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 そして他愛ない話を広げていき、長いようで短かった三十分弱のビデオメッセージが終わりを告げようとしていた。順に告げる最後のメッセージとしてはお決まりに、『見てくれてありがとう』と出演者が口々に告げている。
 例に違わず最後を飾るために健悟のもとへとカメラが向かうと、彼はまた左手で眼鏡を上げた。
 右利きなのに左手を使うわざとらしさに気付くのは蓮のみで、気付いたが最後、明らかに故意にされるそれの白々しさには今すぐに文句を言いつけてやりたいほどだった。指輪が光る度に、見送りの気まずさを払拭したいと、やり直したいと、今すぐに逢いたいと、堪えきれない感情が胸のうちを走り抜けて行く。
 潰れそうなほどにどきどきうるさい蓮の心臓を知らない健悟は、最後に一言、と告げた司会者に、困ったように笑っているだけだった。
『そうですね……』
 そう言って少しだけ俯いた健悟の先に何があるのかは、蓮だけが知っていた。
 俯きながらも少しだけ左に逸れた目線を蓮は目敏く悟り、願望でも自惚れでもないだろうそれに、情けなくも今すぐに泣いてしまいそうだった。
『……えーっと、こういうのは苦手なんですけど……そうだな、』
 照れながらも小さく笑みを見せた健悟に体育館内がざわめいたのは一瞬、健悟が真面目な顔をしてカメラを直視し、形のいい唇をゆっくりと開けば、何人たりとも音を発することは無かった。
『一か月、楽しかったです』
 当たり障りのない言葉でも健悟が最後に紡ぐというそれだけで、体育館内の空気が一変した気がする。普段のテレビで見る彼よりも幾分も朗らかな彼の貴重な一言を逃すまいと、皆が感覚を研ぎ澄ませていることがわかる、静聴な空間だった。
 健悟はゆっくりと、まるで一言一言がとても重要であると言わんばかりに、低い声で音を奏でていく。
『……本当に、すごくすごく、楽しかった。また近いうちに遊びに行きたい、大切な場所になりました』
 蓮の脳裏に過ぎる彼のようにふわりと笑うことはなかったけれど、それでも少しだけ眼を細めて優しげな表情になった健悟を生徒たちが見逃すはずもなく、途端に顔を赤くする者が増えていく。
 そんな様子も知らない健悟は一瞬だけ指輪に視線を預けてから、ようやく、『ありがとう』という感謝の五文字を口にした。
 先程から何度も使われていた五文字だというのに、健悟の口から発された響きの懐かしさに、ぐらりと蓮の視界が揺れた。
「、」
 少しだけ甘さを孕んだ声、敬語ではなかったというそれだけで、直前に健悟が左手に目線を預けていたかもしれないというそれだけで、たかが五文字が自分に投げられたかのように錯覚してしまう。
 こんなに大多数の人間が見ている中でそんなに直接的な言葉を投げてくるはずがないと、重々承知している。承知している、はずだった。
 けれども健悟のインタビューが終わったそのあとで、『ありがとうございました〜』と司会が笑顔で纏める中、口々に『バイバイ』や『さようなら』を繰り返す出演者の中、健悟だけが、『またね』と小さく唇を動かしていた事実に気付いた時、蓮の身体に鳥肌が走った。
 蓮が見送りをしたときと同じ言葉、気まずい空気の中でもただひとつ輝いて見えた魔法の言葉、それは小さく動いた唇のせいで言葉にはならず文字を模っていただけのようにも思える。
 それでも確かに、蓮は見た。
 毎日見てきた健悟が、幾度も触れた唇が、そう紡ぐのを蓮は見た。
 沸き上がる蓮の興奮を肯定するように、画面の中の健悟は左手で手を振っている。ただの一度も、別れの挨拶を口にはせずに。

 ――『またね。』

 現在と過去の記憶で、目の前で静かに左手を振っている健悟と、頭をくしゃりと撫でながら甘い声を出した健悟がシンクロする。
 遠い未来どころか近い未来ですら実現されることはないと思っていたそれだが、こんなにも多くの生徒の前で、こんなにも赤裸々にプライベートを話すというリスクを背負ってまで伝えてくれたということは、自分たちの関係はまだすべて終わっていないと、本当に、本当に本当に、信じても良いのかもしれない。
「っ、」
 蓮がそう思って唇を噛んだ瞬間、映像はプツリと消えた。
 最後に映った健悟はやはり微笑むことはない“真嶋健悟”のままだったが、それでも光る小指だけが全てを肯定してくれていた。
 特典ともいうべき稀少な映像が消えるのは一瞬で、体育館内では暗闇の中、それを振り返る賛辞や興奮の言葉で溢れ返っていた。
 格好良いと、嬉しいと聞こえる声を幾度数えても足りない。猪突猛進に賛美の声を繰り返す生徒は多数いる。けれども何人かは健悟の言っていた現地の話を推測しては、小指に光っていた指輪について触れていた。
「ねぇっ、なんで中指に指輪なかったの、真嶋健悟!」
「わかんない、どういうこと? 話してたことと関係あるのかな?」
 野次馬根性丸出しで話される話題、それを聞いて背骨を震わせるのは蓮のみで、今が暗闇で良かったと心から思った。
「でもでも中指のはなくなってたけどさ、小指にはついてたよねっ、ピンキーリング!」
「ていうか! 真嶋健悟がアレ以外の指輪左に嵌めてるの初めて見たんだけどっ!」
「何言ってんの、そんなん当たり前じゃん! よっぽど大事な指輪なんだよきっと!」
 女子とは席は随分離れているというのに、蓮の場所まで興奮しきった声が届いてきたということは、それほどまでに大きな声での会話だということだ。
 そしてそれを耳にして、蓮は静かに唇を震わせながらも再び自身の右手を握り締める。けれども、小指に嵌まるそれを取ろうとは一瞬たりとも思わなかった。どんなことに巻き込まれても隠しても、嘘は吐きたくないと、健悟との思い出を消したくはないと、そう心から思ったからだ。
「大事な指輪って……まさかここにきて彼女とか?!」
「えーっ!」
「……っ!」
 きゃあきゃあと騒ぐ声に、蓮は顔を赤くして俯く。
 たかが指輪を変えたくらい、そう思うのが間違いだったらしい。指輪を貰ったあのときは健悟が嵌め間違えたとすら思ったけれど、きっと、これには意味がある。何か意味が必ずある。

 ――そう、信じたいだけかもしれないけれど。

 消えた中指の事情も、今ならば問い詰めてやりたいくらいだ。言葉が足りなかった、嫌われるのが恐くて恐くて、前に進む勇気がなかったからだ。
 けれど今、何日経っても後悔するのなら、気持ちが消えるどころか加速していくくらいなら――もっとちゃんと、いっぱい、話せば良かった。
「っ、」
 蓮が暗い後悔を抱えた瞬間、それに反するように明るい電気が幾つも点された。
「えっ、」
 けれども前が全く見えなくて、蓮は情けない疑問の声を上げる。
「ちょ、蓮ちゃん……?」
「、は?」
 隣から聞こえた訝しげな声に振り向くけれど、そこに居るはずの人物、武人がぼやけてしまって全く見えない。
 一瞬何が起きたのか分からず蓮は停止してしまったが、握り締めていた拳にぼたぼたと雫が落ちてきたことで、ようやく事態を悟ることができた。
「……っ!」
 気付けば頬が何重もの道で濡れていて、蓮は急いで二の腕に目元を押し付けてはワイシャツで顔を覆った。
 けれども制服がじわじわと濡れていくだけで一向に涙が止まることはなく、自分が泣いていると自覚をした途端に余計に目の奥が熱くなってきた。俯く暗い視界の中、胸中を駆け巡る感情の波が何波にもなり過ぎて、ひとつひとつを捕まえて抑えることがどうしてもできそうにない。
「っ、……わりぃ抜ける、シバセンに言っといて」
 だからこそ、持参した木椅子は幼馴染に任せてこっそりと体育館を出て行った。未だざわめきが続く体育館で蓮ひとりに焦点をあてる者も居らず、蓮は何かを振り切るように走って逃げた。
 そして、体育館を出てからは、走って、走って、誰にも見付からない場所へとやってきた。
 健悟と別れてからは一度も来ていなかった場所、来れば必ず思い出してしまうと分かっていた場所。それすら、加速して始めた気持ちに委ねれば最善な場所にすら思えてきたからだ。
 ばんっと勢い良く扉を開けば健悟と一緒に見た真っ青な空が広がっていて、余計に視界がブレてくる。
 じわじわと涙で歪むせいで白い雲が見えないことは勿論、唯一見える強い光、太陽すらも縦長に伸びきっていた。
「……んで、嵌めてんだよっ……」
 ダンッと壁を蹴るけれど、膨れ上がっている気持ちが全て逃げていく訳ではない。次から次に感情が作られていき、その逃げ場として頬には透明な道が増えて行く。
 健悟が東京戻れば自分のことなんかどうでもよくなって、忘れてしまうと思っていた。下手すればもう、忘れられたかもしれないと怯えていた。
「忘れたんじゃ、なかったのかよっ!」
 もう一度壁を蹴っても痛いのは自分の足だけで、何の意味も為さない。
 武人の、言った通りだ。
 聞いてみなければわからないことが、たくさん、たくさんあるのかもしれない。
「……笑ってんじゃねーよ……」
 けれどもいまは、久しぶりに見た健悟の演技に、健悟の話し声に、健悟の笑い声に、――しっかりと嵌まっていた小指の指輪に、涙が溢れて仕方がなかった。
 いつの間にか、こんなに、好きになってた。
 自分のちっぽけな身体なんかには抑え切れないほどに、ほんとに、ほんとに、だいすきになってた。
 無理じゃんこんなの、いつまでたってもかわんねぇじゃん、――……健悟、消えてくんねえじゃんか。
「……ふっ、……」
 久しぶりに見た健悟を思い出しては、まだ変わらない想いに囚われていることに改めて気付かされ、蓮はその場に蹲った。
 下を見れば乾いたアスファルトに点々とした模様が施されていくけれど、それを見ながらも頭に浮かぶのは健悟一色。
 映画が始まり健悟が出て、懐かしい姿を目にした途端に開いていた穴が塞がっていく気がした。欲望が満たされて、マイナス原子ばかりが溜まっていた身体に、じわじわと懐かしさと優しさが溢れていった。
 黒のカラーコンタクトとスーツで演技をする健悟の下、灰色の綺麗な瞳と髪の毛があることは、他の誰でもない自分だけが知っている。そう思っては優越感に駆られその心地良さに鳥肌が走ってしまった。
 けれども映画のキスシーンを見れば、今にも叫んでしまいそうなほどに嫌だった。
 きゃあきゃあと騒ぐ女子の声すら耳障りで、思わず下唇を噛んでいたらその強さに血が出てしまいそうだった。
 それほどまでに、感情を、動かされている。
 プラスの感情もマイナスの感情も、全て健悟の一挙手一投足で、無数に動かされている。
「……くっそう……」
 悔しいけれど、認めざるを得ないんだ。
 どんだけ嫌いになろうとしても、このさき、きっとそれは無理なことにちがいない。
 すきだ。すきだ。すき、すき、すき。爆発しそう。息が苦しいくらいに、いますぐ好きって言いたい。伝えたかった。
 どれだけ健悟のことを考えても嫌いになるはずがないと、あの別れ際の寂しそうな顔に伝えてやりたかった。
 ――逢いたい。
 今すぐに逢いたい。
 健悟に逢って、健悟の見ているものを見て、同じ目線で話がしたい。
 好きって伝えたい。何を言われてもいいから、どう思われてもいいから、とにかく伝えたい。
 武人の言う通りだ、望みがたった一パーセントしかなかったとしても、健悟ならば大丈夫。そう信じて、一言だけ伝えるだけでも良いから、言いたい。
 言いたい。
 伝えたい。

 ――逢いたい。

「っ、」

 ――……東京に行きたい。

 それはいつも思っていたことだったというのに、初めて明確な理由を持ってそう思った。
 漠然とした気持ちじゃなくて、やりたいことと、やらなければならないことがある。初めて、そう思った。
 例え利佳のことが誤解じゃなかったとしても、所詮は自分の押し付けだと分かっているつもりなのだから、何か言いたいわけじゃない。ちゃんと聞く。事実でも受け止める。そうしなきゃきっと、何も変わらない。
 武人が、単純で良いって、そう言ってくれた。
 ただもう一回逢って、もっとちゃんと話したい。自分のせいで曖昧にしか別れられなかったことを、やり直したい。
 こんな気持ちを肯定してくれた親友のためにも、やっと本当に認めることができた自分のためにも、今度こそは家出じゃなくて、ちゃんと東京へ行こうと、そう思った。

「……あ゛ーーーー」

 いつ行くか。
 そんなこと、決まってる。

「…………っしゃ!!!」

 頬にあった幾重もの道を断ち切って、蓮はぐっと拳を握り締める。
 そして、次に屋上を訪れるときにはきっとあの時以上に清々しい光景に出会えるに違いないと、そう信じて扉を閉めた。





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