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 上映が始まればあれほどざわめいていた体育館ですら口を開く人物は一人も居らず、時折聞こえる音といえば驚きでつい漏らしてしまった声音や唾を飲む濁音ほどのものだった。
 誰もが認める真嶋健悟の演技と言えば圧巻としか表現することができず、たしかに蓮の部屋に居たのは遠いスクリーンに居る彼だったはずなのに、本当にそうだったのだろうかと今更疑ってしまうくらいには見入ってしまった。
 違うのは何も姿容だけではない、話し方や立ち振る舞い、果ては呼吸の仕方までもが違うのではないかと疑うほどに、蓮の隣で嗤っていた健悟とは程遠い、きめ細やかで精妙な呼吸だった。
 たとえば服の脱ぎ方や着方の細かい癖ですら、蓮が見てきた所作とは違い、それこそが役に没頭している証拠となる。こういうことの一つ一つを監督に言われるまでもなく自分で仕上げるのだろうと思っては、びっちりと文字が書かれた台本を思い出した。
 けれどもただ一度だけ、ベッドで寝ているシーンの中で、十分に大きなベッドだというのに健悟は大の字に広がることもなく、足を折り曲げて眠りに就いていた。いつもと同じ方向、人ひとり分が空いたスペースの横、蓮が居る右側を向いたまま眠りに就く寝方を見た時だけは、心が温かくも懐かしくもなり、ぎゅっと締め付けられる気がした。
 以前羽生の家に集まった時に少しだけ聞いたストーリー、教師に扮する真嶋健悟が問題が多く慌しい東京での日々と、1ヶ月の研修で訪れた田舎との相違から人生を見つめなおすというものだ。
 スクリーンの中で展開される恋愛も勿論東京から来た健悟と此方に住む女性との恋愛で、所詮は現在進行形で片想いというものに浸っている蓮だからこそ、相反する地に立つ自分たちがよく出逢えたと、距離は離れていても想いは変わらないと、画面の中で熱を込めて言う健悟の台詞はそれだけで息すら止まってしまいそうなほど心に沁み込むものだった。
 ラストに行くに連れ駆け抜けていくストーリーはシンプルなようでよく練りこまれており、物語を追うことはとても楽しかった。けれども、やっぱり、――その先にあるキスシーンだけはダメだった。
 健悟が宿泊する旅館で悪戯混じりに演じられた疑惑のシーン、思えば二回目のキスをしたのはこの台本があったからで、言ってしまえばあのときの自分は所詮、いまスクリーンに映っている女優の代役だったのだ。そうは思いたくはなかったけれど、実際に目の前で二人の唇が触れるというダメージは予想以上に大きく、眉根が寄ってしまうことも無理のないことだった。理不尽な怒りだとは思いつつも、ほかの人に取られるのかと思うそれだけで身体中に火がついてしまいそうになり、目の前が真っ赤になるとはこういうことかと理解した。
 慣れたように女優の腰に回る手も、顎をすんなり上げるその所作も、額をくっつけ微笑む顔も、どんどん近付く唇も――いやでいやで、ぎゅっと掌を握りしめることしかできなかった。
 爪痕が掌にびっちりと残り、真っ白になっているだろうことが暗闇の中でも安易に予測できる。
 俯いた蓮には分からない画になるキスシーンが展開されているスクリーンの中、一番の盛り上がりのシーンにふさわしく盛大なBGMが館内を支配した。主題歌は言わずと知れた真嶋健悟が初めて唄った曲であり、皮肉にも蓮の着信音とまったく同じメロディの中でキスをする二人に、今すぐにでも上映を止めてしまいたいと一瞬本気で思ってしまった。
 うっとりするのは女子だけで、早く過ぎろと、強く願っていたのもまた蓮だけだったのかもしれない。キスシーンが去れば別れのシーンとなり、二人のその後を追ってはまた巡り合う五年後を描いて映画は無事に終了した。長い長い撮影期間は二時間という短い映画に収縮され、これを見終わると同時にまた、本当に健悟は東京に帰ってしまったのだと、遠い人になってしまったのだと、近く触れ合った日々を思い出しては胸がぎゅっと締め付けられ巧く息ができなかった。
 しかしこれほどまでに主題歌が注目される映画も珍しく、エンディング曲の作詞作曲欄に真嶋健悟の名前が出ただけでしおらしい空気は壊れ、幾人もがスクリーンを指さしては黄色い声をあげていたほどだ。また、エンドロールすら映画を最後まで楽しませる工夫として完結後の風景などが散りばめられており、目を逸らすものは皆無に近かった。協力地域に己の高校の名前や地域名が挙げられれば途端にざわめいたが、蓮は興奮に任せることなくただ画面を見つめているのみだった。隣に武人が居たことも忘れて、ただ前を見続けた。
 映画自体に終わりの文字が流れる際には誰からともなく拍手が沸き起こり、例に漏れず蓮もその波に自然と乗っていた。出演者の誰も居ないステージに向ける拍手だからこそ、誰に宛てるものなのかもわからないけれど、この拍手と歓声が東京まで届けば良いのにと有り得ないことを思った。
「………………はぁ、」
 映画の全貌を見てその出来の良さに蓮が思わず溜息を漏らす。画面に健悟が居なくなった今でも、胸の鼓動が通常振動を超えたまま一向に戻って来ないからだ。
 面白かった。
 素直に、そう思える作品だった。
 それ以上に、――格好良かった。
 普段の健悟を見れば認めたくないことだけれども、やっぱり、本当に格好良いと思わざるを得なかった。所作のひとつひとつが優雅で、普段の健悟の姿は全て隠されていた。これが演じるということなのだろう。
 想定はしていたもののあまりにも演技が巧すぎる彼に、日常生活のどこまでが演技だったのか否か、やはり想像はつかなかった。
 
 映画は終わったというのに体育館の電気が点く気配は一向になく、生徒は段々とざわめきを取り戻して行く。画面は真っ白となり、エンドロールの終わったいま、当然何も映っていない。映像もなく音声もない垂れ幕がただ飾ってあるだけだ。けれどもざわざわと煩い館内とは正反対に教師陣は全く焦りの色を浮かべておらず、蓮がそのことを不審がっていた、そのとき。
 
 ――ふっと、突然館内が明るくなった。

『――こんにちは。』

 前のステージに、再び映像が映し出されたからだ。

「なっ、」
 思わず声を上げたのは蓮のみではなく、むしろ予想外のサプライズに体育館中から黄色い声が響いてくる。
 画面には映画の主要出演者が四人並んで座っており、笑顔を崩さぬままに『楽しんでくれましたでしょうか?』と告げている。
『えー、現在の時刻はですね、九月十六日二十三時五十二分。皆さん、これ、録りたてです』
 腕時計を見ながら言った人が司会進行役なのか、こそっと画面に告げるように言えば画面からも館内からもくすくすと笑いが漏れた。
 日付は昨日どころか数時間前のものであり、なによりも新しい映像だと知る。東京では流れないだろうサービス映像はまさしくこの学校のためだけに録り降ろしてくれたもので、生徒たちからはきゃあきゃあと煩い声が一向に止むことはなかった。
 映画は既に録り終わっていたというだけに、四人とも映画の格好ではなく私服のようにカジュアルなもので映っていた。流石は芸能人と云うべきというものを纏っていたが、スケジュールも合わないだろうこれは無理矢理録ったということが安易に予測でき、これすら健悟の考えたことなのだろうかと目を疑ってしまう。
『やー、どうでしたか、映画。ロケ行きましたけど』
『どうって。大雑把過ぎないー?』
 先ほどの男が主演女優に尋ねると、くすりと微笑まれながら遮られてしまった。けれども彼女はその後にこの地の綺麗な空気を褒め、ゆっくりと流れる時間を褒め、澄みきった空を褒め、最後にはにっこりとカメラに微笑んでくれた。
 多くの男子生徒はそれに恍惚としていたが、蓮にとっては然程問題ではなく、彼女がアップになるシーン以外はずっとひとりの人物を見つめ続けていた。
 彼女が喋っているというのに目線は外せず、懐かしい顔を眺めていた。この場に居る数百人が焦がれた人物が、あんなにも近くに居たなんて、まるで夢のようだったとぼんやり思う。
 目の前に居る健悟はあくまでも“真嶋健悟”のキャラクターを被る人物だ。健悟のように無邪気な微笑みも浮かべなければ、優しい目元を見せることもせず甘い声を発することもしない。薄い笑みを浮かべては淡々と喋る健悟はただ見ている人物を魅了して、まるで自分がこの企画を立ち上げたことなどないとでも言いたげに泰然としたものだった。小さなベッドの上でぎゃあぎゃあと騒ぐ健悟とは正反対、人を抱き枕代わりにしては眠りに就く優しい表情とは正反対、男だというのに長い足を優雅に組む所作さえ欠点一つなく似合ってしまっていた。
「……?」
 しかしひとつだけ、いつもと違うと違和感を覚える場所がある。

 ――健悟が、眼鏡を掛けているのだ。

 けれども実生活のように黒縁眼鏡ではなく銀の細いフレームの付いた眼鏡で、頭も育ちも数倍良く見える代物だった。
 たかがそれだけで女子は歓喜しているけれど、大半の人間は疑問すら持たずに興味だけで終えていた。格好いいと叫ぶ女子の傍ら、蓮は、集中する時以外は付けないと言っていた健悟を思い出していた。そして記憶を辿れば、たかがゲームで装着し本気になっていた子供を思い出し、ふっと口元が緩んでしまう。
 けれどもなぜ今、改めて眼鏡を掛けているのだろうか、たかが一学校への収録映像、特に気負うこともなく、集中するときでもないだろうに。
 ふっと蓮の頭に過ぎった疑問ではあったけれど、所詮はスキナヒトと認めてしまっただけに、そんな些細なことはどうでもいいと投げ出し、健悟の一挙手一投足を逃さず見つめるよう集中した。
 インタビューの途中でようやく気付いたらしい武人から「あれ、真嶋健悟って眼鏡かけてたっけ?」と尋ねられたが、外界を遮断して健悟だけを見つめる蓮の耳には届かず、武人は呆れながらも笑いを堪えていた。
 そこからインタビューは約十分、キャストひとりひとりに用意された質問を答えて行く形式のようだった。必ず最後を飾るのは健悟で、当然とでもいうように何度も健悟の顔がアップになる。健悟は自分が答える番だと知りカメラに薄い笑いを浮かべて軽く会釈をしたのだが、その瞬間が、今日一番の歓声が上がったと言っても過言ではなかった。

 ――そして、この健悟へのインタビューで、蓮の疑問も解決することとなる。

「……っ、」
 想定外の事態に蓮は思わず下唇を噛んで、椅子ごと後ろに後ずさりそうになってしまった。
 信じられないものが、目に映ったからだ。
 蓮は思わず自分の右手を隠すように左手で覆ったが、若干震えながら行われたその動作に気付いた者は、広い体育館内を探しても武人のみだった。
 眼鏡をあげる以外は殆ど微動だにしない“真嶋健悟”は所詮キャラクターというもので、知的そうな彼は冷静沈着そのものだった。
 しかし、彼は右利きのはずなのに、わざと左手で眼鏡を直している。
 
 ――小指だけに指輪のついた、左手で。

「、」
 真嶋健悟はずっと組んだ足の上に手を置いていただけに、眼鏡がなければ気付くことはなかったかもしれない。
 VTRの冒頭では、この映像は昨日録りたてだと言っていた。ということは、まだ、健悟の左手には同じ指輪が嵌まっているということだ。忘れられているわけでも、嫌われているわけでもない、彼の言うところの友情の証というものは、未だ継続していたこととなる。
 それに蓮が気付いた途端、健悟が映るたびに、とくん、とくん、と揺れていた心臓に更なる加速がついてしまった。自分でも抑えきれないくらいにドクドクと激しく脈打ち、近くに座る人たちには自分の心臓の音が聞こえてしまうのではないかと疑念を抱いたほどだった。
 たったこれだけで頭がパンクしそうになってしまっているというのに、真嶋健悟へのインタビューは更に蓮への拍車をかけるものとなる。
 質問は先ほどのキャストと変わらず、当たり障りのない質問だ。ロケに行ったということで何か美味しいものは食べたのかというごく普通の質問。他の三人は旅館で食べた新鮮な料理を口々に褒めては盛り上がっていたが、健悟だけはその話に参加することはなかった。その意味がようやく、次の回答で知るところとなったのだ。
 目玉が落ちるという表現を人生で初めて使いたくなるのは、数秒後のことだった。



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