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 武人が蓮の家に来てから、真面目な話をしたのは高々二十分。たかがそれだけの時間でも、充分すぎるほどに心は晴れた。
 それからは久しぶりに蓮の家でゲームをしたり数年振りに映ったテレビで野球を見たり、なんでもない時間をただただ過ごしていた。
「――じゃ、また明日ね」
 いつもならば蓮の部屋で言うはずの台詞が今日は玄関前、見送りというオプションが付くというそれだけで面倒臭さの塊である彼にとっては大きな進歩だった。
「あー、あー……」
 しかし、引き止めたいのか見送りたいのは蓮は唇を尖らせながら視線を外して、気まずそうに何か言いたげな表情をしている。
「ん?」
「……あーりがとう、ござい、マシタ」
 ぺこり。下げられた角度は首だけ動かす小さなものだったけれど、確かに紡がれた言葉に武人は頬を緩める。
「へたくそ。どーいたしまして」
 狭い額にデコピンをすれば顔を歪められたけれど、若干上気している頬を見れば恐くもなんともなかった。
「超感謝して?」
「……いだい」
 ふざけて武人が言えば、割と本気でデコピンされた額を両手で押さえるものだから、ざまぁみろと笑って家を出る。
 また明日、という当たり前の約束が嬉しくて、久しぶりに一緒に睦の朝食を食べてから家を出ようと、両者口にせずとも思っていた。



 武人が居なくなればこれといった用事もなくなった。
 先ほど床を滑らせた携帯電話を思い出せば、ずっと放置していたメールとやらを打ってみようかという前向きな発想にすら発展する。相手は言うまでもなく、ここ数週間見ていない絵文字へだ。
 でも何を送ろう、と考えるのは当然のことで、蓮は難しい顔をしながら玄関先を後にした。
 けれども自分の部屋に行くことは叶わなかった。慣れた声に、呼び止められてしまったからだ。
「言ったの?」
 誰も居ない廊下で、――利佳に。
「……何を?」
「何って」
 鼻で笑った利佳の様子にむっとして、蓮は少しだけ尖った眼光を送った。
 先ほど武人から言われた言葉の数々を思い出す。あれは今までだったら利佳が仲裁に入ってくれていた筈だけれど、きっと利佳に言われていたら下心を探っていたかもしれない。
 武人に言われたから、納得して吸収することが出来たのだ。
「……前から訊こうと思ってたんだけど、おまえどこまで知ってんの?」
 今まで逃げていたことに、少しの勇気を出して蓮が口に出す。
 ――知ってるとして、どういう気持ちで訊いてんの?
 そこまでは、心の中に留めたけれど。
 健悟を信用したい、する、誤解かもしれない、頭の中で色々な感情が渦巻いてくるけれど、それでもやっぱりさっきまでのすっきりした気持ちを邪魔するように少しずつ怒りが湧いてくる。
「どこまでって」
 余裕ぶりながらも馬鹿にしたような利佳の態度が、どうしても蓮の気に障ってしまうからだ。
「知ってるよ、全部。あんた以上に」
「、」
 腕を組みながら自信満々に断言されて、少しだけ怯んでしまったのは言わずもがな蓮の方だ。武人に諭されたものの、さっきの今で、全てを受け止めることはできそうにない。もう一度ゆっくり自分の中で決着をつけてから、どう動くかを考えたかった。
「なに、それ。おれのこと? あいつのこと?」
「両方」
 しかし湧き上がる好奇心には逆らえず蓮は問う。拳を握りながら答えた蓮とは反対に、右手で携帯電話を操作しながら軽く答えた利佳に、余計に眉を顰めてしまったことは否めない。
 利佳は携帯電話を操作しながらもその矛先を蓮に向けていて、蓮は訳も分からぬままに素直に怒りと不満の色を出していた。
 状況を覚ったのはパシャリと聞きなれぬ音が聞こえた瞬間、携帯電話から白いフラッシュがたかれて、自分の写真を撮られていると分かったときだ。
「なにすんだよっ」
 蓮が顔を隠しても時既に遅し、利佳はカコカコと携帯電話のボタンを操作していて、嘲るように笑ってみせた。
「ダッセー顔」
「ああ?」
 ぷっと笑った利佳にぐいっと怒りのゲージが上昇するのは当然のことだった。蓮が利佳との距離を縮めれば、それに気付いた利佳は携帯電話の画面を反転させて今撮った映像を蓮に見せてくる。
「あんたいまこんな顔してんだよ?」
「…………」
 その見せられた画像に、蓮は「う、」と言葉に詰まってつい足を止めてしまった。
 確かにこれは武人が違和感を抱かないはずがない、むしろ今までよく放っておいてくれたと、感謝さえしたいような顔が映っていたからだ。
「目ぇ赤いわ腫れてるわ、すっごい隈。誰あんた。あいつが知ったら飛んで来そうな顔よね?」
「……知るか、関係ねぇよ」
「あーっそ」
 利佳に指摘された目元を擦って、蓮は俯いた。昨日まで毎日ではなく、ついさっきまで滂沱の涙に塗れていただけに、当然といえば当然の顔なのかもしれない。
 誰が見ても泣いたと分かる顔が恥ずかしくて、蓮は利佳から離れながら冷蔵庫へと向かっていた。冷凍庫から出した保冷剤をタオルでぐるぐると巻いてから、利佳を無視して自分の部屋へと続く階段を上っていく。
「――関係ないんだもん、別に良いわよね」
 だから、その背中を見ながら、利佳が呟いていたことを蓮は知らない。
「知ぃーらない」
 その写真が添付されたメールを、恍けた顔をしながらもしっかりと健悟に送りつけた利佳の行動も、蓮は知る由もなかった。



 一方で部屋に戻った蓮は目元に保冷剤を当てながらうんうんと唸っていて、掠れた唸り声は止むことが無かった。
 携帯電話の操作方法、メールのつくり方は問題ではない。以前健悟に教えてもらったからだ。ろくに使われていないアドレス帳から久しぶりにハートマークを探し出して、宛名画面に入力するところまでは容易にできたのだ。
 ただ、たかが絵文字一文字だというのにそれだけで健悟を思い出しては、今更になって心臓が脈打ち始めたけれど。
「…………」
 しかしそこから格闘すること三十分、打った文字を書いては消して、書いては消して、いつの間にか時間だけが過ぎ去っていることに気が付いた。
「あー……むり、」
 送りたいけれど、話題がない。
 元気? という不自然な三文字を作成したけれど、返事がなければどうしようという不安にも駆られてしまった。もっと、中身のある話をしなければ。
「明日、映画の感想……送ってみっかな」
 冷たい保冷剤に意識を委ねながら、蓮はもぞもぞと枕に顔を押し付けたけれど、それでも昨日までよりは随分と気持ちが軽くなった気がした。
 億劫だった映画の試写会が少しだけ楽しみになる。映画自体を見てみたいと思うのは勿論だが、動いている真嶋健悟からずっとずっと逃げていただけに、姿を見ることが随分と久しぶりな気さえしたからだ。
 ――健悟に、逢える。
 そう思っただけで、再び心臓は煩さを取り戻し、期待で胸がはち切れそうになってしまった。



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