* * *


 相変わらず睨むような利佳の視線を潜り抜け、夕飯を食べずに家を出れば連日通り武人が自転車に跨りながら待っていた。
「……うわつまんなそー」
「つまんねーもん」
 遊びに行くのに到底陽気な顔はしていないだろう自分を自覚しながら、呆れるように呟かれた台詞に言葉を返す。
 陽も短くなり随分と暗くなった路地には変わらず街灯もなく、武人とふたり並びながら羽生の家に向かうものの特に会話をすることもなかった。車も通らない田舎は二人の漕ぐタイヤの音すら鮮明に聞こえていて、あれだけ煩かった蝉の音もいつの間にか聞かなくなったな、とふと思う。
 夏が終わると同時に消えた一人を思い出し、それを振り切るようにペダルを蹴った。

 向かうは羽生家の本邸ではなく、それを通り過ぎた先にある別宅。
 今はもう社会人である羽生の兄が受験生だったころ篭もって使っていた場所であり、今では宗像の家と同様にして遊び場として提供されている場所だった。
 いつからあるのか分からないカラオケ機器に最新の音楽は入っていないものの重低音を演出するには充分で、飲み会の時は決まって騒がしいそこを今までずっと敬遠していた。大多数で騒ぐよりも四人で気楽に飲む方が格段に好きだろう蓮の心境の変化は顕著で、武人は分かり易い背中を見ながら思案顔でその後を追っていた。
 周りが田んぼで埋め尽くされまるで孤立しているような羽生家の別宅前に自転車を止めた瞬間、蓮が久しぶりに発した言葉といえば、うるせ、と一言。明らかに嫌悪を含んで呟かれた小さな一言を残して、二階に続く裏口の階段を上っていった。
 ドンドンと叩いたところで既に煩い中に聞こえるはずもなく、鍵のかかっていないそれを蓮は勢い良く開いた。
「あ、蓮ちゃん来た来たー!」
「、」
 部屋を開ければずんずんと心臓に響くような重低音が聞こえてきて、仄かな明るさの下でも充分に顔を赤くしている羽生が抱き付いてくる。
「うっるさ……あんた行けんの?」
「あ?! 聞こえねー!!」
 心配する武人からの声にも無視をして、怒鳴っても掻き消されるような音の波の中へと、羽生に抱きつかれながら進んでいった。
 煙草の煙で白く濁っている部屋に堰をしそうになるのを我慢して進んで行くと、一家庭だというのにバーカウンターのような設備が整っていて、バーテンダーの真似事をしていた女性から話し掛けられた。
「あ、蓮ちゃんらっしゃい何飲むー?」
「トリブラ!! っつかうるせー!!」
 羽生の友人らしい女の人が平然と声を掛けてくるものの、此方が叫んだところでその様子は変わることなく流れている音楽を口ずさみながらトリスをコーラで割ってくれた。
 あだ名しか知らない彼女からドリンクを貰って、羽生に押されるようにして近くに置いてあったソファーにぼすんと座る。適当に話していれば適当に人が寄ってきて、何の集まりというわけでもなく好き勝手に話が続いて行く。
「……ぜんぜん聞こえてんじゃん」
 一連の流れを見た武人の小さな小さな呟きに耳を傾ける者が居るはずもなく、武人は脱いだ帽子の中に溜息を閉じ込めてから、それを振り切るようにして蓮の背を追っていった。
 
 

 年も知らない大人数の集まりははっきり言えば苦手というよりも寧ろ嫌いの部類で、心境の変化がなければ一生顔を出すこともなかったと思う。羽生や武人、宗像がこういう場所にいることすら嫌だった。
 面白いか面白くないかと言われれば未だ後者だけれど、一人でいたり誰かと静かにいるよりも全然良い。そう思って何度か来てみたけれど、この煩さと薄く軽いだけの関係に慣れることはなかった。
 臭いし煩いし最悪と言ったところで、それが良いんじゃん、と返された初日には本当に相容れない場所だと強く実感したからだ。
 お酒を飲んで騒いで歌って、一般的に見れば楽しいだろうそれなのにまるで今にも壊れてしまいそうな薄い氷の上に立っているように不安定な現実感のないものだった。声を出して張っているはずなのに、声帯が揺れる裏で脳だけがぷかぷかと別の場所で浮いているようだった。
 誰かと一緒に居るって、こんなにつまんないことだったっけ。
 そう思うのに、たしかに此処に居れば余計なことは考えずに飲んでいれば良いと甘えているのも事実だった。
 変わらず羽生と笑い合ったりまったく知らない誰かの先輩らしき人の話を聞いたり、騒いでいる連中に無理して乱入してみたり、適当に過ごしていればいつの間にか時間が去っていくものだからだ。
 適当に夜を過ごして、寝て、学校に行って、決められたサイクルをこなすことでいつか後悔と一緒に消えて行けば良い。
 そう思って、今度は誰のかも分からない缶チューハイに手を掛けたときだった。その手に、誰かの手が触れたのは。
「、?」
 すっかり酔っているらしい今時の女子高校生が積極的なのか自分が遅れているだけなのか、いつの間にか制服を着た女の子が指を確認するようにさりげなく手を触ってきていた。
「―――」
 そのまま握り返せば良いと頭では分かっているけれど、指は脳の信号を無視して動こうとしてくれない。いま触りたいのは、触ってほしいのは、こんな華奢な手ではないからだ。
 するすると上がってくる細くなめらかな肌の感触が指を伝う。にこにこと笑いながら手を這う彼女に、まるで硬直したかのように手指が動かなくなってしまった。
「………………」
 ――だって、誰かの体温を感じる度にあの大きな掌を、骨ばった指を、小指から離れなかった指輪を思い出す。
 掌を握られるだけ、それだけのことは彼以外とも何度もしたことだってあったのに、なぜいま指が動いてくれないんだろう。
 あの大きな掌に、頭をくしゃくしゃにされることがすきだった。髪が揺れてその中を掻き分けてくるような、自我を持つ強い手がすきだった。
 今日羽生にされたくらいぐしゃぐしゃにされたとしても、今ならばもう怒らないのに。どんなにひどくされたって、それすら笑って喜べるのに。
 目の前にある細い肩を抱きたいんじゃない、自分よりも大きいあの身体に抱き締めてもらうことがすきだった。
 変なことを考えていると自覚しながらも幻影を追うように見えない彼を見ていると、いつの間にか目の前まで女の子が迫ってきていることに漸く気が付いた。
「……、ちょっ、」
 吃驚するうちに抵抗するのも忘れていると、若干反った背の御蔭か彼女の唇は此方の唇から二センチほどズれた位置に触れられていた。確かにふれた感触といつのまにか太腿に置いてあった温かな手に一瞬頭の中が沸騰したかのように熱くなってから、自分でも気付かないうちに彼女を押し返していた。
 若干の明るさに包まれる室内では開かれた双眸が見て取れて、何故とでも言いたげに驚嘆の表情を映し出している。
 それはそうだ、こんな時間にこんな場所で、こんな雰囲気で、本当ならば此方からがっついて二人で此処を抜け出しても可笑しくない場面なのに。
 それなのに、自分が手を伸ばせば触れられる位置に誰かが居るということに大きな喪失感と嫌悪感を抱いて、気付けばその手を振り払い距離を取っていた。
 柔らかくてすべすべな肌、細い指先、花の蜜のように甘い香り。受け入れてもいい相手なのに、触りたいと思うべき相手なのに、身体が勝手に鳥肌を生んでいた。目の前に彼女が居なければ今すぐにでも頬を擦って、口端に残るグロスの感触を消したいとすら思ってしまった。
 健悟に最初にキスをされたときでさえ、こんなに拒絶しなかったのに。挨拶程度の頬っぺたにキスなんて、羽生にいつもやられているのに。
 挨拶程度、本当になんの感情も入ってないそれのはずなのに、何かがいやだ、自分でも分からないもやもやが込み上げてきては気持ちが悪くなる。
 酒のせいではない、今此処にはない、忘れられない香水の香りを思い出して、場所も弁えず泣いてしまいそうだった。
「…………ごめ、ん、」
 目を逸らして呟いた声が、この騒音の中聞こえていたかは分からない。その証拠に次に顔を上げた瞬間には彼女は居らず、誰か他の人のところに行ったらしかった。隣に人は居るけれど、此方を全く気にする様子もなく平然と大声で喋り続けている。
「っ、」
 慣れない環境に無理矢理慣れようとしてもやっぱり無理なことで、諦められないことを振り切るように、忘れたいことを無理矢理忘れることも所詮、無理な話だった。
 今だからこそ右手の拳でぐいっと頬を拭って、制服で誤魔化すように拭う。そして、男女の集団にすっかり紛れて過ごしている武人の肩をひっぱって、「かえる」と一言呟いた。
 騒音の中で聞こえないだろうと思っていたからこそ一人で先に帰ろうと思ったのに、此方が背を向けた瞬間に武人は腕を掴んだまま離さなかった。まるで分かっていたことかのようにするりとその集団を抜け、知り合いらしい女の子を宥めては、逆に腕を引っ張って外に連れ出されてしまった。
 救出されたと言っても過言ではない。部屋を出た瞬間に煙草の煙と別れ森の香りが広がり、田舎の清澄な空気に久しぶりに感謝した。
「……やっぱ俺タバコ嫌いだわー」
「煙草だけじゃないでしょ」
「? どういう意味だよ?」
「んー、いーや、かえろ」
 ポケットをがさがさ漁り鍵を探す武人の後ろを追って、カンカンと階段を下りていく。
「良いって。俺だけ先帰るし、おまえは居ろよ」
「帰るよ、明日もガッコだし」
 ふぁ、と武人が欠伸をしたことで少しだけ納得して、蓮も自転車の鍵を取り出した。警察官に見付かれば深夜の外出だけでなく未成年飲酒と飲酒運転で一発で補導されるであろう状況の中、誰も居ない小道をゆっくりと並んで走って行く。
 こうしている間にも羽生たちはまだまだ大絶賛盛り上がり中であろうことを想像し、楽しそうなあの様子を思い出してはある意味感心するとでも言うように蓮は呟いた。
「あのバカいつ寝てんだ」
「授業中じゃん?」
「……マジバカ。救えねえ」
 羽生に言ったつもりの言葉はそれ以上に自分に言い聞かせていて、あそこを出る寸前、柔らかな女の子を拒んだ自分の行動を改めて思い出しては不安に駆られてしまう。


(……あーもう、どうしよ)


 相手が悪かったとかそういう問題ではないような気がして、今はひとり以外に考えられないくらい切羽詰っている自分が居ることを改めて思い知って、ブレーキから右手を離しては己の口端を二の腕で拭った。
 結局自転車を飛ばして家に着いたのは夜中の三時、無言で道路を走る蓮に武人は何か言いたげだったけれど、言葉が闇に消えたかのように口を開くことはなかった。
 そしてその後眠りに就く場所といえば少しずつ納まることに慣れてきた二段ベッドの上段で、天井を見つめるだけで、なんでもないそれがぼやけてくる。部屋に居るというそれだけで泣きそうな自分は一体なんなんだと思いながらも、お酒の力に任せて目を閉じることしか出来なかった。



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