずもがな目の前に居る不機嫌そうな男前であり、其れにすら気付いていない張本人にはいい加減にしろと苛立ちさえ募ってくる。
「……でも最近ずっとじゃね?」
 眉間の皺を露にシュッとネクタイを外す姿を見れば、誰のせいだと再び醜い感情が出るのは当然で、気付けば利佳の唇は悪戯雑じりに弧を描いていた。
「あ。」
「あ゛?」
 利佳が口を開くと更に眉根に寄った皺、絶対に弟の前では見せぬ表情を見てこめかみに青筋を走らせた後、利佳は無理矢理に口角を上げながら微笑む。
「もしかして、彼女ができたとかかもね」
「……は?」
「あいつ彼女できると帰んなくなんのよ、家行ってイチャこいてんじゃないのー」
「……」
 歪んだ芸能人の目元は無意識に痙攣を訴えていて、嫉妬しか産まないだろう過去話は聞きたくないといっているようだった。
 ざまあみろ、と内心で笑みながら、利佳は睦に煎れてもらったお茶ををずずっと啜る。
「帰るのが嫌な程のめり込んでんじゃなーい?」
 そして、ふふんと勝ち誇ったかのように適当に投げ捨てると、隣に居た睦からスパンと頭に平手を喰らってしまった。
「りーか。健悟虐めないのー」
「いってぇー……、たかがじょうだ……」
「……」
 容赦ない激痛に悶えながら顔をあげると、てっきり怒りに任せて怒鳴るかと予想した男はすっかり伏せっていて、無表情のままに何もない机上を虚げに見つめているようだった。
 その表情を見れば流石の利佳でさえ加虐心が罪悪感に変化させられたのも僅かな時間で、机の下にある爪先を健悟の膝へと伸ばしてつっついてみる。
「ちょっと。冗談だかんね。」
「……おー」
「…………」
 しかし、曖昧な返事の後、長考してから「風呂入ってくる」と広い背を消したとき、睦から余計なこと言わないの、と釘を刺されたので、どうやら“彼女”というキーワードが健悟の頭に微塵も浮かんでいなかったらしいと初めて気付かされた。
「…………」

 それでも、健悟が蓮について悩むのは今更ではないと放っておいたというのに、此の時だけだと思っていた健悟の態度がまさか此処数日間続いていくとは予想だにしていなかった。
 加えて此処から四日間、家の敷居を跨がなかった弟も。



 夏休みに感けて帰って来ない弟の出所は分かっているにしろ、この会話から四日後、睦が「いい加減タケちゃん家に迷惑じゃないのー」と今更な事を厭味たらしく言ってくるものだから、利佳は「ベツニ」と返されたメールと、覇気のない健悟を思い出して、仕方ないと溜息を吐きながら蓮の部屋の扉をノックも無しに開ける事にした。
 正式な持主は出払っているものの、普段よりも数段固い表情を貼り付けたままの居候は堂々と狭いベッドに寝転びその地を陣取っている。
「すーいませーん。空気重いんですけどぉー」
「…………っせー」
 声を掛けただけで厭味たらしく寝返りを打ち、利佳を視界から無理矢理に追い出した健悟。
 けれどそれで人間の一存在が消える筈もなく、利佳が苛立ちと共にその頭を叩けば、チッと舌打ちされただけに終わってしまった。しかし利佳がそれに負けるはずも無く、手近にあった雑誌の角を叩き付ければ何も言わずに蹲りながら漸く涙目を合わせてきた。
「んで。なーんで帰ってこないのかね、うちの子は」
「…………」
 ベッドで未だ寝転がる涙目に向け、容赦なく腕組みしながら見下ろすと、返って来る台詞は罵倒でも嘆願でもなく、溜息一つと諦めたように搾り出された声だった。
「…………、つか……バレたんかも、おれのさぁ、……あー……」
 語尾を濁しつつも、更に靄を深くして言うものだから、利佳は脚をベッドに乗せてその脇腹をぐいぐいと遠慮無しに蹴りつける。
「はぁあ? ばっかじゃねぇの、んな元からバレるためにやってんのに何今更怖気づいてんのよ。覚悟決めて来たんじゃないの? あぁ?」
「……いや、そーなんだけどさー……」
 煮え切らない様子に眉を顰めれば、本人も未だ考えが纏まらないのか声にならない声を出して何か悩んでいるようだった。
「前までは、なんつーか……蓮からそりゃ少しは、つか普通に好かれてるって思ってたんだけど、……なんか、最近ちょっと変わったっつーか……」
「変わった?」
 尻すぼみになる語尾を耳にし、利佳が片眉を上げると、健悟は憶えている事項を列挙するかのごとく指を折り曲げ始める。
「……家に帰って来ねぇ、電話も出ねぇ、メールも来ねぇ、逢いもしねぇ。……いままでずっと一緒に居れたのに、いきなりこんなんオカシイって思うっしょ、普通」
 投げやりに再び枕に突っ伏す健悟を見て、カレカノカ、と言いたい台詞をぐっと飲み込みながら、再度呆れたように踏みつける。
「んでへこんでんの?」
 しかし、ぐりぐり、と背中を踵で押してやれば、ヤメロ、と言葉なく身体で振り払われてしまった。
 存外にへこんでいる様子は本当に仕事をこなせているのかと疑ってしまうほどで、健悟の深い溜息がこの小さな部屋に響くことは果たして何十回目なのだろうか。
「へこむっつーか、……俺が蓮を好きだっつーのがバレて避けられてる、っつーのが一番正しい気ぃすんだけど」
「…………」
「……したら、まぁ、へこんでんのかもね、おれ」
 はは、と乾いた笑いを笑い飛ばせるはずも無く、利佳は健悟に見えないよう唇を尖らせた。
 ――健悟が蓮を好きだということがバレて、避ける……ねぇ?
 なんだか腑に落ちない事項を感じて、利佳はひとり、健悟がこの家に来てからの数日間を考え直してみる。
 健悟には悪いけれども、健悟が蓮を好きだなんて、そんな規格外のことをあの弟が考えるだろうか。女相手にも恋愛もまともにしたことがない、誰かを好きになったこともない、連中とサッカーなりゲームなりをしている方が楽しいらしい弟が、そんなことを?
 もっと人の好意に敏感に生きているのならば、とっくに良い恋愛もしているし、なによりも、もっと素直に生きているだろうに。
 今蓮がこうして帰ってきていない理由。遊び呆けているだけなのか、本当にこの健悟の様子に関係があるのか。
 健悟にとっては蓮がどこにいるかも分からないのだから、情報が少なすぎるが故に想像することしかできなかったに違いない。
 そして、想像してしまった結果半ば自暴自棄になってしまうだなんて、あまりの情けなさに溜息を吐くことしかできなかった。
「んなへこんで何か変わるんだったら一生へこんでろ、バカ」
 ――まぁ、動いても動いても返事もない、相手がどこに居るかも分からない、現状打破することができない状況なんて、どうしようもできないけど。
 勿論利佳はそんな言葉を口には出さず、心中では充分に同情しながらもそれを隠すかの如く冷たく突き放す。
 すると、その瞬間に健悟の動きが止まり、へこんでるだけじゃないけど、とか細げに言葉を紡いだ。
「じゃあなによ」
「……まぁ、あと……ちょーっと、色々、思うとこがあってね」
「……くだらねー」
 ていっともう一度脇腹を押してから、利佳は脚を退ける。
「くだらねぇっておまえなぁ。他人事だと思って」
「ヒトゴトだもん。あいつが悩んでんだったらあんたはその百倍悩みゃー良いよ、責任持てっつーの」
「……そりゃ、そーだけど」
「あれ。素直じゃん」
「まあね」
 健悟が溜息を零しながら見つめる先は光りの点らない携帯電話で、きっと思い人からの返信は一切無いのだろうということが表情からして安易に読み取れる。
 着々と帰る期日が近付いているからこそ何処か焦っているようにも見えることも、きっと間違いではないのだろう。
 夏休みに入ってから遊び呆けているだけ、武人の家に泊まり込んでいるだけ、それでなければ健悟と蓮でくだらない言い争いが抉れての些細な言い争いでもあったのだろう。若しくは所詮は唯の痴話喧嘩でも、ついさっきまではそう思っていただけに、余りにも深刻そうな表情をする健悟に、利佳は面倒事だと分かっていながらも首を突っ込む事をこっそりと決意した。
「……いいからアンタは早く寝なさいよ、明日も仕事早いんでしょ」
「あー、そーね」
「そーねって……まぁ良いや、おやすみ」
「……おやすみー」
 弱々しい挨拶を聞いた後に、ばたん、と無機質な音を響かせ廊下に出るも、今夜も部屋から漏れる明かりが消える事はないのだろう。
 もし本当に蓮がこの灯りを見て帰って来ないというならば、それだけのことを健悟がしたに違いない。
 けれど、蓮の事に対して聡い彼が殆ど無自覚で、こんなにも悩んでいるということは――。
「…………」
 利佳は、中で未だ鬱蒼としている人物を思い、ぺたりと扉に掌を当ててみた。
 夜中に何度も開く扉、一階に降りて待てども来ない待ち人を待っては、仕事が大詰めだろうに朝方まで二階には上がってこない。きっと朝早くに居れば睦が心配すると思っているのだろうが、そんな心配をする位ならば此処数日取れていない隈を隠せと言いたくなる。
 だから仕方なく、面倒事だと分かっていながらも、『明日は健悟が仕事遅いから、家に帰って来れば』、と。
 気負う事無く帰って来れる様に、若干の嘘を交えてのメールを弟へと送っていた。
 勿論、弟を帰って来させるようにと、隣の家に住む幼馴染へのメールも、忘れずに。



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