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 そうして、蓮が起きたと同時に時計を見れば、時刻は18時すぎ。いつもならば健悟が帰ってきてこの部屋に居ても可笑しくない時間だったが、蓮が帰宅したとき以上に健悟の香水の香りが強くなっているようには思えなかった。
 階段を通して一階から睦と祖母の声が聞こえるも、利佳や健悟の声は一切しない。しかし、未だ断続的に健悟の香水の香りが蓮の鼻腔を擽り、その度に頭の中に出てくる人物になんともいえない気分になってしまうことは寝ても覚めても変わらないようだった。
 舌打ちと共に携帯を見れば、きっと忙しいだろうハートマークから、何故かきっちりとメールを受信している。数時間前の着信だったが、変わらずに届くメールにどこかほっとしている自分が居ることは、もう否定できなかった。ただ、いつの間にか、この部屋で健悟を待っている自分。ゲームを片手に「今日は遅いな」とちらり時計を見ていたことは、自分が一番良く分かっていた。疲れた顔で戻ってきても、オカエリと声を掛ければ笑ってくれる健悟に癒されていたことは事実だった。
 しかし、蓮が薄いタオルケットに包まったままぼうっとしていても、一向に健悟の声がする気配がない。段々と過ぎて行く時間、いつもならば確実に帰ってきている時間だと言うのに、数時間前の着信以来携帯にメールも届かなかった。
 健悟とメールするようになってから、蓮には自然と携帯を眺める癖がつくようになった。普通ならば至極一般的な出来事だが、蓮にその習慣はなく、すっかり文字を打ち込む早さが変わってしまったことには自分が一番驚いていた。
 そしていまも、自然と視線が追う先は一昔前に流行ったモデルの古い携帯。もちろん、マナーモードは解除済みである。何時の間にか健悟のメールを待っている自分に気付いた瞬間鳥肌に襲われ、蓮はちょっと待てと呟きながら口元を押さえた。
 今までは毎日家に戻って来ていたから何も言及することはなかったが、健悟がこの家に確実に帰ってくるという保障は何一つ無いのだ。仕事で疲れているというのに、わざわざこの家に来る必要も、あんなに美味しい旅館の御飯を棒に振る必要も無い。況してや、明日は健悟の誕生日だという。
 ――帰って来なくて、当たり前なのではないだろうか。
 蓮はそう思った途端、自分は何を自惚れていたのだと恐くなり直ちに携帯から手を離した。こんなものがあるからいけないのだ、無いと不安になるくらいならば、最初から持って居ないほうが良かった。思った瞬間、ベッドの領域を侵すそれに苛立ち、床に置いてあるクッションへ向け投げ捨てると同時に眼を背けていた。
 もし自分が健悟だったならば、一年に一回、折角の誕生日に田舎のチビなんてきっと相手にしないだろう。
 明日は土曜日なのだから、東京に戻り楽しむほうが正解だと思う。それか、自分のような餓鬼を相手するくらいならば、いくら田舎といえども他の誰かと、大人な女性と、こんな街なんて抜け出して、どこか遠くに―――其処まで考えた時、蓮の耳には玄関の扉を開ける音が聞こえた。
「っ、」
 ガラガラと扉を開く音が誰かという確信は持てなかったが、頭にぱっと浮かんだ心当たりは一人しか居らず、条件反射というべきか蓮は自分でも考えるより先に階段を降りて一階へと向かっていた。
「あれ、あんた起きてたの?」
 擦れ違いざまに云われた睦の言葉も無視し、走って玄関へと向かう。
 そして、たかが数メートルの距離で息を乱したその先、蓮の視界に入ってきたのは――。
「あ、ただいまー。出迎えご苦労」
「……」
 待ち人来たらず、いつもよりも大分遅い帰宅の利佳だった。
「……紛らわしいんだよ、馬鹿」
 勝手に勘違いをしたのは勿論蓮自身、だが八つ当たりだと分かりつつも、気付けば華奢な指でサンダルに手を掛けるその人物を睨み付けていた。
「あァ? なにそれ。いーよ、あんたにはやらないから」
 ツンと蓮から顔を背けた利佳は、相も変わらず清楚なフリルのシャツに身を包まれながら言い放った。その言葉にはどうも自分優位の何かが隠れているようで、蓮はすんと鼻を啜ってから利佳に問う。
「……んだよ」
 言えばその瞬間、よくぞ聞いてくれたとでも云うような、恐ろしいしたり顔と共に、蓮に白い箱を渡してきた。
 見覚えのある白い箱、大きなそれは1年に数回だけしか見ない稀少な品だった。中身を知らないまでも、漂ってくる仄かな甘い香りに水平にしなければという義務感に駆られて硬直してしまう。
 そして、怪訝そうに利佳を見る蓮に落とされた言葉、は。
「折角健悟が誕生日だからって車飛ばしてケーキ買ってきたのにさ。あんたにはやーらない」
「、」
 意地悪く鼻を鳴らした利佳を見て蓮が唇を噛み締めたのは、勿論ケーキが貰えないからという幼稚園児の様な理由ではない。
「は? ちょっと、冗談だっつの。泣かないでよこんなことで」
「……泣いてねぇ」
 利佳でさえ知っている健悟の誕生日、いつもよりも遅い時間の夕食は健悟を待ってのことなのだろうか。
 以前利佳に言われたとおり「一番一緒に居たのは自分」だった筈なのに、何も知らない自分が如何にも情けなかった。たかがそれだけだろうと頭の中を咎めてみても、随分と距離が近付いた気がしていただけに、恥ずかしいとも寂しいともとれる負の感情ばかりが雪崩れ込んできた。
 ずいっと白い箱を利佳の胸元へと押し返し、蓮は俯く。
「なんで今日なんだよ。あいつの誕生日明日なんだろ?」
「だからさー、明日どうせ現場の人やらに沢山祝ってもらえんでしょ? 一日ケーキ食って過ごすんだから食えなくなる前に食っとけっつー話よ。それよか一足先に祝ってあげようっていうあたしの優しさが分かんないのかねこの人は」
「……」
 馬鹿にするように利佳にぐしゃぐしゃと髪を撫でられてしまい、蓮は首をふるふる振ってその手を押し返した。
 その姿を見た利佳は床に置いておいた鞄を拾いながら、呆れたように大きな溜息を吐く。
「ま、誕生日当日にあいつが帰ってくるかも分かんないしね」
 ぽそりと独り言のように呟かれたそれだったが、先程考えていた事項を悟られたかのようなタイミングに、蓮は思わず自分の拳を握り締めていた。
「……今日だって」
「え?」
「今日だって、あいつが帰ってくる保障なんてないだろっ!」
「はぁ? あんた何怒ってんの?」
 きっと睨み付けながら、絞り出すような音量で利佳へと言い残し、蓮は再び自分の部屋へと去って行ってしまった。
 その蓮の見えなくなる背中と階段を上って行く足音の乱暴さに溜息を零した利佳の元、呆れ顔の睦がやってくる。
「丸聞こえなんだけど」
「あ、ただいまー」
「おかえり。姉弟喧嘩もいい加減にしなさいよ」
「知らないよ、蓮が勝手に騒いでるだけでしょ。……だいたい健悟が帰って来ない筈ないじゃんね。あたしが言ってんのは明日あんたと出かけて帰って来ないっつーことなのに」
 馬鹿じゃないの、と溜息を零す数分後、きっと健悟が帰ってくることを確信しているからこそ、利佳はケーキを買って来た。
 利佳が無駄なことはしない主義だということは、蓮が一番存分に分かっているはずだというのに、此処まで不安定になるのは健悟がなにかしたのだろうか。
 頭を過ぎった事項に一瞬だけ眉を顰めたが、睦の訝しげな視線を感じ、恍けた振りを装う。
「……あーっと、これお土産。冷蔵庫入れといてねー」
 白い箱を睦に渡し手を振りながら居間へと入るが、其処は案の定、蛍光灯の電気だけがぽつんと射し込んでいるだけの閑散とした部屋と化していた。
 蝉にも負けないくらいの五月蝿さをもつ二人が居ないことで、明るさを失っているそこに若干の物足りなさを感じながら、溜息一つのそのあと、利佳は罰が悪そうに携帯電話を開いたのだった。



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