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「ただいま!」
 学校を早退して家に駆け込み怒られるという意識もなく、蓮はばらばらに脱いだ靴を無視しながら言い切った。
 睦が居れば、今すぐ東京に行くと、そう伝えようと思ったからだ。
 けれども慣れたおかえりの声と生活音は返って来ず、蓮は肩透かしとでもいうように畳に鞄を放り投げた。
「…………」
 とりあえず時刻表を見て、準備をする、そう決めて二階へと階段をあがって行く。
 その後、違和感を覚えたのは階段の中ほどで、いつもは物もなくガランと静かな廊下が茶色い段ボールで埋もれているという、初めての煩さが視界に入ってきたからだ。
「……は?」
 蓮は一瞬動きを止めて眉を顰めたが、すぐに急いで階段を駆け上がった。生活音がするのは紛れもなく利佳の部屋からで、ずるずると荷物を引き摺るような音までも聞こえてくる。
「? おい、何して――」
 そして利佳の部屋を覗き込んで、蓮の動きは停止した。
「――あ。おかえり。今日映画上映したんだっけ、学校早く終わったの?」
 振り向いて答える利佳はいつもと変わらぬ無表情だったものの、部屋を埋め尽くす背景に頭の処理に追いつかない。膨大な茶色の塊、利佳の部屋には積み重ねられた段ボールが幾つも置いてあり、壁際には畳んだ段ボールが幾つも立て掛けられている。ごそごそとした音は荷物整理に他ならず、洋服や小物で部屋のほとんどのスペースが埋め尽くされていた。
「…………、」
 まるで引越しでもするかのような荷物の積め方を、蓮は呆然と眺めることしか出来ない。
 
 利佳がこの家から去るのならば、行き先に心当たりはひとつしか浮かばなかったからだ。

「どうだった〜、あいつ」
「……なにこれ、……旅行でもいくわけ?」
 利佳からの疑問に、蓮は同じく疑問で返す。頭の片隅に浮かんだ一つの選択肢を、ばっさりと否定して欲しいと、少しだけ震えそうな拳を握り締めながら。
「疑問に疑問で返してんじゃないわよ」
「……なんだよ、これ」
 嫌味を言われてもなお蓮が不安気な表情で問えば、利佳は呆れたように溜息を吐いてから、再び荷物を整理するために身体の方向を転換させた。
「ちっがうわよ。流行りの婚活ってやつ? やってみるのもいーかなーって思って。向こうの家で住もうかって話出たし、ちょっとの間行ってこようかなって。あんたも暇なら手伝ってよ」
 罪悪なくちょいちょいと手を振り救援を要請する利佳に、蓮の身体が分かりやすく揺れた。
 まるでなんでもないことのように言われた言葉に、さらりと水が流れるように放たれた言葉に、確固たる決心を固めていた筈の胸までもが揺れていることがわかった。

 ――……これは、やばい。

 直感的に、そう思った。

「ま……まだ若ぇじゃん。なんで? んな……急いで結婚とかしなくてもいんじゃねぇの?」

 ――何言ってんの、おれ?

 心の中ではそう自分を止めたのに、焦燥は顔に出てしまっていたらしい、利佳は眉を顰め、怪訝な表情をしながら蓮を振り返った。
「……? なに青褪めてんのよ」
「え、……んなこと、ねぇよっ」
 蓮が利佳から目を逸らして俯くと、その不躾な態度に舌打ちをした利佳は手にしていたベビーピンクのワンピースをあっさりと捨てて、蓮の方へと近寄ってくる。

「っ、」

 ――結婚なんてしちゃったら、ほんとうに、おれなんて、いらないやつになっちまう。

 ――健悟の隣あいてるって、言ってた癖に。俺の隣が居場所だって、言ったくせに。

 健悟を兄と仮定し喜んだのはもう一ヶ月も前の出来事だ、本来ならば嬉しい出来事だったはずなのに、喜ばなきゃいけないはずなのに、……でも。

 ――やっと、言おうって、そう決めたのに。

「なによ、寂しいの?」
「……ちっげぇよ、バァカ」
 目の前に迫った利佳があまりにも緩んだ顔をしていて、からかっているような発言に、蓮は即答を返した。
「…………」
 けれども利佳は唇を尖らす蓮のその狼狽ぶりに片眉を上げ、全く目を合わせようともしない弟がただ事ではないことを悟っていた。
「? ……あんた、なーんか誤解してない?」
「、……は?」
 利佳は手の甲を使って、蓮の顎をぽんぽんと叩いた。ぺちぺちと薄い肉が揺れる感触はあれども、その上にある表情はどこか泣きそうなもので、何も変わらない。利佳が訝しむような視線を蓮に送れども返って来るのは気まずげで怪訝な表情でしかなく、段ボールが積まれている利佳の部屋からぱっと目を逸らした蓮を、利佳は目敏く追求した。
「……ちょっと待って、あんた、…………ちょっと。あたしが結婚しようとしてるひと、誰だか分かってるわよね?」
 若干の焦燥を込めて利佳は言ったが、蓮がそれに気付くことはなく、尖らせた唇をそのままに答える。
「知ってるよ……」
「誰?」
「っ、……健悟だろ!」
 なんでこんなこと、と思いながらも、未だ認めたくない現実に顔を背けながら蓮は口にした。
 言葉にすればそれだけで現実味を増したかのようで急速に頭に血が上り、自分がこれからしようとしていた罪悪に押しつぶされてしまいそうだった。
「………………」
「、……?」
「………………」
 しかし、返事を待てども、訊いて来たはずの本人からは一向に言葉が返って来ない。
 嫌味に対する反応の早さだけは右に出る者は居ない利佳が返事に困っていることに驚き、蓮は答えに怯えながらもそろそろと目だけを上げて静かに問うた。
「…………、利佳?」
 けれども次に蓮に返ってきたのは肯定の返事でも否定の返事でもなく、まるで目の前で爆弾が爆発したかのような――頬への衝撃のみだった。
「……――いぃってぇえええっっ!!」
 べッチーン!! と漫画のように綺麗な効果音がした原因は、聞かずとも己の頬の痛みで分かる、利佳にビンタされたらしい頬が急激に熱を持ってはじりじりと痛み始めた。
「……このバッカ」
「はぁああっ!?」
 人の頬を全力で叩いておいて、最初に出た言葉が、バカ? は? バカっつった、こいつ?
 余りの痛みに頬を両手で押さえていた蓮までもが、「なんだてめぇ!」と腕を振り上げそうになったところで、利佳は自分の腕をずいっと蓮の目の前に差し出してきた。
「………………」
「……、え、?」
 利佳の細く白い腕に生じる違和感は所詮鳥肌というもので、蓮がその腕から顔を上げれば「見たか」とでも言うような顔全体を歪めた表情がある。利佳はこれ以上ないほど心底嫌悪するかのような表情のもと、蓮を鋭い目で睨み付けた。
「……ばか、あほ、愚弟」
「……え、え?」
「不吉なこと言ってんじゃねぇっての、……なんであたしがあんなバカと結婚しなきゃなんないのよっ!」
「、……へ…………」
 話の流れで言えばここで言う「バカ」に当たる人物はひとりしか思い浮かばず、余りにも憎々しげに力を込めた利佳を見て、蓮はまるでお預けを喰らって動けない良犬のようにその場で静止する。
 蓮が振り上げていた腕を下げることも出来ずに呆然とする一方、利佳は鳥肌の立っているらしい両腕を交差した両掌で擦りながら、これ以上蔑むことはできないとでも言えるような呆れた目線を蓮へと送りつけた。
「あのねぇっ! だから、最初っから言ってあったでしょ!? あんたには悪いけど、あたし健悟のこと大っっ嫌いだからって!」
「、…………は、だ、だって、え…………え?」
 本気で忌み嫌うような利佳の様子に蓮は驚きを隠せず、視線を右往左往させることしかできない。
 思わず確認した利佳の指には、男物の指輪は嵌っていない。細い指はそのままに何も装飾品を纏っておらず、確かに、あの日健悟に嵌めてもらったぶかぶかの指輪は、まるで陰を潜めるかのようにあの日以来姿を消しているのだった。



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